わが師を語る
鍵田忠三郎
昭和56年9月
ここにお集まりの小西町通商店街青年部の皆さんは、自分がこの小西町に住もうと自ら希望して住んでおられるのではなく、自然に眼に見えぬ力によってそうなったのでありましょう。これは前世からの定められた「縁」というものでありましょう。どうか、この不可思議な御縁で結ばれましたことを大切にされて互いに仲よく助け合い、励まし合い、そして良い意味で競争してほしい。そこにおいてこそ、この小西町の商店街も自他共に繁栄し、発展する道が開けると存じます。この眼に見えない、お互いの尊いご縁に眼覚めることが先ず一番大事なのです。
私もご縁を得て、この小西町の青年部の皆さんに藤田先輩を通じて「人生観」について語れということでやって参りましたが、今日は私の人生を育ててくれた御縁を得た恩師について話したいと存じます。
私もぽつぼつ還暦を迎えることになりましたが、考えてみますと、私は多くの良き師匠に恵まれました。これらの師匠に教えられた人生観、処世観、世界観は骨の髄まで澄み通っております。言ってみれば今日鍵田がこうしてお話を皆さんの前でできるのもその師のおかげなのです。以下、私の生涯の師について語らせていただきたいと存じます。
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人生観・剣道の師
谷田文雄 先生
先づ谷田文雄先生ですが、先生は旧奈中時代の剣道の師です。先生は旧紀州藩の槍の指南役のお家柄で、槍一筋の家と申しますが、終始一貫、古武士然とした高潔なお人柄でありました。先生には中学時代、剣道の直接のご指導を受けたのはもちろんですが、お家にも何度かお伺いし、厳格な中にも慈父としてのお導きも賜わりました。私は早くに父親を亡くしたものですから未だに谷田先生に親父を感じるものがあります。
そして、谷田先生には卒業後も剣道の指導を受け、敗戦後は私も先生のために自宅東隣りに習心館道場を開き、先生が亡くなられるまでこの道場で近所の少年たちも集め、奈中の剣道部の卒業生も共に指導を受けましたので、40年間先生に剣道を通じて人の道も教えられました。生涯の師です。また、私は葬儀委員長として先生の教え子の諸君、習心館の少年たちと共に棺をかついで葬送申し上げました。
この谷田先生からは先ず「道場で死ぬ」という死に態(ざま)について教えられました。忘れもしません4月3日、先生は橿原の体育館で剣道の指導中に急に息を引き取られました。弟子たちにけいこをつけ、いったん腰を据え、竹刀を納めた時にスーとごく自然のうちに大往生を遂げられたのです。それは我々弟子共に、平和時は武人として道場で死ぬことの尊さを自ら示されたのです。
私たちも人間でありますので、体の調子の悪いときがあります。今朝はけいこを中止しょうかなと思うときがありますが、このような時には先生の死に態の訓えのことを思い出し「否々、どうせ人生一度は死なねはならぬ。道場で倒れ死なせてもらうのは本望ではないか」と思い直し、自らを励まして道場に出ます。すると熱のあるような時でも倒れず不思議と体調も治ってしまうのです。
先生はまた「剣道の姿は美しくないと駄目だよ」とも言われました。剣の心が美しく磨かれますと、姿、体もそれに伴って美しくなるというわけです。谷田先生は後ろ姿の実に美しい人でした。
次に「足の乱れは心の乱れ」と、亡くなる2、3日前に道場玄関に自ら墨書して張り出しておいて下さいました。道場に対する御遺言は「脚下照顧」でありました。また、「突きには出よ」ということも教えてもらいました。これは先生の師・高野佐三郎先生(明治以降の一番の剣豪) の言として教えられました。私はこれによってかつて命を救われたことがあります。市長に就任し、市政の再建に苦闘している時、私は市庁舎正面玄関で暴漢に襲撃されたことがあります。階段を二、三歩昇った時、暴漢は階段の上部踊り場から私めがけて気合するどく木刀を降りおろして来ました。とっさの場合、ここで下降するか逃げるのが普通ですが、私は逆に歩を進めました。暴漢はこの上る一歩に気勢をそがれ、結局、私は止めた上腕部の負傷だけで助かったというわけです。これは、先生の「突きには出よ」 「絶体絶命の時は前に出よ」を実行したのです。
皆さんも事業の上で絶体絶命になり、その進退に迷う時があるでしょうが、その時には逃げずに前に進むことです。道は自ら開けると思います。
谷田先生は剣の道に関して教えられる時は必ず誰れかの言として教えて下さいました。そういう謙虚なお人柄でありました。私は習心館道場も先生とのために、先生にいつまでも教えを受けるために造ったのです。先生は亡くなられましたが、私は毎朝、この道場で、掲げた先生の遺影を拝し稽古に励んでいるのです。
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私の信仰得度の師
大洞良雲 老師
大洞良雲老師は私が中学時代から三松寺に参禅し、指導を受けた座禅の師であり、17歳の時に私を得度して下さった師匠です。私を仏法に帰依させて下さった師ともいうべき人です。老師は33歳で駒沢大学の前身である曹洞宗中学の校長を務め、越前の永平寺の管長に堆されても辞して受けず、生涯、行脚説法で単身全国を巡しゃくされました。老師には等身大の高さの著書がありますが、中でもその般若心経講座は非常な名著とうたわれています。
未熟だった私は老師の提唱説法の時にはよく眠ってしまいました。そこで眠ってはなるまいと一番前の列に座るのですがそれでもつい眠ってしまう。あまり申訳けないので老師に謝ると、師いわく「わしの説法は毛穴から入るで、眠っておってよろしい」とおっしゃるのです。また汗が出てまいりました。すべて説法は口でするのではなく、身で以って以身伝身で伝えるものだということです。又「況多ければ瓜大なり」と罪多い私達を親切に導いて下さいました。
戦後、私が始めた奈良東山の英霊に対する火の祭典の大文字慰霊祭に、遺家族にもらってもらうために団扇をつくったところへ 「大」の字を最初に書いてくださったのがこの大洞良雲師です。私の家にも、道場にも何度か足を運んで下され、生涯の師として私に全て祈りの心を植付けて下さった最も大事な得度の師がこの大洞良雲老師なのです。
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只今の大事を教えられる
河口慧海 禅師
東京での下宿時代、19歳から20歳までの1年間弱、私は河口慧海禅師の教えを受けました。禅師は日本人で初めてチベットを探訪された方であり、その『チベット旅行記』はいまでも名著として知られています。わずか一年未満の間ではありましたが、私は生涯忘れることのできない強烈な感銘を受けました。
その河口慧海禅師は昭和20年に亡くなられました。その時、私は軍隊に行っていましたが、その死に際の模様は実に厳粛なものだったそうです。
禅師は白い着物と白い布団、白い坐布の上に座定されたまま亡くなっていかれたのです。禅師は常に、私達に静かにさとされました。それは「米寿の祝いができ、長生のできる人生が尊いのではない。地位を得たり名誉を得たり、お金を得たりできる人生が尊いのではない。ただいまに道を求めて精進できる人生が尊いんじゃ」と。私はこの師の人定の尊さに、実に深い感銘を受けました。そして、「ただいまに精進する人生こそ尊い」という言葉が焼きついて離れませんでした。
かつて私も死を覚悟した遍路の旅に出て、生を得て帰ることができました。38歳の時、四国からの船の中で、私はこの河口禅師の遺訓の意味を闊然として悟ることができました。「成功する人生が尊いのではないのだ。ただいま求道精進できる人生が尊いのだ」と。この時から般若心経百万巻を発願し、だらり人生を心掛けましたし、只今を大切にできるようになりました。
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武士道の師
石田和外 先生
石田和外先生は元最高裁長官であり、また、宝蔵院槍術高田派の初代覚禅房胤栄からの18代目、山岡鉄舟先生の無刀流の5代目を共に継いでおられ、小野派一刀流についても免許皆伝の先生です。宝蔵院槍術については、私のたっての願いで奈良から西川源内先生、鍵田忠兵衛ら4人の弟子入りを認められ、西川先生が19代目を継がれることの認許があり、400年伝統の興福寺宝蔵院の槍術が奈良の地に100年振りに先生のお蔭で里帰りし、甦ったわけです。
故佐藤栄作元総理らも師事した鎌倉・圓覚寺の朝比奈宗源師の言によれば、石田先生は、天皇さまの大きな信頼を受けられ、当代日本一のサムライとのことであり、そして、88歳の宗源師も一廻り年下の石田先生には兄事していたとのことでした。
その鎌倉の石田先生宅に、私は毎年正月には、必ず宝蔵院十九代を継いだ西川源内先生と年賀のあいさつにうかがっておりましたが、最高裁の長官までされた先生のお宅はまさに質素の一語に尽きるものであり、武人の家庭はかくあるべきだと教えられました。床の間にも置いてあるのは私のお贈りした鹿の角の刀架と中国の硯だけ。そしてその部屋には先祖御伝来の小さな屏風だけでした。ごちそうになる料理は奥さまの心のこもる手料理で、それも石田先生が庭で作られる野菜の料理と先生の唯一の趣味の釣ってこられた魚と、それに実にうまい奥さまの塩からら等が中心です。ただ酒盃だけは御下賜の御紋入りであり酒も飛び切り上等なものでした。
私は思いました。「武士たるものの家庭はこれでなくてはならん。物欲や名誉欲にとらわれての生活をしていては、いざ鎌倉というときに捨てゝ忠義はできんわな」 と。
最高裁長官を辞められてからは、好きな魚釣りと百姓と、そして剣道と槍の指導等で常に腰に日本手拭をはさんでの書生の心掛け堅持の悠々たる人生を歩んでおられました石田和外先生です。私は、この石田先生に、手紙の書き方、酒の飲み方まで教えてもらい、日本一のサムライの日常生活の態度というものを肝に銘じて学ばせてもらう、という幸せものでした。この石田先生を中国と、四国遍路に御案内したいと思っておりましたが、中国だけは、御紹介申し上げて、おいでになりましたが、遍路は御案内できぬ間にお亡くなりになりました。
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世界観の師
石原莞爾 将軍
石原莞爾将軍は、かつて参謀本部作戦部長、京都師団長などを勤めた世界一級の戦術家といわれた軍人です。第二次大戦の開戦時の首相・東條英磯大将と合わず、東條首相を「上等兵!」と罵しったのは有名な話です。将軍はまた戦前、戦後にわたってアジアの国家連合を唱え、私も中学を卒業して直ぐにいまの中国の東北地方に働きにいきましたので、その頃からアジアの将来と東洋道義について教えられ、考えさせられた一人です。
当時、将軍はよく申されました。「中国は偉大な国である。決しておろそかにしてはいかん」と。中国人のことを当時の日本人は「チャンコロ」と呼んで、馬鹿にしていた時代です。
私はいま「奈良アジア政経研究会」というものを主宰していますが、これは日中提携を中心にアジアの国家連合を東洋道義によって結成しようというものです。EEC、NATOのヨーロッパ圏、コメコン、ワルシャワ条約機構のソビエット圏、LAFTA、USA国防の南北アメリカ圏とアジア圏、というように、いまの世界は四つのブロックと中立圏にまとまりつつあります。政治は各々独立し、他の経済圏、国防圏などは一つの共同体として国家連合としていこうというものです。
がしかし、アジアだけはその世界の趨勢におくれまだ連合はできておりません。「二十一世紀はアジアの世代」とは石原将軍がかつて言っておられたことですが、いま松下幸之助さんも土光敏夫さんも「二十一世紀は中国の時代がくる」と言っていることです。日本の将来は中国と結びアジアの国家連合を達成することによってのみ開けるのです。
私は石原将軍から世界観を学び中国の偉大さ、アジアの国家連合の必要性を17歳のころから教えられました。当時、山形の高山樗牛の旧居のお家にも何度か訪ね、偉大な日蓮上人の如き将軍にじかに接して、世界観を植付けられ生涯の教訓をうけました。私の世界観開眼の師であります。
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死後の世界について教えられる
岡潔 先生
ご承知のように、岡潔先生は世界的な数学者であり、文化勲章受賞者であり、そして私が市長の時に奈良市の第一号の名誉市民になってもらいました。奇抜な言動で知られた人ですが、晩年のそれは数学者というよりも孤高の哲学者のそれでありました。先生が亡くなられる4ケ月ほど前、市長室にやってこられ「鍵田、お前は宝蔵院覚禅房の夢をみたな。俺も夢で道元禅師に逢うた。禅師は生きておられる証拠だ。お前はそれがわかるから2時間ほど、俺の話を聴け」と、真剣に言われます。私も聞きたいのですが客が来たり電話がかかって中断される。先生も怒ってしまわれ、「お前は駄目だ。よし書いておいてやる」と、お帰りになり、それを書いておられる途中亡くなってしまわれました。今、私は先生に申訳なくて悔いております。
先生からはその時「死んだらどこに行くか」を教えてもらいました。先生いわく「テレビのスイッチが切れたらそれで一巻の終わり。スイッチを入れたらまた人生劇場が始まる。人間の生死かくの如し」と。つまりは、生命の本質を電気の如きものと考えられ、点灯時が生きた世界、消灯すると死の無明世界と、無死のことを説かれました。
今、私に少しその無明の世界のことがわかりかけてきましたが、岡先生が何時も「生を明らめ、死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり」と修証義を口ぐせにされましたがその一大事をもっとあの時教えてもらっておけはよかったと悔まれる毎日です。
岡先生は私が人間的に私淑した先生の一人であり、私が葬儀委員長をつとめて葬送させていただき墓碑の字も書かせてもらいました。
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正念常の如し
橋本凝胤 先生
橋本凝胤老師はご承知のように薬師寺の長老であり、その門下からは高田好胤、松久保秀胤など人材が多く出ていますし、薬師寺金堂、西塔の復興もすべて老師の功績です。そして奈良市の名誉市民でもあります。
そして、老師は、行基菩薩研究の第一人者であり、また、行基の生涯を自己の生きざまとするよう努力された方でありましたが、その行基が82歳で菅原寺で亡くなったとき、「正念常の如し」と弟子の真成が舎利瓶記に書いているのでありますが、死んで正念常の如しの姿とはどんなものであろうかと私も、行基のあと追いの人生を行ずる者、常日頃考えてきたのでありますが、それが橋本凝胤老師が82歳で亡くなられたお姿を拝み、はっきりとわかりました。生涯の疑問は氷解いたしました。つまり生きたまま正念を静かにもって眠っておられるのです。肉体は死ぬが命は死なない、徹底して仏道を行ずると、永遠に生きることができるのだということを悟りました。老師は死んで私に、行基菩薩の正念常の如しを教え、伝えて下さいました。橋本擬胤老師にも、生涯の大事をいろいろと教えてもらいましたが、行基の小像を贈って下さったのが今も私の書斎にあり、無言の教えを今に垂れてくださっています。この橋本凝胤大僧正の葬儀委員長も私がつとめさせていただきました。
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生涯 の師
祖父・忠次郎のこと
私の祖父・忠次郎は、奈良に電車を引っぱって来た男といわれていますが、この祖父からは実に多くのことを体で教えられました。孫の私にとって生涯の師ともいうべき存在なのです。二、三話してみます。
私が小学校一、二年生のころ、お伊勢さんへの参急電車が開通したのを記念して、祖父が孫など母も一緒でしたが一家のものを引き連れて赤目四十八滝見物に行ったときのことです。ある旅館で昼食をいただき、代金8円何十銭に対して祖父が10円払ったところ、釣り銭が1銭不足していたのです。普通ならば「残りはとっとけ!」ということでしょうし、また、祖父は当時近鉄の重役をつとめていましたから相手もてっきり釣り銭1円何十銭かを祝儀としてくれることを期待していたのでしょう。現に勘定にきたおかみさんの表情は確かにそうでした。ところが、祖父は違いました。釣り銭をゆっくりと数えたあと「1銭不足している」というのです。
私は子供心にも恥ずかしく思いました。「なんと爺さんケチなことを。1銭ぐらいあげたらよいのに」というわけです。しかし、その後の祖父はやっばり大したものでした。
お内儀は不機嫌そうに不足の1銭を祖父に差し出し、足音高く引き返そうとしたとき、祖父はおもむろに「お待ちなさい。ご苦労です」と、別の財布から白い祝儀袋を取り出し、お内儀にゆっくりと与えるのです。
思うに、祖父は、私たち孫たちにも家族の者にもお金の大切さと残りものを他人に与える非礼さ、そして物ごとのケジメというものを身を以って教えたのです。以後私も「釣り銭とっときなさい」はやりません。なかなかむつかしいですが、別の財布からの祝儀を真似るようにしているところです。
次に、中学五年生ぐらいのころか、早朝、歩いて三松禅寺に参禅に行く時、当時女中さんがおりましたので、朝暗い四時頃、残り飯がなくて朝飯をたいてもらって食べていたところ、奥から出て来た祖父に烈火のごとく叱られました。「貴様、女中に飯をたかせて何処に行くのか、どこに修業に行くというのか馬鹿者、とっとと出て失せろ!!」とどなるのです。私は肝を冷やして早々に出てゆきました。
当時、私の家には女中さんが4人ほどいましたが、彼女たちには非常にやさしい祖父でした。食事はいつも家の者より良いものを多く食べてもらい、家の者より早く寝かしました。戸締りはいつも祖父の仕事でしたし、女中さんの風呂の火をたくのもそうでした。「家の者が入ったあとのぬるくなったしまい風呂に入ってもらうのだから一番風呂のわしがたくのは当然だ」と言っていました。家長の責任というものを痛感したものです。
その祖父は、死ぬその日まで日記をつけていました。そして辞世の句、葬式次第一切を書き遺して悠々と逝きました。辞世の旬は二つあります。「久々にゆきし友らとめぐり会い 賽の河原で酒盛りぞせん」 「いつの日かゆくべきことと定まれり いざや旅立つ弥陀の浄土へ」と。そして、葬式次第には葬儀委員長は誰、誰それに連絡し誰それに来ていただき、焼香の順番はかくかくで、墓碑はこうこうという、およそ葬式の入用全てにわたってのことが一冊のノートぴっしりと書かれ、それを見たら葬儀ができるようにしてありましたし、当時の葬式代金14万円も同じ箱に入れてあり、おかげで私は何の心配もなくとどこうりなく葬式をさせていただいた次第です。
余談になりますが、私は48歳のとき、ゼンソクと肺炎を併発して再度死にかけ、天理のよろず病院に入院しました。「明日の朝までもつまい」とのことが周囲の空気でわかりましたので、家内に命じて鉛筆と紙をもってきてもらいなんとか辞世の句を作ろうと思いさまざまに思案しましたが、祖父の立沢な辞世の句が邪魔してそれよりもよい句を作ろうと思うものですからどうにもできません。為に、死ねず生命助かり、今日生きていろいろの仕事させていただいています。祖父の遺した辞世の句のお蔭です。
私は又、これまで多くの人々の葬儀委員長をさせていただいて来ましたが、辞世の句といい葬式次第の書きのこしといい、死にざまの見事な祖父の大きさが痛感される昨今です。
そして、もう一つ。戦後、私が兵隊から還ったときのこと。あまりのインフレのため、私が祖父にお金を物に換えておくことを勧めたところ、これまた烈火のごとく叱りつけられました。「国が亡びたときには鍵田家も亡びにゃならん。国が破れて鍵田の家が栄えることは許さん」と。
正を踏み国を以て倒れるの気概というものを、この祖父に学びました。
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私はよき師に恵まれ、ほんとうに幸せ者と、感謝しています。然し私も生きのびて、還暦の齢を迎えることゝなり、後輩、子孫達に民族の心というか、先師の訓えを正しく伝えねばならぬ責任を痛感している昨今です。 |