石田和外先生を偲ぶ
 いしだかずと せんせいをしのぶ

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故 石田和外
全日本剣道連盟会長を偲ぶ

月刊「剣道日本」昭和54(1979)年7月号
鍵田忠三郎

からだで学び、教える

 五年前、石田先生から日本武道館小道場において、宝蔵院流高田派槍術への入門が許され、西川源内先生ほか三人の奈良市武道振興会の者が初めて槍術の「しごき」からその手ほどきを受けたとき、私は先生のお言葉を書きとめておこうと、ノートをとり始めました。
 ところが、先生は稽古槍をしごきながら、鋭く「私は槍の感触を伝えるのである。ノートは取らぬように」とさとされました。
 私は太い木刀で頭をなぐられたような強い感動を覚え、修行者として恥ずかしく思いました。そのとおりなのだと思います。
 石田先生が、山里忠篤先生、佐々木保蔵先生から、一高の撃剣部で、宝蔵院の槍を、きびしい稽古の汗を流すなかで、その道統を伝えられ、その槍術の途絶えるのを憂い、自分の全霊を打ちこんで修行し、まとめられたものを、宝蔵院流発祥の地、奈良の町の剣士たらに伝えようとしているのに、私は稽古着にも着替えず、ノートをとり出したものだから、直ちに先生から、注意を受けたわけであります。私は、いまでもありがたい教訓をいただいたと感謝しています。
 あとで先生は、「私は生涯ノートを取らぬ」と言われました。先生は、頭とか、小手先の勉強じゃなく、最高裁の長官までされた人であるのに、ノートをとらずやってこられ、からだ全体で学び、行じ、歩んでこられた人であるのだということを、数年におよぶ先生よりのご教示をいただいたなかで知った次第です。
 先生は、からだでもって弟子たちと汗を流しながら、宝蔵院覚禅房胤栄の創始した鎌槍兵法の四百年の道統を、奈良の地に甦らせ、伝えていただいたのであり、いまや奈良市鴻ノ地道場において第十九代を相伝された西川源内先生の指導により、その鎌槍の稽古日になると、三十数名におよぶ弟子たちの槍の掛け声が気合鋭く、大きな道場いっぱいに、百年ぶりに響きわたるようになったのであります。
 先生は、奈良の町に、宝蔵院槍術を、その精神とともに伝え甦らせていただいた大恩人でもあるわけです。
 その大きな鴻ノ池道場には、先生から書いていただいた「養神」の大額がかかげてあります。私たちには「心を養う」とか「徳を養う」という意味は少しくわかるが、先生の「神を養う」の教訓はわかりませんが、ありがたいことだと思っています。
 この額には、先生の修行の深さが偲ばれ、先生の目指しておられるところを、われわれに示し、公案として与え、導いていただいているもったいなさに、身のふるえる感激を覚えます。
 そして先生は、いつも日本手拭いを腰にぶらさげ、生涯書生の態度を堅持され、われわれ末輩にからだで生涯学ぶことを教えてくださいました。
 その先生は、「私は日本人として、日本国を思うことにおいて、だれにもひけをとらない」と、日本国の前途を憂えられ、元号の会の会長、英霊に応える会の会長、全日本剣道連盟会長と、日本民族の魂を正しく伝えることについて、自らきびしく修行され、われわれに、日本人の道と武士道を説き、からだでもって示されてきたので、あります。
  最後に先生におめにかかったのは、今年の京都大会の五月六日であり、武徳殿までお迎えし、ささやかな夕食会を剣道の先輩、友人とともに京大和でやらせてもらったときです。先生も愉快にひとときを過ごしてくださいましたが、温顔、謙虚、厳然たる武士の態度は、いつもながら自然に示される尊い教訓でした。
 最後に歌われたのは「青丹よし奈良の都は咲く花の匂うがごとく今さかりなり」であり、朗ろうたる詠唱でありました。そして例のごとく無足人を口にせられ、西川源内先生、常富先生の介添えを受けながら、微吟、坂道を下られました。
 そして、お泊りのホテルにお送りしたとき、最後におっしゃったのは、「おからだを大事にしてくださいよ」でありました。その後二日、九日早朝に忽然亡くなってしまわれました。
 私の良いこと、悪いこと、すべてをそのまま写してくださる先生という大鏡は、なくなってしまいましたが、先生の尊い遺訓を守り、先生が常に説かれた、国のために、道のために、微力を捧げてまいり、ご恩返しの万分の一をいたさねばと存じている昨今でございます。
 大猷院殿玄武和外大居士先生のご冥福を衷心よりお祈りいたします。



故 石田和外 全日本剣道連盟会長を偲ぶ「弔辞」
財団法人全日本剣道連盟会長代理 副会長 河合堯晴

 

2004.11.06