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鍵田忠三郎先生 語録
 かぎたちゅうざぶろう せんせい ごろく

鍵田忠三郎先生 語録

1 坐禅
  2 命  3 般若心経・祈り  4 臘八接心  5 大文字行  6 道場  7 誓願  8 態度  9 酒  10 食  11 姿  12 贈る  13 槍  14 時計  15 地震雲  16 中国  17 病気  18 書  19 その他

編集:一箭順三

1 坐禅


 坐禅を始めた頃、道場長に「坐禅を続けてみよう。坐ってやろうと思います。」と言ったところ、「坐らせて頂くじゃよ。」

 坐禅を始めた頃、「坐らせて頂いていますが、何のためにこうしているのか分からなくなりました」と言ったところ、「死ねばいいんだよ。大死一番じゃよ。」

 家から道場まで運動靴で歩いて来た(約9q)ところ、それを見て「修行者は下駄だ。腰が鍛えられるし、足さばきを工夫できる」。以後、般若心経を唱えながら下駄で道場に通った。

 下駄で道場へ歩いてきたところ、先に坐っておられた道場長が「今日の下駄の音は良かった」

 坐禅を終えて、出勤まで時間があるので鏡の前で素振りしていると、道場長が入ってこられて「昔の修行者は千振りといって千回素振りをやったもんだ」。以後、木刀での千振りを日課とした。

 剣道、坐禅を始めた頃、新聞社が取材にきて「体と心を強くするために始めた」と答えたところ、記者が帰った後、先生は「小ちゃいのー」
 
 (坐禅の後で)今日の太鼓は誰が打ったのだ。実に良かった。しかし、どんな音がよいのか皆で考えた。

 坐禅中居眠りをする人を見て「わしも昔は徹底的に坐ったがそれでも眠くなったときがある。そんなときは、畳針を腿(もも)に突き刺したものだ」。以後千枚通しを鞘に仕込み、懐に入れて坐らせていただいた。

習心館道場「坐禅千日行」満行 S.51.12.24
 鍵田忠三郎道場長より「証」をいただく。  

 坐禅千日行を終えて暫くたったある日、他の人には分からなかったはずであるが浮いた気持ちで道場に入ってしまった。道場長は直ちに「道場の恩を忘れるような者は人間じゃない」と一喝。

 よく遅刻して道場に入る私に、「千日が済んだからと言って遅刻して良いものじゃないぞ」

 人さんの為の修行とは、菩提心を持って修行することである。これがなければ自分のための修行である。

 修行する上で大事な事は自分のためにせぬことだ。今日は3月1日だがこういう節に思いを新たにして、修行すると良い。

 修行は人のため、世のため、国のためにさせてもらう、坐らせてもらいましょうというようにすると良い。

 坐禅は、徹底して坐らなければいかん。わしは、若い頃から一生懸命すわってこの程度じゃ。いい加減にすわっていると生涯のものにはならんぞ。

 ここで坐っているのが本物の修行と思っていたら大間違いぞ。こんなのは楽な修行なんだぞ。わしも体が弱ってほんとに厳しい修行を伝えられなくなってしまったが。

 この道場では壁に向かう「面壁」で坐っているが、そんなに壁にくっついて坐るものじゃない。壁との間合いが大切だ。

 坐禅は半時間では身につかんのや。1時間は坐らにゃいかん。

 小川忠太郎という剣道9段の先生は、坐禅は半時間ではいかん、1時間が良いと言われた。私も経験からして同感である。半時間で心を静め、半時間で境地に遊ぶ事が出来ると思う。1時間が適当な長さだと思う。 日曜坐禅教室S.53.2.12

 坐禅は、「只菅打坐」。只ひたすらに坐わる。
 
 坐禅は、数息観がよろしい。出る息1つ。入る息2つ。と進めて、もし忘れたら始めに戻る。 
 息は生死(しょうじ)だ。出る息は死、入る息は生。

 息を吸ったとき命の電気がぽっと点き、吐いたとき消えるのだ。

 坐禅の間は数息観がよろしい。私は444までいつも数えるようにしている。これで大体1時間くらい。

 私は四という数が好きなものだから44まで来ると「放下、定命、布施、斉度、成仏」と唱えて、又次の数に移り、144、244、344で同じ事を繰り返している。参考までに。 日曜坐禅教室S.53.2.12

坐禅のあとで、「本来無一物ということを考えていた。」

 坐禅の道というのは、人生劇場で上手に歌い叫び英雄になるために、また主人公になるために習うものではない。人生劇場いっさいそのものを救うために、坐禅というのはやるものだと考えている。  日曜坐禅教室S.55.7.6

 姿勢が病気の元です。姿勢を正しくすると病気も直ります。姿勢を正すことが出来なかったら坐禅ではない。  日曜坐禅教室S.55.7.13

 ここへきて1時間坐って、これでよいと思ったら大いに間違い。行住坐臥、坐禅でなければならない。  日曜坐禅教室S.55.7.13

 「坐禅をできるだけやってみよう」と中原さんはおっしゃったが、そんなんでは続きません。やはり、生涯かけて、この道で打ち死にさせて頂くという覚悟でやらにゃ。

 人間というのは病気もする。病気したから休もうとなる。しかし病気したときこそが坐わることが大事なんです。その時に心整えにゃいかんのです。体整えにゃいかんのです。だから病気だから休もうとなる。また家でいろんな問題が起きる。そういう時に初めの覚悟が定まっておらんとつい休んでしまうものです。休んだら次に行くのがいやになります。

 やはり、道というのは生涯懸けてですよ。人生、どうせ死なにゃならんのだから、道場で死なしてもらうなんて有り難いことじゃないか。行者として、道場で死なしてもらうなんて有り難いことがあるかいのー。道場だけはいかなることがあっても行かしてもらうぞ。と、こういう気持ちで坐らしてもらわにゃ絶対続きません。

 ね、いい時だけ坐わっておったって、そんなもの続きはせんのです。どうせ行だから苦しいことです。  日曜坐禅教室S.55.7.13

 辻村(友秀)さんはぼとぼつ3ヶ月だそうですが、ご縁があったというだけでも結構です。あなたもここへ来ようか来まいかと色々と考えられたと思うが、そいでここへ飛び込んできた。なかなか勇気がいったと思う。ところが飛び込んできて坐ってみると、坐禅とはなかなか良いもんである。生涯修行の心掛けでやっていこうという心掛けをお持ち頂いたようですが、本当に結構です。
 道というのをみんな知らんわけです。しかし、道を踏み行なわにゃ本当の人生というのはそこにない訳なんですけどね、みんなそれを知らないわけです。知らないでも川を渡ることが出来るんでしょうね。渡ったような夢のような世界でしょうがね。ところが大地に足をふんまえてこれを渡れる、そういう危なげない人生と言うんですか道というんですか、これはやはり、坐禅なんかで本当のものを知って、そして渡らにゃいかんと思います。
 本当のものを知れなくてもかまわない。知る努力をしながら渡ったらそれでよいと思いますね。彼岸、彼岸が仏の国とすれば、彼岸に向かって努力するというんであれば、それでよいと思いますね。
 その時の態度は、人さんを優先する。人さんを先に渡す。自分は渡れんでも人を渡す。と言う努力ですよね。 日曜坐禅教室S.55.8.31

 絶対調和の姿、絶対調和の心が解りますと全ての問題解決ですから、だからそれだけでええ訳です。一つづ問題解決しよう、じゃないんです。
 世の中に一番大事な問題は一つしかありません。一つの問題が解決すると全てが解決するんです。絶対調和の姿が整えられるということ。絶対調和の心とはなんだということ。それは永遠の命です。永遠の祈りです。そういう姿が出来るとですね、それだけで全て解決ですよ。だから、なにもようけ解決せにゃならん問題があるわけではありません。ただ一つ解決すると、全ての問題が解決するわけです。だからその一つに向かってやらしてもらいましょう。だけど、そのひとつは遠いところにあるわけではありません。道は近きにあり、道は坐下にあり。
 そういうことでありまして、それが自然と解決いたしますから。捨てんなあきませんけどね。保つことを考えとったら決して解決しません。捨てたときに解決するものです。  日曜坐禅教室S.55.8.31

 1日に1時間でもこうして坐るということはたいへん大事なことです。なぜ良いかと言いますと、坐禅をいたしますと絶対の境地にはいることが出来ます。それが大事だと思います。宇宙になんかしらん、絶対の境地と言うのがあります。それが絶対安心(あんじん)の境地です。絶対平和の境地でもあると思います。そういうのがあります。それを体得すると心の安人が得られます。みんな絶対の境地というものを身に付けにゃいけません。そうせんと安心が得られない。なにしてみたって安心が得られない、と言うことになります。それを仏の姿と言われとります。
 先ず我々仏教にご縁のあった者は、仏法僧に帰依しなければならんと、先ほども読みました修証義に書かれております。先ず第一に仏に帰依せねばならんと書かれております。仏と言うのが絶対の境地なんです。絶対の境地です。その仏に先ず帰依せねばなりません。そして、法と言うのはそれはどんなもんかということが書かれております。だからそれに帰依せねばなりません。それは自然の法則なんです。天の道なんです。だからそれに帰依せねばならないと書かれてあるのです。
 次に僧、僧というのは人なんですが、僧はそれを伝える人なんです。その道を伝える人なんです。だからその人にも帰依せねばなりません。絶対の境地に帰依する。絶対の境地の自然の法則があります。その自然の法則に帰依する。そして、僧、それを伝える人に帰依する。仏法僧に先ず帰依することから、仏にご縁のあった者の道は始まる。と言うことになっております。それから三聚浄戒(さんじゅじょうかい)、良いことを積極的にやるという戒律。それから最後には十重禁戒。という戒律を守れ。と言うことが書かれている。そうすると仏の位に入れるぞ。要するに絶対の境地には入れるぞ。絶対の境地に入ってあなたは救われるぞということが書かれてある。その絶対の境地に一日一時間でもかまわない。十分でもかまわない。
 例えば地震雲を見る。あれは自然の法則だとわしは思っておりますが、その自然の法則を見る。誰も知らなかったのです。わしが初めて発見したのです。この頃になってやかましく言われるようになってきた。地震を予知する方法を色々言われるけど決定的なものはありません。結局わしの言う地震雲に頼らにゃならんということになってきた。それは自然の法則ですから。しかしそれを見るのにはやはり心を養わにゃ。
 雲が出た、それだけでは解らないのです。地震雲を見る心を養わにゃいかんのです。その為にも坐禅で絶対の境地を体得せん限りそれは解りません。絶対の境地を体得しますと不自然が解ります。自然の法則にかのうた絶対の境地ですから。それが体得できていますと不自然が起こってきますと解るわけです。
 坐禅しとる人は健康であって、災難からも逃れることが出来ます。未然にそれが解るんです。坐禅しとると。簡単に言うたら、電気には+と−があります。+と−がいつでも調和しとる境地。これを絶対の境地といたしましょう。この絶対の境地にいつでもおれる人は、不自然、要するに電気の段差、自分が調和できとるとこの差が見えるわけです。この差が近づいてくると、差があるぞと感じ、未然に防ぐことが出来るわけです。また、絶対の境地にあるもの、例えば剣道だったら切れないわけです。切ろうと思たって切れないのです。切られない境地というのが絶対の境地なんです。また、事故が迫ってきたって絶対の境地の人を犯すことが出来ないのです。そういう境地があるのです。病気がきたって病気がそれを犯すことが出来ない。また反対の病気の時にその絶対の境地を灯すと病気が治ってしまう。宇宙全部が電気の法則に支配されているのです。その際、+−の差のできたのを病気といいます。にんげんのからだで、+と−で差ができた。治す動作が発汗動作であり、発熱動作であります。坐禅によって、平衡を保ちますと病気も治るとこういうことになるわけです。病気も治しうるし、全ての災難を防ぎ得るし、人も救い得るという境地。それが坐禅の絶対の境地なのです。それを毎朝、たとえ1時間でも、たとえ10分でもその境地に入ってきますと、1日それによって災難も防ぐことが出来るし、人さんを救うことが出来るし、そして平和を保つ安心の境地、毎日心慌てることのない境地、ということになると思います。だから坐禅が必要なんです。他の道でもかまいません。剣道でもかまいません。柔道でもかまいません。しかしなかなかその絶対の境地に入るのに時間がかかるのです。坐禅が一番近道なのです。だからこれをやる、読経でもかまいません。一生懸命読経してますと、真理の向かって一生懸命に唱えてますと、自然と境地に入れます。絶対の境地に入れます。入れるからそれでいいんですけれど、しかし一番の早道が坐禅なんですから。これくらい早い道はないんです。坐わって呼吸が整ってまいりますとそれで、絶対の境地にすぐ入れるのです。安楽の法門なんです。これにご縁があったということは本当に結構なことでありまして、ひとつどうぞしっかりとおやりいただきたい。この会があるからじゃなく、自分で坐わってもらいたい。自分で絶対平和の境地というんですか、絶対的な境地を楽しんでもらいたい。これが世の中で一番大事なものであるということが解ったら、その境地を知ったら、それから離れるのが恐くて。しらんだらそれで世の中通れますけれど、その絶対の境地知ってごらんなさい。それから離れるのが恐いもの。そこへ皆戻ろうとする。仏の境地ですもの。絶対真理の境地ですもの。それが有るのですもの。それを毎朝坐禅の中で体得してもらいたい。それがまだ解らない人はしっかりと坐わってもらいたい。そしてこの境地に入った人は今度は三昧境に入った人は、それを保つようにしてしてもらいたい。それがその人の一番の幸せの道です。そして、その境地が解ったらそれを人に施してもらいたい。またその境地がわからんでも自未得度先度他というて、自分が解らんでも人さんを三昧境に入れる努力、仏の世界に導く努力、それをやりなさい、とお経には書いてある。しかし、我々は先ずその境地を体得して下さい。この坐禅にご縁があったというだけでも本当に貴いのですから。
 まあ、世の中のことそれさえやっとりゃそれでええですよ。ちゃんと道は開けますよ。絶対の境地なんですもの。ね、世の中にある本当の大きな真理と言うんですか、大真理と言うんですか。大真理が足元にあるのですもの。今ここにあるのですもの。それを自分で体得するという、これが一番大事なことなんですから。これさえ出来たら他のことみんな、病気も治るし、他のこともいっさい治る。本当に貴い仏縁を得られたのですから、有り難いことであります。そして、それをしっかりと修行して、体得して欲しいと思う次第であります。私も早くからご縁があったんですけれども、この境地というのはなかなか解らんだ。やっとこさ、この頃解って来とるわけです。だからお経を読んだって、経文の意味が全部解るようになってきた。やっとこさ、この頃それが解るようになってきた。初め解らんまま一生懸命読んどった。今や少しずつそれが解ってきた。だからなるほど、こういう真理を、宇宙の自然の法則を、人間としてどうしても守らねばならない人の道を、それをちゃんと説いてあるんだ。その辺が良く解るわけです。しかし経文も何もいらん。一番は坐禅の境地です。それさえ得られたら他何もいらん。仏の姿ですもの。坐わっとる姿が仏の姿と道元禅師も説いておられる。要するに宇宙大真理の姿である。宇宙大真理に帰命した姿であるということを説いておられる。そこには病気も有りませんし、本当の意味の平和だけがある。
 今度新しく入ってきた人おられるのですね。どうぞしっかりと坐わっていただきたい。それはもう自分の為だし、人のため、社会の為でもあります。結局坐禅の三昧境に入りますと、要するに電気の絶対境ですから、だから人さんにも全部通じたものです。自分だけ救われようという境地はないということは解りますよね。自他同転、自分と他人は本当に電気でつながっておる。人を救おうというた時に救われるという境地。人を幸せにしようと思うと幸せになれるんだという境地。その辺の電気のつながりがみな解ってくるわけです。しっかりとどうぞそれやって下さい。
 私も、こないだは選挙という病気をしておった。その病気も治ったとこや。皆さんにご迷惑懸けたけどな。まあ、人間病気も有るんで人生深くなるんじゃ。そんなもの、病気一つもせんような人、ほんまに浅い人生しか歩めんわな。いろんな病気を経て、いろんな苦労を経て、人生というのは深まっていくんでしょうね。ひとつ正しい道、一番正しい道、絶対のこの道を皆さんご縁があって、まだ知ってる知らないは別にして、それに近づく努力をしとるんだ。近づくんじゃない、自分がそれを持っておるんだ。それを体得する努力をしとるんだで、そりゃ、誠に結構なことです。しっかりとおやり頂きたい。  日曜坐禅教室S.55.11.9

 皆さん方の坐わっておられる姿を見ながら自分でも反省いたしておるのですが、みんな坐わっておられる姿は「保つ」姿ですね。「保つ」というのは自分で形を作って、ちゃんと坐わらにゃいかんと思うて一生懸命に努めておられる姿です。2・3人「捨てた」姿があります。「捨てた」というのは一切投げ捨てたというのですか、ほんとに整うて三昧境に入って居られるのがあります。そういう境地の坐禅が2・3人有りますが、その他は大抵は一生懸命保っておられる。
 坐禅も2時間くらい坐わると捨てる坐禅が出来るようになります。1時間位だったどうしても保つだけで精一杯ですね。2時間3時間となってきますと、もう足痛とうてしようないし、体中痛とうなってきよるし、段々足から上への方へ登ってきよるし、それの循環しようるし、そういうことになって参りますと、えーい、ここで死んでやれ、というような坐禅になって参ります。要するに捨てるという坐禅。そいう坐禅になって参りますと恰好がついて参ります。
 それまでの恰好というのは皆保つ恰好や。保つ坐禅もやらんよりやった方がよろしい。坐禅はやらんよりやった方がよろしいけれども、保つ坐禅は境地ではないのですから余り値打ちがない。仏の姿じゃない。やっぱり捨てる坐禅。そんなんをやらしてもらわにゃならんと思います。
 私も自ら反省をいたしておるところです。だから1時間位の坐禅ではダメだという訳や。2時間以上の坐禅になると捨てる坐禅になってきよる。それだったら、これはちと値打ちがあると、こういうことだと思います。
 剣道なんかでも2度の汗と言います。いっぺん汗かく、そこまでの汗ではダメなんだそうです。もう一つ、汗が乾き切って、また汗かく。2度の汗が出よる。そうなりますと境地、そうなりますと捨てた剣道。自分を保つという剣道じゃありません。1度の汗までは自分を保つという剣道。2度の汗になりますと捨てると言いますか、境地の剣道になります。そんなんでなけりゃ値打ちがない、と言われておりますけれども。
 人生でもそうです。保つ人生では大したことありません。捨てた人生でなけりゃダメだと思います。捨てるということ。捨てるというのは自然に任すということです。流る(すたる)ということだそうでございます。要するに流すとういことです。流すという字を、すたると読むんだそうでございます。
 我々はお互い、自分の地位を守ろうとか、今の自分の立場を守ろうとか、自分の食べることを守ろうとか、そういう保つ人生であります。そういう保つ人生ではダメなんでございます。流る人生、要するに一切捨てた人生。そんな人生でなけりゃほんまもんではないそうでございます。皆さんもそういうすたる、捨てる坐禅を勉強して頂いて。そして人生に於いても、捨てる人生、そんなものを共に勉強していきたい。その中で菩提心がなけりゃいかんのですよ。自分だけがそういう三昧境におるだけじゃいかんのです。菩提心、要するに自分を苦しめて人を救う、そういう心がなけりゃいかんのです。そしてそういう三昧境、というところでしょうね  日曜坐禅教室S.55.11.16

 坐禅に、時計を身に付けて(道場へ)入るものじゃない。

 文殊菩薩(お線香)の前を横切るな。

 坐布は、自分に合うのを決めて、それを毎日使うのがよい。

 (直日(じきじつ)が)坐ったまま(坐禅の位置で)鐘を打つのは良くない。(道場の)真ん中において打て。

 坐禅は文殊菩薩(お線香)を中心に座っている。(坐禅の前後は神前への礼は不要)

 坐禅の後、(すべて片づけてから)神前にお参りしている。その後、坐禅の師匠である大洞良雲老師(のお写真)にご挨拶(一礼)をしている。

 先輩から上席に坐るべきだ。

 遅れてきたとか、途中で出るからとかで日によって自分の坐る位置を替えないほうがよい。その場に電気が残っているだろう。

 もし、わしが居なくなって、遅れて入ってきても堂々と上席に坐れば、後輩はそれが良いように思ってしまい道場が乱れる。やはり遅れてきたら一番下に坐れ。

 他の坐禅堂で坐るときは、自分の坐るべき位置より少しひかえて下に坐るくらいがよい。

 遅れたとか、早く帰るとかでも、泥棒のようにこそこそ出入りするものじゃない。いつでも堂々だ。

 遅れてきて、すぐ坐りだす者がおるがそれはいかん。いつでも左右揺身してそれからゆっくり坐るべきだ。

 警策は厳しくなければいけない。もっと強く打て。

この頃の警策は良くなった。「さえ」が出てきたね。
(更に工夫して警策を廻ると)技巧は良くない。

(坐禅の終わりにお経を唱えた後、太鼓を時の数だけ打ち、そのあと鉦を打って坐禅を終わっている。)お経が終わって、直日がすぐ立って行って太鼓を打つのは良くない。お経のあとの静かな余韻も大事だ。十息くらい間をおけば良いな。

坐っていると、坐禅の味わいというものが分かってくる。

(坐っている間に雨が降ってきた。)空気が変わって、落ち着いて坐れるのう。有り難いな。

(坐禅の後)わしは、坐禅にご縁をいただいてほんとに良かったと思うている。坐禅は安楽の法門じゃ。有り難いのう。

 頭で考えるんじゃない。体で考えろ。

 西田恭三さんが、「体で考えられるようになりたい」に道場長は、「体で考えるようになるには、辛いことをすることである。眠い、だから早く起きる。足が痛い、だから坐禅する。このように辛いことをいつも求めていれば、自然と体で考えるようになる。」S.53.1.4

 新聞社が坐禅を取材に来たとき、後で「坐禅を本来撮させるもんじゃないし、皆も坐りにくかっただろうが、また別に、道を広めるという重要な使命も我々にはある。」

習心館道場得度式 S.53.10.24
 山本亀治さんの1500日坐禅達成を機会に、道場長が2人を得度して下さった。達成日は本来26日であるが、道場長の上京のため2日早めての式となった。
 袈裟の裏に、山本さんには「良瑞」、私には「三山良観」の戒名を頂いた。

 坐禅のあと道場の神前にお参りしている。この時打つ柏手の音で自分を確かめていると言ったところ、「江戸時代の学者(名前を失念した)は、柏手の音でその日を卜したという。良いことに気がついた

2003.03.08