かわじ としあきら
川路聖謨
川路聖謨年譜 寧府紀事 島根のすさみ 寧樂百首 植櫻楓之碑
享和1(1801)〜慶応4(1868) 通称は左衛門尉、号は敬斎、豊後・日田の人。 父は豊後国日田代官所の属吏であったが、聖謨は小普請組川路光房の養子となって川路家を継ぐ。 勘定方勤務のうち手腕を発揮し、勘定吟味役に抜擢。 次いで佐渡奉行、小普請奉行、奈良奉行、大阪町奉行を経て、寛永5(1852)年、勘定奉行に昇進。 自らも宝蔵院流槍術を稽古し、奈良奉行時代には、子息を宝蔵院に入門させ、宝蔵院にも訪問している。 自身の修行として、槍四千本のすごき、素振り二千本などを早朝の日課としていた。 寛永6(1853)年、プチャーチンの来日により長崎での露使応接係を命じられ、次いで翌年には下田での日露和親条約を結んだ。 慶応4(1868)年3月、江戸開城の報に接し、ピストルで自決。 |
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奈良奉行宝蔵院訪問記 「寧府紀事」奈良奉行・川路聖謨 (抜粋) 宝蔵院は興福寺の地中なれど、構いの外也、直に稽古場の門より参る、稽古場の門といへど瓦やね、ひらき門にて立派なること也、門内に与力共稽古として参るもの共、立出て平伏せり、宝蔵院の後見、満田権平というもの案内いたす、宝蔵院は白き衣に紫のさしこをはき、大脇差をさして稽古場の上が口に出迎たり、稽古場は瓦ぶきはいふもさら也。立派なること目を驚かせり、三間に七間のから板にて、柱六寸角にて、板式はひのきふしなしにて、釘を表へうたず、すきめもなく、全に能舞台のごとし、稽古場のはめへ竹すだれのごとくにやりをかけたるに、二尺もあまれるにその高サを思ふべし、見物所は床付八畳にて、次之間もひろし、うしろは通し椽也、御門主ご覧のときのためのよし、みすをかくるまうけありて、みな高麗べり也、円なる額をかけたり、字は唯心蔵とあり、朝鮮人の筆也、稽古場の隅に愛宕の将軍地蔵並春日の赤童子といふものを勧請して、元祖胤栄の像あり、この所も八畳ばかりにてごう天井也、わが坐は毛氈を敷、金屏風立あり、(地蔵前に月願堂とあり、胤憲筆)次之間はわが召連たる給人近習並今日召連参り候老分の与力共三人、かた衣にて着坐せり、稽古場にいる側付にて、そのいるかわの末にのれむをかけあり、そこに稽古する人々は溜り居てしたくする躰なれどみえず |
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講演会「奈良奉行・川路聖謨と宝蔵院流槍術」(平成17年10月22日) |