禅小話

目次
はじめに 1 音  2 槍の位 3 只今に道を求めて歩む人生 4 大文字行 5 気概  6 お地蔵さん  7 後ろ姿   8 息 9 行儀 10 体で考える 11 馬鹿になる 12 終わりに 13 喫茶店のマスターと脚下照顧 14 宝蔵院胤栄 摩利支天石  15 饂飩(うどん)会について

9 行儀          

平成11年1月17日(日)
一 箭 順 三

 今日は先週入門された4人の人が全員揃って出席いただきました。有り難いことです。寒い中、ようこそおいで下さいました。お互い励まし合ってしっかり修行して参りたいと思います。皆さんもよろしくお願いします。

 坐禅の途中で足を組み直す方がおられました。きっと足が痛いのだろうと思います。出来れば、いや是非足は組み直さない方がよいのです。痛さから逃げようとすると痛みはいつまでも追いかけてきます。逆に痛さに向かうといいますか、痛さと勝負するぞという気概を持って坐らせていただくと、痛さはいつの間にかどこかへ行ってしまうものです。辛いことから逃げないことが大事なのです。どうぞ逃げないでいただきたいと思います。

 今日は「行儀」についてお話ししたいと思います。
 「行儀」といいますよりは「してはいけない」「恥ずかしい」「格好が悪い」といったニュアンスに近いのですが、適当な言葉が見つかりませんのでこのように言わせていただいたのです。「行儀」は本来「言葉」と同じように自然と体から湧きだしてくる所作なはずです。
 「言葉」は自分に厳しく、正しい修行を真剣に続けておれば、自然と人様に対して思いやりのある優しい言葉になります。しかし「行儀」はこの「言葉」と僅かに違って、体から湧き出す所作ではありますが、周囲の環境に育てられて身に付いていくのかも知れません。また、世の中の動きの中でその規範も少しずつ変わってくるようです。今では変わってきているというより薄れてきている、無くなってきているのかも知れません。
 私が30年ほど前に習心館道場に通い始めた頃、鍵田道場長は40歳代とたいへんお元気で、日常生活の中の何気ない仕草にも厳しい言葉で「してはいけない」「恥ずかしい」「格好が悪い」と何度も注意を頂いたものです。しかし、晩年には優しくなられ、口にされることも随分少なくなりました。
 私にとって、習心館道場に来てのこうしたご注意は恥ずかしいことですが、それまで家庭でも、学校でも、社会でも教えてもらったことは少なく、こんなことも知らなかったという非常に新鮮な感覚として受け止めたことを覚えています。
 私にはこうした意識は、人間の尊厳にも関わる重要な規範であると思い先生について見習っては参りましたが、先生ご自身はそういった大げさに考えることではなく、身に染みついた当たり前のこととして、しかし気概を持って生きてこられたのだと思います。
 こうしてお話しさせていただいていて、急に鍵田先生と申し上げても1月からはじめておいでになった方にはご存じ無いかも知れませんが、元の奈良市長で、今日の奈良市の基礎を築かれた人です。在任当時にこの辺り一帯の鴻池運動公園やその体育施設、この武道場も建設されました。自宅にも剣禅の習心館道場を持っておられ、少年達を剣道・坐禅を通じて育成されておられました。
 この坐禅教室も20年ほど前に作って下さったのも鍵田先生で、毎週日曜日にこうして一緒に坐って下さり、つい4年前に亡くなられるまではここでご指導いただいていたのです。先生は市長・代議士という政治家ではありましたが、私にとっては坐禅の師匠であり、生涯の師として仕えて来たわけです。
 先生の「してはいけない」「恥ずかしい」「格好が悪い」ことにはどんなことかと申しますと、一番強く印象に残っておりますのは、
○ お客さんになって、食べる・飲むことでした。
 鍵田先生は、人さんと楽しく食事や飲むことが大好きで、よく私達を呼んで下さり、食事や飲む機会を頂きました。ご自身も大変な食通で、豪快に食べまた飲まれました。しかし、お客さんになってしまう人をもっとも嫌われました。「酒は人さんの為に飲むもの」と言う考えが徹底されていて、先ず人に食事を勧め、お酒をお注ぎしてからでないと食べられませんでしたし、飲まれませんでした。これは宴会中でもずっと気配りをされていて、豪快なお酒の中にも終始相手を気遣っておられたものでした。
 食事やお酒を一緒にするとその人の性格や気配りがよく出るもので、特に中華料理や鍋料理は隣の人に料理を取って上げたり、お酒をついで上げたりするのが普通ですが、「修行の足りん者は自分が食べること、飲むことで我を忘れて、すぐお客さんになってしまいよる」といつも残念がっておられました。
 中国との友好も国交が開かれる以前から一生懸命進めておられましたので、日本人を連れて中国へ行く機会が多くありました。中国人は普段は粗末な食事をしていても日本の大切な友人が来ると最高の料理でもてなしてくれます。中国人に接待されたときの日本人を、帰って来られる度に「日本人は貪るように食べて飲むことばかり、その点中国人は大人だ。恥ずかしい」と何度も残念がられ、時には落ち込んでおられるのではないかと私には見えたことがあった程でした。
 もう今の時代には、食べることも飲むことも人さんのためというお接待の心が無くなってしまったのかも知れません。せめてここにおられる坐禅の人達だけでも、この心を忘れないようにしたいものです。
○ 言い訳をすること
○ 「参った」と言うこと
○ 目玉を動かすこと
  だいたい、目玉を動かす人は心の落ち着きのない人ですね。逆に迷いがあると、目玉が動くようです。心したいものですし、いつも半眼の静かな眼でいたいものです。
○ 肩を動かすこと
 これは、坐禅中やふだんの生活にも言えることですが、肩が上がることは恥ずかしい、格好が悪いと注意を受けました。 例えば、歩いている姿を見ますとき、肩を振って歩く人がおられますが、見ていてもあまり良い格好ではないですね。
 合掌をするときでも、力を入れておられるのか肩が上がってしまう人がおられます。合掌の姿などは鏡を見て時々チェックする必要があるようです。
 また、坐禅が終わって体を緩めるときに、肩を上げ下げしたり、上下に回したりされる人がありますが、先生は格好が悪い、肩は動かすものじゃないのだとされたものでした。坐禅後、先生はどうされるのか見ておりますと、左右揺身や、体を左右にねじって体を伸ばしておられました。
 また、今日のように寒い日に道場に入るとつい肩をすくめてしまいますが、「格好悪いぞ、いつも堂々と胸を張っておらにゃ」とよく注意を受けたものです。
○ 「寒い」「暑い」と言うこと
 今「寒い」と申しましたが、「寒い」「暑い」と言うことも恥ずかしい言葉でした。「寒い暑いは当たり前、言ったところで暖かくも涼しくならんじゃないか、どうしても言うなら私の剣道の師範であった谷田文夫先生は『ちょっと涼しいですな』と言っておられたぞ」と教えていただきました。
○ 膝を立てること
 日常の生活や食事中に膝を立てないのは勿論ですが、坐禅後に足を解いて膝を立てて脛をさすっておりましても、行儀が悪いと一喝されたものです。
○ 足音を立てること
 静かな足音はやむを得ませんが、道場で踵の音を立てて歩くのは、修行者ではありません。やはりいつも歩き方には工夫したいものです。
○ 駆け足をすること
○ お茶漬け・汁かけ御飯を食べること
○ 腹痛を言うこと
 こんなことまで恥ずかしいことのかと思いましたが、腹痛は自分の不摂生が原因なのだから、そんな恥ずかしいことを人さんに話すことではない。ということでした。
○ 腹這いになること
 など、修行に関係の有ること無いこと色々でした。先生からはもっと多くのことを教えていただいた筈ですが、今になって自分の体で覚えていますのは以上なようなことです。昔の人はこうしたことを恥と考え、気概を持って生きてこられたのでしょう。この気概を先生は私達に教えて下さったのだと思います。
 是非こうしなさいと人さんにお勧めする事ではないのかも知れませんが、今ではこんなことを実践されている人も、まして話して下さる人もなくなるだろうと思いますので、私が覚えている間にお話しさせていただきました。
 私としては、このような気概をいつも持ち、自分を律して生きておれば、人生に於いて間違いはないのではないか考えております。参考までにお話しさせていただきました。






2003.02.16