大文字送り火行を創始する


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大文字送り火行を創始する
鍵田忠三郎

〜『道を求めて事業十年の歩み』から〜
昭和3511月刊 より


1)5年前からの計画
 5年前の昭和318月、当時新若草山ドライブウェイを開通させたわれわれは、大坊山にぉいて戦没者の霊を慰めるために、大文字焼きを計画したのであるが、今5年ぶりに悲願を実現して考えるのは、一切はそうせねばならぬときまっていることであり、自然にその帰結につながってゆくということである。
 5年前最初に計画を立てたとき、われわれは次のような趣意書を発表した。

<慰霊大文字焼趣意書>
 815目お盆の最終日、日本肥鉄土開発株式会社では大東亜戦争の戦死、戦没者慰霊のために、この奈良の東大坊山の地に夜8時から大炬火を燃やし奈良県戦死戦没25千柱の英霊の戒名を読上げ慰霊の横18間・縦100間の大文字焼となし、毎年これを続けるべくここに発表し県民各位の御協力をお願いするものであります。
 この815日で戦争がすんで11年となります。私は復員後今日まで毎朝必ず大亜戦争で戦死戦没された戦友達の霊を慰めるための読経をしてまいりました。
 戦争に勝ったその霊はいつまでも国の興隆と共に慰められるでありましょうが、国破れて、その将兵の霊は誰がお祭りし誰がいつまでもお慰めするのでありましょう。親御はその戦死した子供の霊を一生慰め、妻はその夫の霊を一生涯お慰めするでありましょう。
 然しそれは、限られたその人の一生のみであります。もう敗戦のその日より11年も経過しました。ぼつぼつ忘れ去られる時期が来ておると存じます。その上この戦争では一家全滅、一家離散した家も多いと存じます。時あたかもお盆であり帰るに家なく迷える霊も多いと存じまことに申訳ないと思います。
 その時にこの慰霊祭を相務め、毎年815日になれば敗れた大東亜戦争で戦死戦没なさった25千柱の戒名を必ず読上げ大炬火を大文字にたき、霊を慰めると共に、遠く県内各地より、この火を眺めて下さる人々に、戦死戦没者の霊に合掌してもらう機会をつくりたいのです。
 私は一生涯私の心の慰霊の火は誓って燃やし続けますが、これと一緒にこの大文字慰霊の火を絶やすことなく、毎年815日には、必ず奈良県各地から見えるこの大坊山の地に大炬火の送り火を燃やし続けるつもりであります。
 私の生涯が終ると、又続いて私の子孫が、いや誰かがこの火を燃し続けて、永久に、敗れた大東亜戦奈良県25千柱の英霊をお慰めし、この大文字の送り火を見る人々の心に、25千の英霊をお慰めする心を呼び起してくれるように致したいのであります。この私達の微衷をおくみ取り下さいまして奈良お盆の慰霊行事として続けられますようお願いすると同時に、15日夜8時から戸外に出て東山を見て合掌をお願い致します。
 なお当日は近鉄駅前より現地まで遺族様に限り何名様でも当社バスの出せる限りお運び致します。何卒御参会下さい。
(編者注=英霊の慰霊対象者はその後、明治の戌辰戦争以来の29千余柱となる)

2)中止して遺家族に割木を贈る
 ところが、この地域が史跡東大寺旧境内に当るため、どうしても許可を受けることができず、中止のやむなきに至った。従って大文字焼のために準備した割木は、奈良市内の遺家族困窮者に配ることに決め、812日の各新聞にこの中止を告げて県民各位に御挨拶申し上げた。趣意書を上げてから「中止に至りたる経緯」をこう書いている。
 以上の趣旨によりまず尋知諸賢にはかりました処絶大なる御協賛とあらゆる協力をおしまぬという御激励をうけ、また当日の奉仕を申し出て下さいました方々は数10人に及び、私初め全員はこれに感激を新たにして着々準備を整えてまいりました。会社としては大文字焼の火床の一部が史跡指定地区にかかる関係から早くより法的手続をとるためその筋にそれぞれ交渉を重ねて参りましたところ、何を理由にしてか、荏苒(じんぜん)ただ日をむなしくして今日に至るまで許可を受けるに至りません。準備には時日を必要としますので私共としては焦慮に堪えなかったのでありますが、こと今日に至っては最早その余裕なく一時中止を決意せざるを得なくなりました。まことに本意にもとる痛恨事でありますが、ここに謹んで行事中止を御報告申上げ、大方諸賢の御了解をお願いする次第であります。
 しかし会社としてはこの素志を棄てた訳ではありません。近い将来必ず完全なる理解を得ることを確信し、永くこれを慰霊の郷土的行事として後世に遺す決意を堅持するものであります。15日は社員のみでささやかながらも慰霊のことを取り行いたいと存じます。
 当日のため準備致しました割木は祭良市民生課を通じ祭良市道族の方々にお贈りしたいと存じます。
 在天の英霊も人事を尽した私共の苦衷をお汲み取り願えることと存じます。願わくばその冥助と加護により私共の素志貫徹の日の近からんことを祈ります。合掌しつつ。

3)高円山に大文字送り火の創始を再計画
 こうして5年たった昭和35年、御縁を得て開かせてもらった高円山には、ロツジも建ち自動車道も完成したので、この霊山が僕を呼び大文字送り火の実施を決意させるに至った。上京して靖国神社にお参りし、殉国の英霊たちの御前でこの決心を報告し、愈々これを固めたのである。報告を済ますや直ちにその準備にとりかかった。もう7月も中旬であった。以下はその再度の趣意書である。

<奈良大文字焼趣意書>
 815日この敗戦記念日および孟蘭盆会を期して由緒深き霊山高円山において、大東亜戦争における祭良県出身戦死戦没者の霊を慰めるために、日本一の大文字焼きをもって慰霊祭を挙行することを発表し、県民各位の御協力をお願いするものであります。
 当社(当時の日本肥鉄土開発株式会社)が去る昭和31年の夏奈良東山の大坊山において慰霊大文字焼きを行うべく、数多くの方々の御賛同と御協力を得てその準備を整えながら、たまたまこれが史跡指定地区であるため当局の許可を得ることができず、中止のやむなきに至りましたことは、大方諸賢の御記憶くださるところと存じます。しかしながら、一時中止しなければならなくなりましたとはいえ、県民各位には申すまでもなく、その時に私は戦死戦没者の霊に私の日の黒い間は必ず誓って慰霊大文字焼きを再興し、永久に続けられますようにしますと、お約束申上げ、敗戦後つづけさせていただいております毎朝の御回向はもちろん、毎年815日には全従業員と共にささやかな戦死戦没者の慰霊祭を挙行させていただいてきているのであります。
 加うるに、昨昭和34年より尊い御縁を頂戴し、県民各位の暖い御協力を得て拓かせていただきました高円山は、御承知のように聖武天皇が離宮を営まれ、また弘法大師の師匠である勤操大徳が自坊石渕(いわぶち)寺を開かれたと伝えらる、山相豊かな山であります。この霊山高円山に御縁をいただきましてより今日まで、ドライブウェイや高円山ロツジを創らせていただきつつ、戦死戦没者の英霊を供養させてもらうのはこの山以外にはないという確信を抱き、勤操僧正にゆかり深い大安寺の河野貫主の御賛同を得て、ここに本年より慰霊大文字焼きを実施させていただく決心を固めたのであります。御縁の神秘はいわばこの高円山自体が英霊たちを呼び招き、そして慰霊供養の送り火をわれわれに命じたもうたというべきであります。
 更に、この高円山は高円神社の御神体のような位置にあり、戦死戦没者の英霊をお祭りするために建てられた護国神社が敗戦後高円神社と改杯されるに至りましたことも、ここ高円山で回向の大文字焼きをさせていただくことになったことを思うとき、不思議な目に見えぬ力の導きと言うほかはなく、おのずから襟を正さずにはいられないのであります。
 815日は日本が敗北した日であると共に、平和を国是とする新しい民主日本が再出発した記念すべき日でもあります。しかしお国のために一命を捧げられた戦死戦没者の霊は、敗戦15年を経て次第に忘れ去られようとしております。戦い敗れて多くの英霊たちは寄るべなく迷っておられる状態であります。同じ世代に生を享けた日本人として共に戦った私たちが、負け戦さという現実はいかにもあれ、この戦争の犠牲となられた方々を供養し、その霊を何時までも永久に子孫につたえ、お慰め致しますことは、まことに私達の当然の義務と言うべきであり、ここに慰霊大文字焼きを決意した所以であります。
 なお、この慰霊行事を大文字焼きということに決定いたしましたのは、「大」という字が「宇宙」を意味し、また「諸霊」ひいては「人」を意味するものであることに意義を見出すからであります。また、京都の大文字焼きが弘法大師にまつわる慰霊の施火、つまり送り火に端を発するものであることを知るとき、その師勤操大徳にゆかり深い高円山で大文字焼きを始めることは、これもまた深甚な意義をになうことだと信じます。
 ここに奈良慰霊大文字焼きを創始させていただくことに当り、冬の若草山焼きに照応する夏の観光行事ともなりうるものであるとはいえ、私たちはこの行事をその本源の慰霊の意味において実施し、奈良県25千の大東亜戦争戦死戦没者を僧侶約30人による戒名の読み上げと、縦横80間に及ぶ日本一の大炬火とをもって回向し奉ること、日本の国がある限りこの慰霊大文字焼きを永久につづけて行くことを、天地万霊に誓うものであります。
 県民各位におかれましても、この日本一の大文字の送り火を遠く眺め、国のために死んだ25千の英霊をお慰めする心と平和への願いを呼び起されて、この心この願いを子々孫々にまでお伝えくださると共に、毎年815日お盆の敗戦記念日には、全県あげてこの奈良慰霊大文字焼きを挙行しつづけられますよう、御協力お願い致す次第であります。(合掌)

 こうして僕は一方で、護国神社へ同志達とお参りして英霊たちにぬかずき、命をかけてこの送り火を創始するのみならず末永くつづけることを誓うと共に、人の世話にはならないで自分の力だけでこの創始を実現する決意を固めて、気違いのように突進していった。霊のことをやるときは殊に、気違い状態にならないと出来ないわけがあるが、考えてみれば、部下たちはかわいそうだ。その気違いについて来ねばならない。感謝の心をなくしてはならぬ。

4)日本一の大文字を描く
 「一」を60間、「ノ」が90間、「丶」が70間、という日本一の規模をもつ大文字を描くには、ずいぶんと苦労をした。暑いさなかに道のないガサの中を歩いて選点したのだ。白布を先につけて棒をもって歩かせ、僕は木の上へ登って怒鳴るわけだが、下から眺めてつけていた見当がここでは全々つかず、大いに弱った。
 日本一の大の字を書く為には、それ相応の苦労があるものだ。日本で一番の苦労も英霊の為にいとわぬと決心した。松井取締役、秋田、菅下両社貝、宮本、中田両氏も苦労してくれた。
 僕はその時、弘法大師が初めて京都如意岳に「大」を描かれたときの苦労がしのばれ、感動を深めたものだ。なお、高円山は如意岳と同じ高さなのも、不思議な縁である。
 そして僕はその由来を次のように綴って市民に訴えた。

<慰霊大文字送り火由来>
 1,200年の古い歴史をもった奈良の都には、日本のふる里にふさわしい祭良ならではの、美しい、なつかしい、みやびやかな行事の数々が、一年を通じて古都の香りを漂わせています。
 夏8月にも、東大寺二月堂の「およく祭」、春日大社の「万燈籠」など詩情豊かな宗教行事が行われますが、今回孟蘭盆の15日、鍵田忠三郎氏の発願によって創始されることになりました「慰霊大文字」の送り火は、その精神において、鎮護国家の奈良仏教と通じ、その規模において、幽玄華麗な祭良文化と結ぶ昭和に再現された、上代奈良の最も豪壮な絵巻として、この後永久に伝えられる行事であります。
 この行事の中心である送り火が、京都、箱根等のそれと並んで「大」を形相と致しますのは大の字が「宇宙」を意味し、また「諸霊」ひいては「人」を意味し、人体にひそむ75法という煩悩性の焼却と、諸霊に供養する清浄心を現したものであります。場所として高円山を選びましたのは、かつて聖武天皇がここに離宮を営まれ、また弘法大師の師匠である大安寺の聖僧勤操大徳が自堺石渕寺を開かれたと伝えられる霊山であり、更に殉国の英霊をお祀りする護国神社の御神体のような位置にこの山があるからであります。
 当日は午後7時から奈良公園の飛火野で、「大文字慰霊祭」が、市内30会ケ寺の僧侶の御出仕によって厳かに行われ祭良県出身戦死戦没者28千柱の英霊の戒名を声高らかに読み上げ、ここ飛火野に御迎え申し上げて、遺族及び一般の「水向え回向」があります。
 8時、大文字が点火されますが、当日まで精進潔斎をつづけた、高円山に最もゆかりの深い白毫寺村の農家組合30人の御奉仕によるものであります。
 一が60間、ノが90間、\が70間、これは日本一の大規模なもので火床108穴、1穴に松割木を10余束積み上げ、その間に枯葉を入れますが、大の字の中心は「金尾(かなお)」と言い、ここにはこれ等の割木が数組まとめておかれています。各火床は指揮者の合図と共に一斉に点火され、祭良の夜空を彩り祭良県各地、京都府の南部から見える日本一の大文字送り火が読経と共に古都を中心として、全日本へ明るく燃え上がるのです。尚この行事は、あくまでも本源の慰霊の意味において実施されますが、冬115日の若草山焼と照応して夏の大観光行事ともなり古都の情緒を世界に示すものと信じています。昭和35815目を第1回とし、毎年815目、永久にこの送り火は絶えることなく子孫に伝えてつづくものであります。(「慰霊大文字送り火」の集いで)

5)精進潔斎
 決意を定めて準備に没頭しながら、僕は身を浄め保つために、女を断ち、酒を断ち、臭いもの一切を断ち、朝の読経時間を増す等の精進をつづけた。社内の大文字関係担当者である今中常任監査役、中川嘱託(僧簿)、秋田社員も最後の2週間は僕にならい、大安寺の河野貫主も毎朝3時からお勤めしてくださり、また僕の家族全員も僕に協力してくれた。
 その頃、大和タイムス86日号の「記者席」欄には、こんな文章が見られる。

 終戦記念日の815日、奈良高円山にはじめて大文字焼きを行い、戦没者の御霊をまつろうという新しい事業計画を発表した高円山土地KKの鍵田忠三郎社長、このところ、この事業と真正面から取り組んでいる。なんでも、信仰家の鍵田氏のこと、御霊をまつるにはまず自らが精進潔斎する必要があるというので、去月31日から15日まで、女色、四つ足の獣から魚、鳥類に至るまでの動物性食品、娯楽から口を甘えさす冷い氷類まで一切断ち、朝はいつもより1時間早い4時半に起き読経1時間(平素は15分くらい)そして36度という炎熱の社長室でネクタイもはずさず仕事に精勅するという行の生活を続けている。当の御本人は「霊をまつり、将来に伝えるには、このくらいのことは当然で、仕事一すじに精出すのはすがすがしいものだ」といっているが、この仕事を担当している4人の社員も同じ行をやっているというから御苦労さんなことです。

6)2万8干3百25柱の英霊を祀る
 5年前に誓いを立てた英霊たちとの約束を果すべく、懸命に精進をつづけていると、自分のカではどうにもできないようなことが次々と出来てゆき、お陰で大過なく初志を貫徹できたわけであったが、多くの人々の御協力には感謝しなければならぬ。
 護国神社で28,325柱の英霊の名簿を30冊の霊記に写しこれを大安寺に納めさせていただいたのであったが、遺族厚生会長の谷井氏の御協力は有難かった。大安寺河野貫主の敬虔な御協力は特記すべく、奈良佛教会の30カ寺の協力態勢がととのったとき、河野貫主が言われた「霊が仕事しますよ」という言葉は、いまも深く心に残っている。

7)飛火野で慰霊祭を行ないノロシを上げる
 春日神社とは最後の瞬間まで交渉しなければならなかった。当日の開催予定時刻まで掘川権宮司の家まで行って話し合ったが、境内であるというのでついに御位牌を置く許可はもらえず、大安寺の青年団の人と皆川英眞和尚に山の上の送り火現場まで行ってもらい、供養したのである。
 当日は約3千人が祭場に集まり、全体で1万人は動いたであろうが、歴史は繰り返すもので、かつて千年の昔ノロシを上げた飛火野で、点火を合図するノロシを上げることになったのは、不思議な導きであろう。僕が当日捧げた『発願文』を転記しておく。

<発 願 文>
 惟時昭和35815目、茲(ここ)奈良飛火野の浄域に於て仏縁の導さのままに祭壇を設け仏前を荘厳し三世十方の諸仏並に高円山開山の祖勤操大徳の照覧を乞い同縁諸賢の臨席を得て、鍵田忠三郎同志と共に奈良県殉国の諸霊28325柱の慰霊大文字送り火の行事を発願するに当り、身を清め、心を正し、天地万霊に謹んで申し上げます。
 そもそもこの行事はもと昭和31年夏、奈良東山の大坊山において発願し、これが成就と初志の貫徹を固く英霊に誓い広く県民に約して今日に至りました。たまたま旧臘緑の導きを得て同志と共に開山致しました高円山は、その昔、平城の御代、世界最大の毘慮舎那仏を建立せられました聖武天皇、ここに尾上宮の離宮を営まれ、豪邁の英志と深い仁慈を養われた由緒深い霊山であります。更にこの山気は三輪の聖僧勤操大徳をここに呼び安居の石渕寺千坊の殷賑を招きました。勤操は空海剃髪の師日本仏教始祖の大智であります。想えば欽求浄土の誓願と国家平安の聖業はすべてこの高円山の山気より発し星霜1200有余年、日本仏教の故郷として魂の里帰りの聖域として、高貴な生命と真言の妙理を秘めたまま雲外に四時の美を重ねて参りました。
 今、歴史の輪廻と宿縁の大悲はその生命と真言の導きのままに、ここ高円山に慰霊大文字送り火の啓示を与え給いました。鍵田忠三郎同志と共に身を正し心を整え精進もって、本日ここに最初の大文字送り火に合掌し点火致します。
 願わくばこの火殉国の英霊供養の浄火となり、国家鎮護の聖火となり、広く世界に安養浄土の仏火となります様宇宙万霊に祈願致します。
 又願わくば、われら、未来永劫、この火を伝えて国土の安穏を祈り子孫万代この火を消すことなく慰霊の誠を誓って伝えんことを、在天の英霊来りてわが微衷を享け永く冥助を垂れ給わんことを赤心述べて発願文といたします。       (合掌)

8)協力してくれた人たち
 霊を祀る仕事に対して一切が協力的であったのは、英霊のお力であるとはいえ、発願した者として感激は大きかった。
 中田武夫氏を中心とする白毫寺村民の協力がなければ、送り火は成就しなかったかも知れない。当日は35人が火床を守り、点火してくれたのであったが、白毫寺村民が今後も永久に続けると決議してくれたことを伝えておかねばならぬ。中田氏の努力は大きかった。
 その他、自衛隊音楽隊、奈良警察署、消防署、県遺族厚生会、観光協会、奈良市長、奈良県厚生課、奈良仏教会の協力、また大文字うちわのために揮毫ねがった大洞良雲老師、山上で供養をしてくれた皆川英眞和尚、また大安寺青年団に対しても、心からの感謝を捧げたい。これら多くの方々の御協力があったとはいえ、3日間降りつづいた雨がその朝から上がりはじめたこと、山上では15ないし20メートルという強い風が吹き、消防署では中止を勧告しようとさえしていた矢先、ノロシの上る直前にピクリと止んだこと、などを思うとき、目に見えない大きな力の協力と御加護に襟を正さずにはいられない。
 そして特に感じたことは、この慰霊大文字送り火の創始を御縁を得て成就させてもらったことによって、10年必ず永生きして霊を祀る責任を果さねばならぬということである。そうでないと、この行事を永久に子孫に伝えられない。僕が10年続けて務めると、子孫達は後世伝えてお祀りしてくれるであろう。

 最後に翌16日の各新開に報道された記事のなかから、一例として毎日新聞のそれを引いておく。
(奈良)[うら盆]の15日、奈良市では古都にふさわしい“火の行事”2つが夏の宵をいろどった。
 春日大社では‥・(中略)
 2次大戦の戦死者の霊を慰めるという趣旨で、京都大文字よりも1日先にこの日午後8時から奈良市東南郊にある高円山腹で、大文字焼きが行われた。今年からはじめて行われるもので、県遺族家厚生会、県、奈良市観光協会などが協力、午後6時半奈良公園飛火野の祭壇で東大寺二月堂主任狭川明俊師ら30人の僧が手分けして県下28325柱の戦死者の霊記を読み上げ読経、自衛隊音楽隊約40人の「国の鎮め」「栄光」などの吹奏があり、やがて約15キロ離れた標高460メートルの高円山の山腹の「大」の字に108の火床を掘り、大きさは京都をしのぎ“日本一”という自慢のもの。大文字は今後お盆の年中事行にし、若草山焼きとともに名物行事にするという。

 なお、テレビのニュースでも報道されたことを付け加えておく。

2003.05.21