目次
はじめに 1 音 2 槍の位 3 只今に道を求めて歩む人生 4 大文字行 5 気概 6 お地蔵さん 7 後ろ姿 8 息 9 行儀 10 体で考える 11 馬鹿になる 12 終わりに 13 喫茶店のマスターと脚下照顧 14 宝蔵院胤栄 摩利支天石 15 饂飩(うどん)会について
12 終わりに
平成11年3月14日(日)
一 箭 順 三
以前、体で考えた話しましょう。とお話ししましたが、本来坐禅自体を体で考ねばならないのだと思っております。私達は子どもの頃から頭で考える訓練ばかりを受けてこうして今まで生きて来たものですから、坐禅といえどもついぞ頭で考えてしまいがちです。
しかし、坐禅を頭で考えていては結局は解りません。解らないどころかかえって迷う元です。本屋には沢山禅の本が並んでおりますが、これを頭で勉強してもきっと本当のところは体得できないはずです、頭で理解できたとしても駄目なのです。せめて体で考える助けとして本を読ませていただくという姿勢くらいが良いのではないでしょうか。
今、体で考えましょうと言っておりますが、では明日から体で考えられるかと申しますと、そうは簡単にまいりません。絶えず自分自身を厳しい方へ辛い方へ体を向けるという努力が必要なのでしょう。辛い方へ辛い方へと自分の姿勢をもっていく努力をしているとき、自然と体が考えるようになってくるのだと思います。
辛い方へ自分を向けると申しましたが、修行は歯を食いしばって涙を流しながらするというのではないはずです。平気に当たり前の顔をしてこれを受け入れ、出来れば楽しい顔でこれを受け入れられる自分になりたいものだといつも考えているのです。
こうは申しましても私自身が、いつもできているかといいますとなかなかそうはまいりません。まだまだ足りない。まだまだ足りない。としながら毎日を送っておるわけです。お互い励みたいものです。
人生の先輩が沢山おられる前で、こうして皆さんに話をさせていただく機会を与えて頂き、大切な時間を長い期間にわたってお付き合いいただきましたたことに感謝しております。今自分が体でどのようなことを考えているのかということを纏める良い機会になりました。
私としては以前に申し上げましたように、坐禅の話は自分が体で考えていることだけをお話しさせていただくようにさせていただきました。
これを振り返ってみますと、私の体の考えとはほとんどが鍵田先生に教わったことばかりでありました。先生を直接ご存じのない方には、毎度毎度思い出話ばかり話しているように聞こえたかもしてませんが、これが一箭の体の考えであったとお許しを願いたいと思います。
しかし私としましてはあの先生の大きなお心の万分の一でも、私の身に付き、こうして今日まで道を誤らずに生かさせていただいておりますことに今更ながらに気付かせて頂き感謝しているところです。
本来の先生は大きなお心でしたが、しかし一箭というフィルターを通して話しますと、この程度にしかお伝えできなかった歯がゆさを残念に思っております。それでも先生のお心の片鱗でもお話しをさせていただけたことは有り難いことでした。聴いていただいた方には、この中から先生本来のお心を汲み取っていただき、みなさんの修行の参考になりますならばありがたいことです。
私のことですが、今日まで実力もないのに直日として長らく皆さんの前に立たせて頂き、当番を勤めてまいりましたが、指導員としましては3月末で終えさせていただくよう武道振興会にお願いしているところです。そういうことですから、直日の順番からしてここに立たせていただく当番は、今日が最後となった訳です。
勿論、坐禅とご縁が無くなるわけではなく、私としましては生涯修行、生涯書生の気持ちは変わりなく、坐禅教室受講者、鴻ノ池禅友会会員としてこれからも変わらず、共に坐りお付き合いもさせて頂きたいと思っております。
教室は残られる竹下克朗さんと、新たに瀬来隆夫さんが指導員として選任され、お二人によって教室の運営をしていただくことと、武道振興会から伺っております。お二人を中心にこれからも変わらず、これまで以上に皆さんと共にお互い修行に励ませていただきたいものです。
長い間有り難うございました。
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