禅小話

目次
はじめに 1 音  2 槍の位 3 只今に道を求めて歩む人生 4 大文字行 5 気概  6 お地蔵さん  7 後ろ姿   8 息 9 行儀 10 体で考える 11 馬鹿になる 12 終わりに 13 喫茶店のマスターと脚下照顧 14 宝蔵院胤栄 摩利支天石  15 饂飩(うどん)会について

3 只今に道を求めて歩む人生

平成10年8月29日(土)
鴻ノ池禅友会夕食会「ローゼンポルカ」にて
一 箭 順 三

 ここにおられる皆さんは、坐っておられる方ばかりですが、この坐禅会に入会された動機は様々でしょうし、こうして長年続けておられる理由もきっと様々なものをお持ちだと思います。
 私は、高校生の頃から「自分とは何か。何のために生きているか。」と言うようなことを真剣に考え、悩んでおりました。しかし、誰でも特に若いうちはこうした悩みを抱くようではあります。そして、それを解決するのは禅しかない。と思うようになりました。なぜ禅だと考えたのかはあまり覚えていないのです。
 そして、三松禅寺があることを知り、土曜日夕方の参禅会に通うことになりました。昭和44年、20歳くらいの頃です。ここにおいでの横井健二先生は今、三松寺の理事をされ、ご指導を頂いております。
 そのころ三松寺には草薙真龍さんという私と同い年の修行僧が居て、妙に気が合い、皆が帰った後は、真龍さんの部屋へ寝かしてもらい、また明くる日の日曜日には方丈さんや真龍さんと、坐らせていただき、お経を上げてから庭を掃き、朝食を頂いて帰る。という生活を2年くらい送りました。しかし、それでも人生に対するもやもやは晴れることがありませんでした。
 一方で、当時の私はたいへんひ弱で、何とか心も体も強くなりたいとの思いから、剣道を教えていると聞いた鍵田家にある習心館道場の門を叩き、小学生の入門者とともに竹刀の握り方から教わったものでした。こうして鍵田道場長に初めてお目にかかったのは、昭和46年、22歳の秋のことでした。
 鍵田先生は当時49歳、大変お元気で、そばへ寄ることさえ恐ろしいような迫力がありました。道場におられると、遠くからでもまともに顔を見られない眩しさを感じました。きっと今でいうものすごいパワーのオーラを持っておられたのだと思います。
 剣道の稽古は毎夕6時からで、道場長は当時、奈良市長の要職にありましたから、勤務の合間に時折顔を出される程度でした。しかし毎月第一日曜日の朝は総合稽古といって、道場長は勿論、県剣道連盟の先生方、先輩、市役所の幹部、平素稽古している小学・中学・高校生まで参加しての剣道稽古がありました。三間・八間の道場はそれこそ立錐の余地が無いくらいの賑わいでした。
 この稽古の後、道場長は道場に正座して剣道、道、坐禅、修行などの話を小学生にも解る言葉で熱心に話して下さいました。道の話や坐禅がいかに大切かをといったことを、20分、30分、時には1時間近くも話して下さることがありました。
 ある日の話の中に、鍵田先生の師匠である河口慧海禅師の話がありました。慧海禅師が亡くなられるときに、坐禅の姿勢に坐り「地位を得たり、金を得る人生が尊いのじゃないんだ。只今に道を求めて歩む人生が尊いのだ。」と言って坐ったまま亡くなられた。と言うお話を声を詰まらせて話をして下さったのです。
 私はこの話に感激し、思わず涙が流れました。この言葉を聞いて非常に楽になったのです。人生には浮き沈みや、いろいろな悩みなどが次々とやってきます。しかし、只今に道を求めて歩いておれば悩むことはないのじゃないか。これこそが自分が救われる道だとそのとき思ったのです。これがご縁で、道場長のお勧めもあって、昭和47年12月、習心館道場の臘八接心(ろうはちのせっしん)参禅会に参加し、以来毎朝の坐禅に通わせていただいた訳です。
 「只今に道を求めて歩む人生」、良い言葉ですね。私はこの言葉のお陰で今日までこうして生きてこられたと思っています。これ以降、坐禅を自分の中心に据え、こつこつと今日まで歩んでくることが出来ました。人生にはいろいろなことが起きますが、「只今に道を求めて歩む人生」さえ、「坐る」ことさえ続けさせていただければ、迷うことはないのだろうと考えています。
 先ほど山野さんから先生とご紹介いただきましたが、自分でもとてもそのような器でないことは承知いたしております。皆さんと共に手を携え、一緒に修行して参りたい、修行のお手伝いをさせていただきたいというのが私の気持ちなのです。指導員としては歯がゆいと感じられる方がおられると思いますが、今後とも共に坐らせていただきたいと考えております。




2003.02.16