鍵田忠三郎先生逝く
かぎたちゅうざぶろう せんせい ゆく

鍵田忠三郎先生語録 大文字送り火行を創始する 川路聖謨先生顕彰碑 剣道と人生「一剣興国の習心五則について」 石田和外先生を偲ぶ わが師を語る 私の信仰 坐禅のすすめ 雲による地震予知 般若心経百万巻を読誦し得て 標語市長4,380日 鍵田忠三郎先生逝く 

訃報
剣禅一如の武人市長
鍵田忠三郎氏逝く
剣道時代19951月号

 元奈良市長、元衆議院議員、奈良県剣道連盟会長、奈良県なぎなた連盟会長、勲三等瑞宝章鍵田忠三郎氏(かぎた・ちゅうざぶろう)が去る1026日、心不全のため奈良県天理市の天理よろづ相談所病院で亡くなった。享年72歳。

 告別式は29日午後2時から奈良市北御門町の五劫院でとりおこなわれた。喪主は二男、忠兵衛氏(奈良市大宮町691)、葬儀委員長は大川靖則奈良市長。葬儀には鍵田氏の数々の功績と人柄をしのび、政財界をはじめ武道関係者、そして氏を慕う市民など3千名を越える人々がかけつけ、涙ながらにそのひつぎを見送った。その葬儀風景は、剣と禅で練り上げた高邁な人柄と果敢な行動力をもって奈良に一時代を画した″真の武人々を送るにふさわしいものであった。

 鍵田氏は大正11年、奈良市北御門町に生まれた。父親とは早くに死に別れ、育ての親は県議会議長を務めた祖父・忠次郎氏。学徒出陣し海軍中尉で終戦を迎えたが、戦火に散った友人や仲間を思い、終生剃髪姿で通した。

27歳で県議会議員に当選。一期務めた後、実業家になり奈良の東山に全国初の有料道路を開設するなど開発事業を次々に手がけた。 44歳で第十七代奈良市長に就任。412年にわたり市政を担当。58年から一期、衆議院議員。政治家、実業家として独創性を発揮。「個性」 「アイデア」 「実行」 の人であった。   

人口流入で破たん寸前にあった水道供給の課題解決に全国で初めての新住民の入市制限を断行。「し尿」「ごみ」「火葬場」といった最大の懸案を解決。10年間にわたり赤字だった市の財政を3年で黒字に転換。健康増進と古米処理のため「みそづくり」を奨励。「やすらぎの道」を整備。全国に先がけて奈良市の「福祉都市」宣言。「新平城京」のまちづくりを目指して新庁舎の移転建替えを実行し、平城京の千分の1の復元模型を完成・展示。国際文化都市をめざして韓国・慶州市、スペイン・トレド市、中国・西安市など海外歴史都市と友好姉妹都市提携。地震雲による地震予知等々、並の行政マン、政治家では思いもつかない先駆的な創意を駆使してユニークな施策を次々と打ち出し、活力を失っていた奈良を見事によみがえらせた。

 武道に関しては、中央武道場を建設。この武道場は、次代を背負う青少年たちに心身を大いに鍛練させ、武道の心を体して国のために斥くす勇気と思いやりのある立派な日本人になってもらおうという願いを込めて計画された。柳生の正木坂道場が芳徳寺の橋本定芳老師の力で再建されていたので、宝蔵院槍術の道場の生まれ変わりとし、宝蔵院の精神とともに一剣興国の武道の隆盛をこの地によみがえらせんとの思いもあった。武道場開きには当時の全日本剣道連盟名誉会長木村篤太郎、同会長石田和外両先生も来賓として出席し、木村先生は居合、石田先生は宝蔵院槍術の型を披露した。

 こうして政治家、実業家として次々に独創性を発揮した氏は、「信念の人」「庶民派」「アイデアの人」 として市民から絶大な人気を集めた。

 しかし「人の道を盛んにすること」「虚栄を排し正しい人間社会をつくる」「いっさいの詐謀のない言いわけのない行政」を市政の目標に置き、不正を断固として許さず、正義を貫いた氏のやり方に対して、敵意をむき出しにしたのが暴力組織であった。暴力追放を口にし、敢然と暴力と対決姿勢を見せた氏を暴漢が襲ったのである。

 ある朝、市役所に到着した氏をめがけて、階段の踊り場から一人の大男が木刀を振りかざしてせまった。その瞬間、氏の頭にひらめくものがあった。それは、眼前の男の腕前は初段ぐらいでたいしたことはない、ということと、「突きには出よ」という剣道の教え。そのひらめきにしたがって、とっさに逃げずに階投を二段ほどかけ上がった瞬間、頭上に打下ろされた木刀を左手の上膊部で受け止め、相手の胸ぐらをつかんで階段の下に引きずり下ろした。

 その時、剣道の心得がなく、相手の攻撃に対してひるんで後ずさりでもしていたら、もっと大きなケガをしていただろうし、場合によっては生命も危なかっただろう。まさに、「突きには出よ」「絶体絶命のときには前に出よ」 の教訓の正しさを身をもって体得したのである。

剣禅および人生の師
 鍵田氏は生涯、多くの良師に恵まれた。旧制奈良中学時代の剣の師である谷田文雄先生。中学時代から参禅した三松禅寺の大洞良雲老師。東京での下宿時代に教えを受けた河口慧海禅師。サムライの道を習った石田和外先生。世界観開限の師である石原完爾将軍。無明世界を教えてくれた世界的な数学者岡潔先生。行基菩薩の「正念常の如し」を教え伝えられた薬師寺の元の長老である橋本凝胤老師など、剣と禅そして人生の師であった。

 剣の師である谷田先生は旧紀州藩の槍の指南役の家柄で、終始一貫、古武士然として高潔な人柄であった。谷田先生には中学卒業後も指導を受け、終戦後は谷田先生のために自宅隣りに習心舘道場を開き、先生が亡くなられるまでこの道場で近所の少年たちを集めて指導を行った。そうして40年間、剣道を通じて人の道を教えられた。また剣道の指導中に急逝された先生から「道場で死ぬ」という死にざまについても教えられた。市庁舎で暴漢に襲われたとき、とっさにうかんだ 「突きには出よ」も谷田先生から高野佐三郎範土の言として聞いたものであった。

元最高裁判所長官、第二代全日本剣道連盟会長を務めた石田和外先生は、宝蔵院槍術高田派の初代覚禅房胤栄からの十八代目、山岡鉄舟の無刀流五代目を継ぎ、小野派一刀流免許皆伝であった。氏は石田先生に奈良から西川源内範士、子息の鍵田忠兵街氏などの弟子入りを願い、宝蔵院槍術の伝授を受けた。そして宝蔵院槍術の十九代目が西川範士に継承され、四百年の伝統を誇る輿福寺宝蔵院の槍術が奈良の地に百年ぶりに里帰りした。またその後、石田先生の遺言により西川範土から鍵田忠兵衛氏に道統が継承された。 

最も多感な青年時代に教えを受けた河口禅師は日本人で初めてチベットを探訪。その著「チベット訪問記」はいまでも名著として知られている。死去の際、禅師は白い着物と白い布団の上に坐禅を組んだままで、合掌する弟子たちに対し、「地位を得たり、名誉を得たりできる人生が尊いのではない。ただいまに道を求めて精進できる人生こそ尊いのじゃ」との言葉を遺した。氏はこの死にざまを聞いて感銘を受け、「ただいまに精進する人生こそ尊い」という言葉が胸に焼きついた。氏はのちに死を覚悟して四国遍路の旅に出たが、生を得て帰る船の中で、この禅師の遺訓の言葉を豁然として悟ることができたという。

死を覚悟の乞食行脚
 
鍵田氏は38歳の時、医者から死の宣告を受けた。若くして患った胸の病が軍隊から復員してから悪化し、死を待つ以外にない状態となった。医者は本人には2年の命と告げたが、実際には2ケ月ももたないと見られていた。 氏は中学時代から禅寺に通って坐禅を続けていたが、死ぬ時には、托鉢をしながら人知れず異郷の山河で死にたいとの希望をもっていた。丁度、その時が来たと四国遍路を決意し、まだ寒い3月のお水取りの日、死の旅に出発した。 

遍路の最初は阿波の国。ここが発心道場。次の土佐は修行道場。その次の伊予は菩提道場。その次の讃岐は捏磐道場。その4つの道場を巡拝した。氏の身体は、医者が医学的にはもうだめだという状態であったので、全体にだるく、呼吸困斡で心臓の動悸は激しく、一里の道も歩ける状態ではなかった。しかし多い日は一日9里も歩いたが、なかなか死は訪れない。

 そして途中、土佐の二十七番神峰山にて休んで座っていると、そのまますうっと暗い世界に入った。その時、これで死ぬんだなと思ったという。その暗い世界の中で、氏は、いかなるものも犯すことのできない大きな生命に出会った。それを見て、このような大生命がある限り、自分が勝手に死ぬの生きるのと言っているのは僭越至極である。全てこの大生命におまかせするべきだと直感した。それで眼が覚めた。極限の仮死状態から生き返ったのである。それからは、夜が明けたように目の前が一度に明るくなって、いくらでも歩ける。大生命に出会い、生きる喜びを感じ、病気もいっペんに治ってしまったのである。 

そうして元気に歩いているうち、伊予の国四十五番の岩屋寺で一心に読経していると、少林寺拳法の黒衣の行者が鋭い気合をかけてきた。その時、武道の不動心について濶然と悟るところがあった。それまで剣道の稽古をするとすぐに喀血し、もう生涯剣道はできないと思っていたが、それが 「いかなる激しい稽古をしても、心さえ動じることがなければ、もう喀血することはない」と悟ることができた。この時の体験をもとに、一剣興国の不動心を習う「習心館道場」を自宅につくることになった。

 こうして思いもよらず、無事に四国遍路を成し遂げ、生きて故郷の山河にまみえることができた。帰る船の中で、遺書を書いて遍路に出たのに、生きて帰らせていただくことができたのだから、今後は一切、自分の欲をもって仕事はいたしません。成功、利益を期しての仕事はいたしません。ただ力を抜いて、だらりの心で一切の私心を去って、生命の続く限り般若心経百万巻をあげさせていただきますと誓った。

般若心経百方巻読誦
氏は若い時に禅寺で「一度死んでこい。大死一番せんと、本当のいのちと本性は見えないぞ」と、宇宙を貫く大きな「いのち」 に徹見することを教えられたが、四国遍路で一度甦ったおかげで、生病老死の四つの大病もすっかり治ってしまった。その御縁として般若心経百万巻読誦を決心した。

一日百巻ずつ欠かさず30年間あげて、それでちょうど百万巻になる。決心はしたものの百万巻読を終えるまで命は保たないだろうが、百万巻読ということに精進努力をしながら死ねればそれでいいと心を決めたのである。

 氏は中学生の頃から三松禅寺に通って、般若心経は毎日あげてきた。しかし百万巻というと、毎日十巻あげて278年かかる読誦量である。当時の氏は、精いっぱいあげて一日三十巻ぐらいであったので、それでは百年かかってしまう。それで、生涯に百万巻はとても無理だろうが、いったん誓った以上は一日のノルマを決めて達成に向かって努力をしなければならないと、一日三十巻から徐々に増やしていき、10年後には一日量が百巻を越えるまでになった。このとき氏は、生きている間に百万巻達成できるかもしれないという希望がわき、さらに読誦量を増やしていった。 氏の般若心経読誦は、四国遍路で命をすくわれてから結成した遍路会で、一年に一回遍路する一方、毎日大安寺に参集して般若心経を唱え、また自宅隣りにつくった習心館道場では一年365日、一日も欠かさず毎朝5時半から参禅する参禅会をつくって坐禅のすんだ後で般若心経を大声で唱える。さらに市の中央武道場で日曜日朝7時から参禅会を主宰し、ここでも般若心経を唱えた。氏は市長選挙を6回経験したが、激しい選挙戦の最中でも道場に早朝一時間は必ず入ることにし、市長職よりも般若心経読誦の方が大事であると般若心経のノルマだけはどんなに忙しい時でも完遂した。

 こうしてついに昭和578月、南都大安寺で遍路会、参禅会、武道関係の人々等、九十九万九千九百九十巻からあとの十巻を一緒に読し、百万巻の功徳を分かちあった。

 226ケ月かけて百万巻の峠を越えた氏は、新たにもう一度、10年から20年かけてもう百万巻、合せて二百万巻という前人未踏の目標に向かって、急がず、あせらず、一歩一歩、心静かに歩みたいとの誓いを立てた。

 だが残念ながらその目標は、達成を目前にして病に倒れ、完遂ならず。倒れる前日までに百九十八万三千五百五巻を読誦し、あと一万六千四百九十五巻を残すのみであった。 剣禅一如の修行により体得した武の精神をもって事業と行政に命をかけ、われわれに真の人の道を示してくれた鍵田氏の死は、惜しみても余りあるものといえるだろう。  合掌

 

2003.04.29