禅小話

目次
はじめに 1 音  2 槍の位 3 只今に道を求めて歩む人生 4 大文字行 5 気概  6 お地蔵さん  7 後ろ姿   8 息 9 行儀 10 体で考える 11 馬鹿になる 12 終わりに 13 喫茶店のマスターと脚下照顧 14 宝蔵院胤栄 摩利支天石  15 饂飩(うどん)会について

11 馬鹿になる

平成11年2月21日(日)
一 箭 順 三

 坐禅中は息を静かにするものなのですが、今日はどなたかから息の音が聞こえてまいりましたので、直日(じきじつ)は本来声を出してはいけないのですが、注意をさせていただきました。
 息の音が出るということは体のどこかに抵抗がかかっているということですから、ご本人のためにも是非工夫されるようにお願いします。また、周りの人にも迷惑をかけないということにもつながりますよね。
 それから坐禅は電気ですから、道場に余計なもの、特に金物は身につけて入らない方がよいと思います。私は眼鏡も坐禅中は外して坐らせていただいているのですが、時計は坐禅の電気を邪魔するものだと考えております。ここへ持ってこられるのでしたら、道場入り口の荷物置き場に置かれるのが良いと思います。

  この道場は正しい姿勢と正しい呼吸で自分自身を見つめ瞑想する場として、約20年になります。ですから坐禅教室とは申しましても、宗教を取り入れない修行の場としてこれだけ多くの皆さんが休むこともなく参禅に来て下さり、この道場が続いて参りました。
 鍵田先生が長年に亘りご指導を頂いてきたお陰でありますし、市営の道場でこうした修行をさせていただけることに感謝を忘れてはならないと思います。今後とも、このような有り難い場をいつまでも続けていただきたいと願っております。
 この道場は、長年修行されてきた方から最近入門された方まで様々ですし、きっといろいろな考えをお持ちのことだとは思いますが、坐禅という一つことに於いて統一され、静かな美しい電気が流れているように感じます。この電気が坐らせていただいておりましても安らぎを感じさせていただくことなのだと思っています。
 しかし宗教の入っていない分、何かしら物足りない、本格的な専門道場や禅寺で修行がしてみたいと考えられる方がおられるのではないでしょうか。真剣に坐禅を修行されておられる方ほど、このように考えられるのは至極当然のことだと思います。昔、武道でも諸国を旅する武者修行がありましたように、未知の道場の電気に触れるという体験は、禅にとりましても同じように得るところが大きいのだと思います。
 皆さんは、この道場で坐りの基本をしっかり修行されておられますから、どんな禅寺へ行かれても所作や作法が加わるのと、それに少し時間が長いくらいでしょうからきっと立派に通用することと思います。
 しかし、足りないものが一つあります。「馬鹿になる」ということです。「馬鹿になる」とは何も考えないことには違いないのですが、ボーと坐ることではありません。打算なしに坐る、坐禅以外は眼中にない、遮二無二坐る、言葉が適切ではないかも知れませんが、狂ったように坐る。つまり「狂」でなければ本物の坐りではないと思うのです。
 この道場でも「馬鹿になる」坐りはもちろん必要ではありますが、週1回1時間だけの坐禅でこれを求めるには無理なところもあります。しかし、専門道場に行って「馬鹿になる」つまり「狂」の坐りがないのなら、ここの道場の延長で、それは体験坐禅にすぎないと思うのです。
 師匠にしてもそうです。師匠というのは大きな釣り鐘のようなものでしょう。本物の大きな師匠が居られるのなら、それこそ火の玉のようになって道場へ通い全身全霊でぶつかり、頭突きを食らわすくらいの覚悟でないと、釣り鐘は鳴ってはくれません。指先でノックをしても鳴ってはくれないのです。師匠と取っ組み合いをするとか、問答を仕掛けるとかいう意味ではもちろんありませんが、真剣な坐りは自然と師匠に伝わるでしょうし、その教えも自然と伝えて下さるはずです。
 始めに、ここの道場の電気は静かで美しいと申しましたが、こうした体験を持たれた方の生き生きとした力強い坐りの電気をこの道場へ持ち込んで下さるなら、周りの人にも大きな影響を与えて下さることになります。この電気こそがいつまでも活発な参禅会であり続けることが出来るのではないかと考えているのです。
 お互い馬鹿になって修行させていただきたいものです。






2003.02.16