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坐禅のすすめ 4年ほど前から毎日曜日の早朝、中央武道場に於て参禅会を市が催し、今日に至っております。毎回老若男女30人ほどの参禅者です。それの坐禅の指導につとめ7時より8時まで1時間坐ったあと、30分の提唱をしておるわけです。 皆さん、おはようございます。今日もこの中央武道場の坐禅会に参加していただき一緒に坐らせてもらうことができました。ごくろうさまでございます。それでは私から坐禅の大事なことについてお話を致しましょう。 それでありますので、我々は坐禅さえしておれば仏教者として、釈尊の説かれた道を踏み行い間違いなく成仏できるのであります。お経をあげなくとも、仏教者として、救われるのであります。 然し、又、一生懸命お経のみをあげること、それ自体も仏法そのものなのであります。だからお経を一生懸命あげることもおろそかにできません。それによって、仏法は悟ることができるし、宇宙の大生命にすべて合一できる、即ち、成仏できるということなのです。だから読経も坐禅も同じく仏法として大事であり、それぞれ成仏への道筋なのです。然し、われわれ、ご縁があって、こうして、日曜日の早朝より坐禅をしていますが、私の云いたいのは、この坐禅のみを、只然ってしているだけで、自然と救われるということです。坐禅している姿が、もう既に救われている姿なのです。 坐禅そのものがちゃんと仏法として人の道を拓いてくれるのです。坐禅することそのまゝが仏の教えであります。それでありますので坐禅をしっかりやっていると自然と自分も救われるし、又、人も救うことができるようになるのです。坐禅とは、そのような救われ、救うカを持つ仏法そのものなのであり、皆さんはこの尊い坐禅に御縁ができて、こうして只ひたすらにお坐りいただいておるわけでありますが、どうぞしっかりとこの坐禅のみを迷わずおやりになっておればそれで良いのです。そしてほかには何もしなくともそのまゝ救われるのです。道元禅師の仰合る「只管打坐」でいいのです。 僕は、今、般若心経を只、ひたすらに上げております。22年前に般若心経百万巻読誦の大きな願を立てて、その百万巻にだいぷ近付いて今は、95万巻を少し越えたところです。その般若心経の行を毎日やっておりますと、他の仕事はなんにもできない時があるのです。そんな時は今日一日何をしておったんだなあと思うことがあります。私は寝る前に毎日必ず日記をつけますが、今日一日忙しく、何のために、走り廻っておったのかな、と思うことがあります。然し今日も般若心経の読誦だけは、その定めた数のノルマだけは果すことができた他になんにもようせんだ一日だったが、と反省する時がありますが、然しそれでよかったのだなと思うのは、般若心経を数多くあげさせてもらって今日一日もお蔭で充実した一日であったと、後から振り返ってみたときに般若心経の大きな「いのち」だけが充実感として残っているのです。 ほんと、ね、お金を溜めようと思って、一生懸命働いても、地位名誉を得よう思うて一生懸命に努力しても、又、いろんな欲を出して毎日あくせく働いても、お互いそんな生活のことを後から振り返ってみて、なんにも残らないのです。 何れお互いに死ぬ時が来ますが、名利を求めての人生では、その死ぬ前に一生の越し方を振り返って、夢の如くなんの足跡も残りません。結局不滅の大生命とともに残こるのは般若心経だけだったなと、思い当ることとになると思いますし、般若心経を毎日精進してあげさせていただいたという気持で安心して死んでいけると思います。われわれが、死んだ後の世界においても般若心経は生きているのです。その辺のところが近頃、私には少しくわかるのです。私は今、般若心経百方巻の行だけをやらせてもらっていますがあとで振り返ってみて、あの時あれで良かったのだなあ。と思うでありましょう。 同じく坐禅もその通りなのです。只坐禅を黙って一人でやっていて空しかったということは絶対ありませんから……。これはもう皆さんも、ずっと坐禅しておられて、お分りだと存じますが、後で振り返ってみて坐禅だけはやって、虚無感というものがなく必ず良かったということになりますから……、 例えば、そこにおいでの山本亀治さんのように生命がけで三千日の坐禅行を発願されて、もう三千日にだいぷ近付いておられる。今年の12月7日に三千日を成就されるわけです。要するに9年間ですが、一日も欠かさず坐禅され面壁九年の達磨さんと同じく三千日坐禅行を完結されるのです。一口に云って三千日ですがこれは大変な行なのです。実に偉いと思います。然し、反対に、只然って九年間も坐っていて、馬鹿になってしまってどうするんだろうな。達磨さんのように足が腐り無くなるまで坐ってしまってどうするんだろうな。と思われるかも知れません。達磨さんのように坐り過ぎて、仏法を悟っても動けなくなって、仏法を広め、人を救うこともできなくなってどうするのであろうと思われますが、それは心配いらないのです。動けなくとも仏教では無作為の徳というものを発揮できるのです。森羅万象、達磨さんのような人になると皆集ってきて自然と皆んなで助けてくれるのです。だから達磨さんは動けなくとも大きな神通力を使って総ての人を救うことができるのです。だから達磨さんを見てごらんなさい。中国仏教界における仏教の中興の祖というんですか、禅宗の祖となられました。日本に入つてきている禅の教えは皆この達磨大師をその祖と仰いでいます。我々もこの1500年前の達磨大師の禅の教えに従い、毎日坐禅をさせてもらっているのです。只、面壁し、九年間坐っておられた達磨大師のお蔭です。只黙って坐っておられた達磨さんが最も尊いんであり、現在に生きて大衆を救っておられるのです。最も大きい衆生済度の仕事をしてなさるんです。だから坐禅それ自体が尊い仏法、それ自体の仕事であり、坐禅それ自体が道を拓き人を救う仏法なんであります。皆さんもどうぞその辺を悟り、しつかりと坐禅に精を出して下さい。 坐禅をしたら他の仕事も良くできるから坐禅をしましょう、という人があります。又、坐禅したら頭が良くなる。坐禅したら健康になる。坐禅をしたら何かしらんが仕事の能率が上がります。それだから坐禅をやりましょうとすすめる人が有ります。坐禅が従で他の仕事が主なんですよね。その主だと思うておる仕事のことを後から振り返ってみたら何もその仕事が残らず無いのです。従と考えた坐禅の「いのち」だけがいつまでも有るんです。何故なれば、坐禅というのは、私のいつもいう宇宙の大きな「いのち」。それが仏というものでありますが、その大きな「いのち」 の仏に帰一する、合一する仕事が坐禅なんです。 われわれの住む、この世界には大きな「いのち」があり、その大生命の中に我々の住んでいる宇宙もあります。宇宙全体を包含する大生命、その中に我々が皆おるのであります。地球もその中に存在いたします。その偉大な「いのち」に合一する仕事が坐禅という仕事なんです。坐禅で瞑想の境地に入りますと、その時にはその偉大ないのちに合一できる時なのです。時間空間を超えた大きないのちに合一できる。だから、この坐禅が世の中で一番大きな仕事なんです。 宇宙の大きな「いのち」に比べればわれわれのやっておることなんて、人間の身体なんてほんとに小さいことであります。然しその大きな仏とも神とも申します大きな生命に身心もって合一できる仕事でありますこの坐禅行は一番貴い大事なことであり、これが人間として、一番正しい仕事であり、これが一番大きな力を将来ともに保ちうる大事業、それが坐禅なんです。どうぞお間違いなくこの辺を坐禅で悟ってもらいたい。 それで我々は坐禅さえしっかりやっておればそれで良ろしい。ほかに何もせんでも良ろしいと信じます。然し人はそれをみて、あれ馬鹿者だな、坐ってばかりいて何にもしとらんがな。ちょっとあの人、気が狂ったのかな。黙って坐ってばかりしておるけれど、あれちょっと頭がおかしいのと違うかな。というかも知れません、然しそういう馬鹿になって坐禅をする人が、それがほんまもんの人であって、他の賢い人達と云われる人が長い眼でみると皆頭がおかしいのであります。どうぞ一つ迷うことなく馬鹿になって坐禅に精出して下さい。死ぬ前になったらその辺のことが良くわかりますから。死ぬ前になったら成程鍵田が言いよったとおりであったと。只だまって坐禅さえしておれば良かったんだというそのことがはっきりとわかってきますから。然し、その死ぬ前にわかったのでは遅いのでありますから、どうぞ一つ、しつかりと、只今の坐禅に精を出して下さい。 それで私は云うのです。皆さんがこの坐禅に御縁ができただけでも貴いことなんです。迷うこと要りませんから。そんな貴い坐禅の御縁を皆さんはいただいたんですから、しつかりと生命かけて坐って下さい。今、小賢しく働いている人達、そんなものは、雲つかむようなもので何んにもあとに残こりやせんですから。どうぞバカになって坐って下さい、一切捨てゝ坐禅しておるその人が一番貴いんであるということがいずれわかりますから。だから皆さんはその坐禅という貴いご縁を得られて、こうして今朝もちょっと寒いけれども、一緒に坐りに来て下さってるのです。誠に尊いことであります。皆さん、もう何も右顧左眄することいりませんからしっかりと只生命がけで坐って下さい。そうしたら必ず、ちゃんと人生の大道が拓けてきますから……。 合 掌 それじゃこの前の日曜参禅会に続いてお話しを致します。この前の時は、坐禅そのものが仏法なんだということについてお話し致しました。道元禅師も坐禅している姿そのものが仏の姿であると教えていただいておりますが、その坐禅しているその姿がそのまま仏法を行じている姿なんであります。 われわれは今まで、坐禅をすると仏法がわかってきて仏によって救われるのであるという考え方をもって坐禅に精進をしてきておるわけでありますが。私もそういう未熟な考え方で坐禅をして参りました。ところが、坐禅することそのままが、仏法を行じている姿であり、そのまゝが救われている姿であることがよくわかってきたのであります。私達が坐定しておるその姿が、そのまま仏の姿なんでありますので、仏とか、仏法というものは、他所にあるものでもなんでもないわけであります。よそにおいでになる仏を求めて、一生懸命坐禅することによってその仏がやって来て救ってくれるものではないのであります。仏はこの宇宙全体に充満しておるものであり私達、そのものがすべて仏の頼れであるのでありま顕れでありますので、われわれが坐禅をして、一切を放下して宇宙いっばいに坐るとその時に宇宙の大生命の仏と感応道交して仏そのものにわれわれが成るのであります。 又、この前にも申しましたとおり、専心読経することそれ自体が仏の姿なんであります。仏教の経典には、仏とか仏法とはどんなものであるかということが書いてあるわけでありますが、教典を一生懸命に続経すると、その続経しておるその姿がそのままが、仏の姿に成るし、そのままが仏法を行じている姿であるというわけであります。専心続経することによってそこにわれわれと仏法との間の隔てがなくなるわけであります。ついぞ我々は未熟でありますので坐禅をして仏に近かづくとか、読経をして仏法を理解するとか、考えがちでありすペて仏との間を対立して、考えますけれども、そうじやないのであります。坐禅をすること読経することそのままが仏法を行じることでありそのままが仏の姿なんであります。仏典には即身是仏と書いてあり、先程も皆さんといっしょに読経いたしました修証儀の最後の項には、即身是仏とはどんなことだということを、探求すべしと、それが仏恩に報ずる道であると書かれてあります。その身そのものが仏そのものの姿である。即身是仏であり、坐禅組んでいる姿とか続経しておる姿とか、その姿はそのまま、仏の姿でありますぞと教えられています。その姿というのはどんなのかといいますと、それは宇宙の大生命に合一して慾心なくて万物を育成する慈悲に満ちた姿でありますけれども破邪顕正の相も兼ね備えた無我なるものでありましょう。そして、宇宙の実相というのはどんなものかといいますと、それは仏の充満した姿であり、簡単に言うと仏とは、宇宙いっばいの電気みたいなものであります。電気は姿は見えませんけれども、あることは確かで大きな力を発揮します。そし無私なるものであります。その電気には同種の電気は反撥し異種の竜気は引き合うというような法則が有ります。それが仏法なのであります。そして流動的な電気のようなものが、太陽も地球も九つの惑星もすべて宇宙全体を形造っておるわけであります。 人間もその一つの現れであり、電気体であります。その電気の調和が人間の安定健康の姿であります。人間の場合その電気は脳へ集るんでしょうか、心臓へ集るんでしょうか。そこで電気体として調和がとれているのであります。人間全体の電気の調和をとっておるわけであります。脳から神経が両方へでておるんでありますが、それが交感神経と副交感神経というそうでございますが、それがずっと身体全体の調和を電気的にとって伸びておるわけであります。手の先から足の先まで神経が伸びておるわけであります。それで、頭の左側の脳で命令するのか、前頭葉か後頭葉かどこで命令するのか知りませんが、何やらこの頭の辺から命令するわけです。そしてそれが調和がとれておるとよいのでありますが、それが、ちょっとこの辺で(頭を指さして)神経も一緒に伝える血管が切れたりすると、脳血栓だとか、脳溢血だとかいうて、片方の神経(電気)だけが流れず、不調和を来した状態となって片一方の身体が動かなくなる。人間電気の不調和の姿が、不健康な姿であり調和のとれた姿が健康な姿であります。 坐禅というのはその人間電気(神経)の絶対調和に至る姿であります。絶対調和の姿というのが宇宙の実相であります。坐って絶対調和の姿になりますと、宇宙の大生命(仏)と最も感応し易い状態になるわけでありますので宇宙全体の生命力が坐禅する身体に籠ってくるわけです。だから、宇宙の電気を集めて大きな神通力というような力も無作為でも得られるんだろうと思います。坐禅をして調和の姿を保つとそういう大きな力も得ることができるわけです。だから健康にもなれるわけですし、頭も安定して、最もよく働く状態となるのです。だから坐禅組んだら頭が良くなる、坐禅組んだら健康になる、坐禅組んだら大きな神通力が得られるというのです。それは坐禅すると宇宙の大生命と合一することができるのですから、大きな力に援けられるわけです。それを反対に小さな慾心で以て、隔てをつくり大きな宇宙の仏(電気)の援けを断るのは、ほんとに勿体ないことです。 その宇宙の大きな生命力を使わずに損をするだけではなく、毎日、その大きな生命力を敵に廻して生活しておるものもあるのです。我々の人間仲間には神様とか、仏様とかを、敵に廻して平気で生活しておるわけであり、このような人が多いわけであります。このような人々は不幸の連続であり救われることはありません。宇宙電気の中で生活しておって、その宇宙電気を知らず、自分中心の考え方でそのすべての電気を敵に廻すのでありますから、神罰・仏罰があたり滅亡の道よりたどれません。早く目覚めねばならないのです。そういう大きな宇宙全体を支配しておる生命力というんですか、宇宙全体を動かしとる大きな電気のカというんですか、それが神仏なのであります。その神仏の一切の支配の中に我々が生存しておるわけであります。あんまり大きな神仏という大海の中に生存するものですから、私がいつも申しますとおり、大海の中におったら、水というのがどんなものかわからない。空気の中におったら我々又、空気の恩恵というのがわからない。空気なんかだったら大気園という地球の周囲だけをかこんで存在するものであります。水といい海もこれは地球の一部分のものでありますが、もう一つ大きな地球も、太陽も天体全体を含めて調和をとる大きな電気の如き生命力が、それが神、仏の姿であります。その大きな宇宙の生命力の仕組み法則を、お釈迦様が悟られたのであります。今から2500年前の12月8日、東から昇ってくる明方の金星を観て、宇宙全体の生命力の法則を悟られたのです。だからこの仏の大法則から離れて人間は生存できるわけがありません。人間の悩みも四苦八苦もすべて、この法則仏法を知り、この法則に従えば。総て解消できるものであります。釈尊はこの宇宙の根本的な生存の法則を悟られたのであります。それで仏教の経典がつくられたのであります。経典というのは釈尊が言葉で話されたのが経典になっておるわけであります。これはお釈迦さんのお言葉であります。お釈迦さんが宇宙を包含する大きなカと、その大きな生命とそしてその生命の法則をはつきりと悟られまして、そしてその法則をそのまま迷える人々を救うべく、苦しめる人々と救うべく、話されたのが仏典であります。それだから、この仏典それ自体も仏の姿であるのであります。又、釈尊は、その成道のため坐禅を徹定して組んで、宇宙の大生命に合一されて、そして悟られたのであります。だから、坐禅そのものも仏法の姿なのであります。その辺の対立がなくなりまして私も近頃になって少しく仏法そのものがわかって参ったところです。今までは、私もやっぱり坐禅を一生懸命にやり読経をやってそして、仏の所へ近付く努力をせねばならんと考えておったのです。ところがそうじやないんです。我々がそのまま仏の顕現なんです。しかしその仏の中にいて、自分で欲心というようなもの、要するに宇宙の生命の法則に背くような考え方を持つもんだから、悩みが起こるし、苦しみが起こるし、それで、天寿を全うせんで、死んでしまったりしてしまうのです。我々が慾心を捨てゝ坐禅の絶対調和の姿になりますとその宇宙の大生命の法則にそのまま合うようになりますので、そうしますと、天寿を全うできますし、そしてあらゆる悩みと苦しみも解消できる。その方法をいろいろと教え伝えていただいたのが釈尊の仏教という教えであります。私の信づる仏教の本義を少しく説いてまいりましたが、その辺のことは坐禅をしておれは自然とわかることと思います。 その辺の大事なことをお互いに悟りたいと存じます。われわれは有難いことにこうして坐禅というものに御縁ができて喜ばねばなりません。仏教坐禅をさせていただくというこれだけ貴い、偉大な教えはないのでありまして、宇宙全体の生きる大法則が示されてあるのですから有難いことです。それで正しくわれわれが生き。生存の法則をそのまま体得できるのが坐禅であります。そういう、貴い坐禅の御縁に我々は相い会うことができて、誠に有難い仕合せであります。それだから、われわれはしっかりと坐り精進せねばなりません。この坐禅を習するという仕合せに相会わず、知らずに救われず死んで行く人も沢山あるわけであります。我々は有難いことに尊い、得難い釈尊の教えというものに御縁ができたわけであります。ほんとに有難いことであります。しっかりと修業し勉強せんとあかんぞなと、皆さんと一緒に今日も読誦した修証義にも説かれてあるわけであります。その仏教の中心的な大事なことが説かれてあるのが般若心経であります。般若心経も今日一緒に唱えさせていただいたと、こういうわけであります。はいこれで今日の分は終ります、ごくろうさんでございました。 合 掌 |
2003.05.05