宝蔵院流槍術 宝蔵院流高田派槍術 第二十世宗家 鍵田忠兵衛 目次 1 宝蔵院流槍術と私 2 槍と矛 3 槍の種類 4 中世の興福寺 5 宝蔵院覚禅房法印胤栄 6 柳生と宝蔵院 7 武蔵と宝蔵院 8 宝蔵院流槍術の系譜 9 宝蔵院流槍術 奈良への里帰り 10 宝蔵院流槍術の技術 11 宝蔵院流槍術と川路聖謨 12 宝蔵院流高田派槍術の遺跡 |
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11 宝蔵院流槍術と川路聖謨 タウン誌「うぶすな」 2009.11月号 掲載 |
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川路聖謨先生顕彰碑 (奈良市中央武道場前) |
川路聖謨(かわじ としあきら1801〜68)は幕末の俊傑であり、幕府の要職を歴任し、日露通好条約を締結し、北方四島が日本固有の領土であることを明示したこと等で知られています。 その川路聖謨が1846年から5年余に亘って奈良町奉行として在任しました。この間、貧民救済策を実施し、東大寺・興福寺を中心に大規模な植樹を行い、今日の奈良公園の基礎を築くなどの善政を施し、奈良の大恩人として今なお市民に慕われ尊崇されています。 川路聖謨は、奈良町奉行在任時に綴った日記「寧府紀事(ねいふきじ)」を遺しています。これによると自身も宝蔵院槍術を修め、また子息・市三郎を興福寺の子院であった宝蔵院に入門させ、宝蔵院を訪問して稽古を見学し、度々院主と対談していました。さらに驚くことに、彼の日課は早朝に起き、3.7sの刀で2000回の素振り、3sの槍で基本稽古である「素こき(しごき)」を4000回、11sの甲冑を身につけて13qの歩行など徹底した鍛錬を怠らず、その後に「資治通鑑(しじつがん)」や「四書」等を読書の上で公務に就いていました。 川路聖謨はこのようにして毎早朝、人知れずの鍛錬と読書で心と体を養っていたのです。これは彼の健康法の一つではありましたが、それ以上に、いつでも国家のお役に立てるための準備を怠らぬ心構えであったようです。「甲冑惣目かた三貫目(11.3s)位にて二尺三寸に壱尺三寸の脇差をさし三里(11.8q)歩行し馬にて五里(19.6q)往来せねは武士の役はたたすとしるへし」と「寧府紀事」に記しています。 参考に、「寧府紀事」のうち、武道・槍術に関する抜粋を掲載します。 ▼ 1846年 1月11日「奈良奉行に任ぜらる」 9月12日「鑓刃びきの数をましたるは、江戸の如き稽古なき故也」 10月11日「きょうも太刀ふり、鑓遣う(やりつかう)ことれい(例)の如し」 10月14日「六時より起きて、太刀ふり、槍遣うことれいの如し」 ▼1847年 5月14日「すこき1500百本、大刀のすふり(素振り)500餘は毎朝するなれ共、體を遣うことの少なき故」 8月19日「毎朝3000本の素こき、太刀1000本」 8月29日「槍の素こき3000本、馬に乗り刃ひきふり、市三郎に剣術を遣い」 ▼1848年 1月25日「きのふは市三郎宝蔵院へ槍の弟子入に遣したり・・・。宝蔵院は昨日稽古はしめ(始め)なるに古格にて狸汁を食するよし也、いにしへは真の狸にて稽古場に精進はなかりしか、今はこんにゃく汁を狸汁とてくはするよし也・・・」 5月2日「剣槍稽古に出精するよう激励の詩を与える」 ▼ 1849年 4月4日「市三郎が稽古で先生と組打ちしたるを聞き、怒る」 5月15日「(宝蔵院)胤懐訪ね来たり、槍について歓談す」 5月22日宝蔵院を訪問し「宝蔵院は興福寺の地中なれど、構いの外也・・・稽古場は瓦ぶきはいふもさら也。立派なること目を驚かせり、三間に七間のから板にて、柱六寸角にて、板式はひのきふしなしにて、釘を表へうたず、すきめもなく、全に能舞台のごとし、稽古場のはめへ竹すだれのごとくにやりをかけたるに、二尺もあまれるにその高サを思ふべし・・・」 10月22日「宝蔵院の稽古場で演武を参観」 このように自身を厳しく律し、他人には優しく接している様子は、日記を通してその人柄が温かく伝わってまいります。そして私共の稽古ついても、先人の心・修行を見習わねばならぬと強く考えさせられます。また、幕末頃までは奈良興福寺・宝蔵院に院主が居られて槍術指導がなされ、その稽古場は立派な構えであったことが彼の日記から知ることができるのです。 |