禅小話

目次
はじめに 1 音  2 槍の位 3 只今に道を求めて歩む人生 4 大文字行 5 気概  6 お地蔵さん  7 後ろ姿   8 息 9 行儀 10 体で考える 11 馬鹿になる 12 終わりに 13 喫茶店のマスターと脚下照顧 14 宝蔵院胤栄 摩利支天石  15 饂飩(うどん)会について

10 体で考える

平成11年1月31日(日)
一 箭 順 三

 この季節になりますと風邪を引く人が随分増えてきました。私も少し引いているのですが、坐禅中に咳などが出ますがこれは許されているそうです。勿論、無理に大きく咳をする必要はありませんが、咳が終われば静かに合掌してまた坐禅に入るというようにされると良いと思います。もう一つは鼻水です。これは坐禅中に鼻をすするとか、鼻をかむということは良くないこととされています。それでも鼻水は出てきますが、音を立てぬようにティッシュかタオルで静かに拭き取り、合掌して坐禅に入るというようにされると良いと思います。要するに、お互い周りの人になるべく迷惑をかけぬように坐らせて頂くのが良いのだということです。参考までにお話しさせていただきました。

 人さんの話を聞いていて、同じ言葉でも納得できる話とそうでない話があることに気づかれていると思います。また、なるほど理屈ではそうかも知れないけれども何かしら納得は出来ない、と思うときもあります。
 では、納得できる話しとそうでない話のどこに違いがあるのかといいますと、私は体で考えた話しと、頭で考えた話しの違いだと思っているのです。今日はその「体で考える話し」についてお話ししたいと思います。
 私が坐禅を始めさせていただいた頃は、鍵田道場長は現職の奈良市長でした。きっとお忙しかったはずですが、それでも毎朝の習心館道場での坐禅のあとは参禅者が順番に話しをし、道場長がそれに答えてのお話しを頂くというゆっくりした時間を作って下さっていました。毎日7時5分から10分頃坐禅が終わり、それから話の時間になりますから終われば7時半近くにもなることがよくあったのです。しかし、いつの頃からか坐禅に来る人達がだんだん忙しくなり、坐禅を終えて7時にもなると私も含めて大急ぎで車に乗って帰ってしまうという、なにやらせわしい時代になってしまいました。
 そんなことですから、こうした朝のお話しの時間は次第になくなり、坐禅後に道場長の話だけを少しの時間でお聞きするというようになり、道場長が亡くなられるまで10年から15年程はこうした形で習心館の坐禅が続けられてきました。
 当時6〜7人の参禅者がいても、毎日話をするものですから順番は直にやってまいります。道場長を前に正座し、面と向かって話しをするというのは大変緊張しますし、それに話す題材が無くなってしまいます。仕方がないので本で読んだ禅の言葉などを使って話しますと「頭で考えるんじゃない。体で考えろ」とか「体で考えたことだけを話せば良いのだ」と言われるのです。本を読んだだけの、体で理解も出来ていない言葉を道場長の前で話しても通用するはずはありませんでしたし、そんな言葉を口にするということは坐禅者として恥ずかしいことなのだということを思い知らされた訳です。
 それでもまた別の日には順番が回って来ますから、今度は「今日はお話しすることがなにもありません」とお答えすると、「体で何も考えていないとは、真剣に坐っていないのか」と、またお叱りの言葉が返ってくるのです。当時は坐らせていただくのも修行でしたが、道場長の前でお話をするのは私にとってはもっと辛い修行だったのです。
 今になって考えますと、道場長は話し方を教えて下さったのではなく、坐禅は頭で考えるのではなく徹底して体で考えるものだということを教えて下さっていたのだと思います。
 そのころ岡田多實生という先輩がおられました。先輩といいましても歳は私より二つ下なのですが、高校生の時に坐禅千日行を発願されて道場第1号で行を達成されたというような人でした。今では日本画家として岡田有功の雅号で名を成しておられます。
 岡田さんはいつも実によいお話をされました。お話しが上手というよりは、どちらかと言えば朴訥とした話しぶりで一言二言を話されるだけなのですが、この人の話こそ体から湧き出てきた言葉だと思いました。私もこのような話が出来るようになりたいものだ。と本当に憧れ、羨ましく思ったものでした。今でも、機会があれば岡田さんの話をもう一度お聞ききしたいものだと思っているのですが。
 では、どうすれば体で考えた話が出来るのかということです。習心館道場の向かいに今も西田恭三さんという方が住んでおられます。この人も熱心に向かいの家から毎日坐禅に通って来られて、私と同じように体で考えるということに随分苦労をされていました。そしてある日、どうすれば体で考えられるようになるのかを質問されました。道場長は「辛いことをすることである。眠い、だから早く起きる。足が痛い、だから坐禅する。このように辛いことをいつも求めていれば、自然と体で考えるようになる」とのお答えでした。解りにくい答えに聞こえるかも知れませんが、楽な修行をしていては体が考えない、いつも自分に厳しく修行を続けておれば自然と体が考えるようになるということだと思っております。
 ここは禅の場であって話し方を勉強する教室ではないのですが、しかし言葉がどれほど大切かということについては、修証義第四章「発願利生」の四つの菩薩行の第二に「愛語」が掲げられています。時間のあるときに目を通していただければ有り難いのですが、愛語について解りやすい言葉でかなりのスペースを割いて説いてあります。そして最後には「愛語能く廻天の力あることを学すべきなり」と締めくくってあります。リズム感の良い、いい言葉ですよね。心のこもった言葉で話せば、天子様のお心さえも変えることが出来るのですと教えて下さっています。
 読んでいただければ解りますように愛語といいましても、甘やかしの言葉ではなく、慈悲の心から自然と湧いてくる言葉なのでしょう。決して頭で考えて口先で耳触りの良いことを言うのが愛語ではないのです。「愛語」とは愛語で話そうとして発せられる言葉ではなく、自らに不親切に、そして常に自らに厳しく修行して、その上で自然と体から湧いてくる言葉だと思っています。
 私達禅を学ぶ者は、上手に話す必要はありません。木訥であっていいのです。しかし、人さんと心から通じ合える「愛語」で話しが交わせられますよう、お互いに自らに厳しく修行に励みたいものです。





2003.02.16