私の信仰

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般若心経百万巻を読誦し得て
 ―私の人生における最大の仕事は般若心経百万巻読誦行であった。―
鍵田忠三郎
昭和578

 私は38歳のとき、医者から死の宣告を受けましたが、四国遍路によって奇跡的にいのちを救われました。もう生きて帰ることはないと思ったその奈良の地に再び生きて帰らせていただく船中、私のいのちを救ってくれた四国の遠くかすむ山河に向って合掌し、今後の私の人生に於ける生きてゆく目標として般若心経百万巻読誦を行わせてもらう旨、固く決心したのです。 その時私は、成功できる人生が尊いのではないのだ、只今に精進努力できる人生が尊いのだということをはっきりと知りました。そして、心経百万巻の決心はいたしましたが、百万巻読詞を終わるまでいのちは保つまいし、私の医学的には二ケ月のいのちという体力ではとても無理な勤めであろうと当初は思いました。しかし、できなくても百万巻読誦という、目標を定めて只今に精進努力をさせてもらいながら死なせてもらえばよろしい、生涯かけて何十万巻できるか知らぬが、ただ、毎日、般若心経のみに精進させてもらい死ねはよいのだ、と心に決めたのです。
 私は、中学生の時代から、三松禅寺へ参禅に通ったのでありますから、その時分から般若心経は毎日あげてきたつもりです。しかし、百万巻というと、毎日1巻あげて2780年、毎日10巻で278年、毎日100巻宛でも30年弱かかる読経量ですからこれは大変です。その当時、私は精いっぱいあげて130巻ぐらいの読経でありましたので、100年かかってしまう、とても百万巻は無理だと考えました。しかし、ご縁のできた般若心経をあげながら死なせてもらうのは幸せである、そうせねば、と決めたのです。
 私はそれまでに、海軍予備学生で第二次大戦に参加し、戦死しておらねばならぬ身でありながら思いがけぬ終戦の詔勅によって生きて復員できた身です。奈良の地に帰り得たときに、私はいまは亡き戦友たちに心深く誓うものがありました。
 「生涯頭髪も伸ばさず、毎日戦友の皆さんに般若心経をあげて回向供養をいたします」と。
 そして、その後、戦友たちの位牌をつくり、毎朝一日も欠かすことなく般若心経をあげてきたのです。そんなことで、私は若い時分から般若心経をあげさせていただくご縁を得て、一坐千巻、大薫香1250巻の読経行を含めて相当量の心経をあげさせてもらってまいりました。
 しかし、それは計算せずに、ただ心経をあげさせてもらってきたというのでありますが、百万巻を誓ってからは、一日のノルマを決めて百万巻達成に向けてあげねはなりません。
 だが、昭和36420日、四国遍路から奈良の家に帰宅させていただいてからの毎日は、130巻、1年で1万巻程度でした。130巻程度の日が5年続きます。市長就任の前年昭和41年からは、日記を克明に記しておりますので、一日の心経をあげ得た数字も塙保己一の故知にならって日記の右肩に毎日記しておきました。
 その時分からは1日量の30巻に毎年10巻−20巻を増やして40巻、70巻、80巻と読誦し、昭和47年には、一日量が100巻を越えることになったのです。このとき、私は、私の生きている間に百万巻あげ得られるかも知れんと、その百万巻達成に希望を持ったのです。
 続い1日量を120巻、125巻、150巻と年々増加してゆき、昭和51年には1日量165巻、162,000巻に達し、その歳末に540,375巻と、遂に50万巻を越え、私自身も百万巻読誦達成に確信を持ち、それまでは人にはこのことをあまり言わなかったのでありますが、このとき以後、人にも般若心経百万巻読誦発願達成の話をいたし、人にもこれをすゝめました。

ご縁ある皆さま方と共に
 私自身、般若心経読誦の会を三つほど持っています。昭和36年、四国遍路で生命を救われてから、身辺の親しい信仰の友人と御礼巡礼をさせてもらい、それを拡げて多くの人々を救うべく遍路会を結成し1年に一回遍路する一方、毎月23日には大安寺に参集して般若心経をあげるという会をやっています。これにはお年寄りが多いのですが会員400名全員と共に私のいう遍路人生を実践しているのです。
 この会では、会員は毎日@利他行をせねはならぬA般若心経30巻以上をあげねばならぬB早起きし自分にきぴしくせねばならぬ−という三つの誓いをして、精進をいたしております。
 私も市長在職中は、私自身が遍路に出たのは一回だけで大安寺貫主さんほか世話人に、遍路行はお願いして私は読経会に出るだけで遠慮しておりましたが、市長を辞めての昨年と今年は多くの会員を連れて久し振りに四国の山々を般若心経を声高らかにあげながら歩かせてもらってきました。この遍路会は毎月読経会を開いて21年続いています。
 次に、大文字行の会があります。これは、815日の敗戦記念日に高円山に日本一の大文字の炬火を捧げて英霊慰霊の行をすることを私達が創めましたもので、毎年81日から15日までの間、朝は3時半に習心館道場に集まってもらって6時まで般若心経を読誦合唱する会です。最初は私が一人で勤修していたのですが、母が参加し、家族が参加し、近所の人たちも加わり、だんだんとご縁同志の人たちが加わっていまでは50人〜70人の人が早朝3時半には私の家に参集して英霊の霊記を前に般若心経を100巻〜150巻読誦するのです。この大文字行の会も23年続いております。
 続いて参禅会ですが、これは自宅東隣りの習心館道場で一年365日、毎朝5時半から7時まで参禅する会です。千日願、二千日願をかけた熱心な修行者が毎朝78人名ですが参禅しております。坐禅のすんだ後、般若心経を大声で唱えるのです。これも23年毎朝続いておりますし、千日間、一日も欠かさず参禅した者が6名、二千日行達成者が1名、今年の128日で参千日行を達成する者が1名おります。
 この参禅者たちは皆、毎日般若心経を50巻、100巻と唱えていますし、うち、現在全国行脚の修行に出ております駒野義人君はもう2年ほどで百万巻を達成する見込みです。
 その他にここ十年来、奈良市中央武道場での日曜日朝7時からの参禅会等、般若心経を唱えております。
 私は、市長在職中も、この遍路会、大文字行、参禅会等は欠かさず出席しましたし、市長職よりもむしろ道場の修行を大事と心得ていましたので、道場で倒れるともその欠席は決してしませんでした。道場で心を正し、市長職を完遂させてもらい、心乱れたままで市政をやってはいかんという考え方で、修行を優先させていただいたのです。

市長職は休むことがあっても毎日の修行は欠かさず勤む
 私は、市長選挙等、選挙6回経験させていただきましたが、激しい選挙戦の最中でも道場に早朝1時間は入ることとし、般若心経のノルマだけは毎日誓って完遂いたしました。市長職よりも般若心経読誦の毎日のノルマが大事であると、どんなに忙しく苦しいときでも読誦させていただいてきたのです。
 人生、大願を立て、最も苦しい大きな仕事を一つもち、それに向って精進努力をしておりますと、その他の仕事はすべて、楽にできるものなのです。おかげで奈良市政の仕事は、自然に全てうまく進めることができました。
 24年かけて完成させていただいた平城京復原模型をつくる仕事、10年かけた奈良市と中国の西安市との友好都市を結ぷ仕事、11年かかって宝蔵院槍術を奈良の地に甦らせる仕事、10年かけた新市庁舎建設するの仕事、6年で完遂できた植樹百万本の仕事、10年かけた福祉都市の建設の仕事、同じく10年かけた上水道完備の仕事、3年で完遂し10年維持した火事を全国一少くする仕事等々、これら息の長い諸仕事を完遂できたのは、全て毎日の般若心経百万巻読誦への精進努力のおかげなのです。
 また、私の市長時代、市職員に対しての「百害あって一利ない煙草を止める仕事」には200余名の止める同調者を得ました。同じく般若心経を毎朝、唱えましょうの呼びかけには、これまた数百名が自然と同調してくれたのです。
 私は、以上の二つが、市長時代の私の一番の大きな仕事でもあったと思っています。お蔭で職員のなかから一人の汚職者も13年半の間出さず仕事の能率も全国的に注目される成績をあげることができました。
 
昭和559月、私は市長職を辞して県知事選に立候補しました。市政の方は私の為すべき仕事は、すべてやらせてもらい、だいたいかっこうがついたので、いまは市長職は楽な仕事となりつつある、修行者を以て任づる者としてこれではいかんと考え、より一層の苦難を求めて、市民のお許しを得て県政の改革をやらしてもらおうと立候補したのです。
 この知事選25日間にわたる選挙中だけほ、身体が気力の限界を越えました。その年の般若心経の毎日のノルマは220巻でありましたが、期間中、終わりの15日間は100巻前後の読誦数より日記に書けませんでした。般若心経百万巻を誓って20年、初めてその一日量のノルマの達成が乱れたのです。これは気力的に読誦する心経の数が勘定できぬのです。すぐに忘れてしまうのです。
 私も50万巻を越えた時分から100巻程度の読誦する心経は自然に勘定できたのです。それがこの選挙中だけは疲れきって頭がもうろうとなり、数取りができず、遂に乱れてしまったのです。般若心経の一日のノルマの完遂できないこのときの選挙は初めて落選してしまいました。敵に負けるのではなく、自分に負けたのでしょう。そんなことで市長職を辞め、私も少々暇になりましたので、心経読誦を一度に1日量55巻を増やし、56年は1日量275五巻として完遂し、遂に90万巻を越えることになりました。次の57年にはまた1日量を35巻増やし、310巻としてその年の815日、大文字行の完遂のときまでに達成しようと考えました。
 このころになってくると、般若心経の意味が少しくわかってきたのです。昔から「読書百ペん、意自ら通ず」と申します。般若心経は難解で、その意味はなかなかわかりませんが、「読詞宙万巻、意自ら通ず」と、意味も考えずに読諭しているうちに自然とわかるものと考えていたのですが、それが九十万巻を越えたときに「是大神呪」の意味も、「色即是空」 の空なる意味も少しくわかって、雲が晴れてまいりました。般若心経には宇宙の大真理の大変なことが書かれてあるのです。それが少しくわかってきたのですから有難いことです。
 そのようなことで、百万巻読誦が完遂できると、私は『般若心経講話』という私なりの心経解説書を書きたいなど、えらそうなことを考えてまいったのですが、百万巻読詞達成が見えてくるにつけ、私が得度してもらった大洞良雲老師の『般若心経講話』を読み返してみて驚きました。意味は少しわかるようになってまいりましたが、深さ、味わいが違います。とても私の百万巻の修行如きでは駄目だと思いました。これはもう一度百万巻やらせてもらって二百万巻読誦とせねば、とても大洞良雲老師の心経講話には及ばん、と考えた次第です。
 そこで、般若心経講話を書くという大それた望みを捨てまして、57年8月、般若心経百万巻が達成できたらもう一度、15年から20年かけてもう百万巻の行をやらしてもらおうと決心した次第です。
 その時分です。京都に一人、百万巻の般若心経をあげ得た人がおるのだということを開きました。うわさは開いていましたが、その小原弘万先生が二百万巻読誦して『般若心経いろはかるた』なる本を出版されたということを、 参禅会の一箭君が言ってきてくれたので、その本をとりよせて読ませてもらいました。やはり小原先生も最初の百万巻を26歳で発願して33年かけて59歳(私と1年違いますが・・・)で成就し、その後、77歳までにもう百万巻読誦されたのです。同じ苦労を経験した者、同志として共感があり、お会いしたいという衝動にかられましたが、私も、百万巻読誦を為し得てからにしようと思いとどまり、「百里の道を行くに九十九里を以って半ばとす」との訓えの通り、最後の段階での心ゆるめての挫折を戒めました。百万巻達成をさせてもらった今年の一日の読誦数は310巻で、300巻を越えての毎日の読誦には慎重を期し、生活それ自体も心経読誦の生活にかえてやってまいりましたが、99万巻を越え、最後の81日からの心経読誦の大文字行に入ることができました。
 計算によると、815日から18日ごろには達成できる見込みになりましたが、815日の日曜日は大文字慰霊祭で、高円山に炬火を点じ、英霊を慰めねばなりませんので、次の822日に大安寺で、河野清晃師ほかの遍路会、東雲さんほかの大文字行の会の人々、山本君ほかの参禅会員等、般若心経の長年の同行の人々に集まってもらって999,990巻からのあと10巻を一緒に読誦させてもらって百万巻の功徳を皆さんに分かちたいと考えたわけです。
 幸い、直ちに賛同が得られ、私が般若心経を伝えた人、共に般若心経を唱えてきた人々500余名が参加、一緒に大安寺における最後の100万巻記念心経読誦会となったわけです。

小原弘万先生に会う
 89日、大文字行の最中であり、百万巻読誦達成の見通しもはっきりした日、百万巻読誦後と決めていた小原弘万先生に急に会いたくなり、電話すると「待っている」とのこと。11時過ぎにお訪ねすると、門前まで出てお待ちいただいておりました。想像していた通りお姿の美しい居士であり、2時間半ほど親しく懇談し、百万巻達成の峠を越える時の心得をおうかがいして有意義でした。石笛も聴かせて下さるし、大きな守護霊についても観て下さるし、明年春に般若心経百万巻達成者が私の知り合いに一人あるが、あなたが現世二人目であること、塙保己一先生は199万巻をあげて亡くなられたこと等のお話があり、心洗われて辞去した次第。有難い出会いでした。
 その後、815日の大文字慰霊祭も無事につとめさせていただき、いよいよ822日の百万巻達成の日を迎えました。4時半起床。いつもよりは30分早く隣りの五劫院に参詣し、俊乗坊重源さまと、母よしの墓前に今日大安寺に於いて百万巻読読誦を達成し得ることを報告し、お礼を申し上げました。大仏を建立した念仏行者で、法然上人の兄弟弟子である重源上人には
「私も心経の百万巻達成をさせていただき、称名念仏の尊さも少しくわかってまいりました。あなたが自分の名前を『南無阿弥陀仏』と名付けられたように、私も自分の名前を『般若心経』と言えるようになるまで、なお一層精進努力させていただきますのでお導き下さいますように・・・」
と祈念させていただいておきました。
 昨年亡くなりました母は自らも心経16万巻をあげて、3400巻写経して亡くなりましたので、私の百万巻達成を一番に喜んでくれたと思います。
 5時半からはいつものように習心館道場の坐禅をつとめました。このとき、私は般若心経百万巻達成者としてその使命と責任を「ずしん」と身体全体に厳粛に感じ、やはり百万巻の重みは違う、と思いました。
 7時、書斎に入り、今日、大安寺で百万巻読読誦後に読みあげる表白文に最後の筆を入れ、 いよいよ10時過ぎ、大安寺の般若心経百万巻読読誦達成の会場に出向くと、数百名の同行、篤信の人々が合掌し、拍手して迎えてくれ、夢の極楽世界、他の国に相会す喜びを身体いっはいに感じる気持ちでした。
 10時半、本堂に河野清晃師に導かれて入り、本堂に二百名、本堂前を囲繞している300余名の同行者と共に私が本堂の真中に坐り、けさをかけた弟子達に囲まれて般若心経十巻を、心静かに然し力強く読経させていただきました。気合いの入った鐘、太鼓、木魚に和しての500余名の融通読経の大合唱は30分にわたりましたが、実に感激そのものでありました。

仏の国の歓喜のなかで百万巻達成
 読経の途中、私は熱い涙がこみ上げて泣けてまいりましたが、こらえて最後まで読経し通しました。夢の世界、他の世界に遊ぷ歓喜こうこつの境地にいたっておりました。司会の河原淳悟君の「表白文」の声で我にかえった次第です。
 私は、次の表白文を淡々と読み上げさせていただきました。
 「謹しみ敬って諸天諸仏、諸菩薩、請善神に言上し奉る。思えは昭和36312日南都大安寺より身を捨てて、四国八十八ケ所霊場巡拝に打って出るの御縁を得、仏天のご加護の下、大師の御導きを得て生命甦るの奇跡を享受したり、滋に無事を得、帰国の船中、諸天諸仏、四国の山河、宇宙万霊に合掌し、報恩報徳の為に般若心経百万巻、読読誦の誓願を立つ。爾来226ケ月、只管に般若心経を専修し、本日、822日、大安寺本尊の御宝前において、河野清晃師ほか尊縁同行500余名の融通読読誦のなか、遂に仏天のご加護と行基菩薩のお導きを加え、般若心経百万巻読読誦の行を完遂し、延寿、成満、喜びの日を迎えたり。まことに感激の極みなり。ここに心経百万巻読読誦の功徳は全て仏恩への報謝と、日本国の安泰と衆生済度の為にこれを捧げ奉る。しかして不肖只今より次の百万巻読読誦の法行を発願し、黙々、これが達成に向うこと謹しんでここに誓い奉る。
 昭和57822
 鍵田忠三郎敬って白す」
 この時私は大安寺に「神通」の大額を奉納させていただきました。

新たなる使命に向って
 続いて、大安寺・河野師の発起人代表あいさつに続き、私より素直に、現在の有難い涙する心境と、ずしんと重い、使命観と責任観を感づるそのままにごあいさつをさせていただきました。
 続いて92歳の狭川明俊・東大寺長老より、木山弘・奈良市長より、そして、末広徳次郎・奈良市老人会長より、それぞれ心通う百万巻達成を賛える祝辞をいただきました。
 私は、このときはっきりと誓いました。
 「行基菩薩のお年82歳まで延寿させていただき、生涯かけて般若心経をあげさせていただくと共に、縁に随って菩薩行、(利他行)を行じ、百万巻の神通力を以て日本国の柱とならん」と。
 
「今日、私は私の大眼目でありました一つの大きな百万巻の峠をお蔭で越えることができましたが、続いて次の峠に向って、その遠き道を般若心経百万巻の重き荷を又背負って、急がず、あせらず、一歩、一歩踏みしめて、ご縁同行の皆さんと一緒に専修心経の道を心静かに歩ませていただくぞ」と0。この時、私はからだ全体に、宇宙の大生命が感応しこの大きななにかわからぬが湧き上るカを以て衆生済度させていただきますぞ、日本国家の安泰の為に尽しますぞと、お誓い申し上げた次第です。  合掌

2003.05.20