ねいふきじ

川路聖謨
川路聖謨年譜 寧府紀事 島根のすさみ 寧樂百首 植櫻楓之碑

武道関係抜粋集
奈良奉行在勤日記  川 路 聖 謨
                                             編集 一箭順三


弘化三年三月四日 

 六半時南都に発足いたす。天気ことによろし。茶紵の袴御紋附の羽織著着用いたし、虎の御門通うりを参る。品川釜やにて小給いたし、七半時前神奈川宿に参着。・・・


弘化三年三月十八日 雨

 暁八時過に出て拂暁に京都の用達若狭屋八兵衛方にいたる夫より京都奉行月番伊奈遠江守御役宅に参る同人方にて朝飯菓子等出る。同人同道にて二條の所司代若狭守殿の御役宅に参る。在京の面々は、所司代はじめ、御用にて参り被居候高家より二條御門番迄不残罷出所司代平伏にて関東の御機嫌伺有之。いかにもいかにもきらびやか成事也。所謂、戯場の上使之義に付上座は御免と申候體故例の麁末(そまつ)流よほどのりきみ也。事畢て御所司代之御談等有之、けしからずひまとれ候か九時過に八兵衛方に罷帰候處都筑金三郎其外彫工一乗迄追々に入来にて中々晝飯も被給不申候間はなしながらに飯給候て出立被参人々居のこり候て見送也。夫より伏見に参る。伏見奉行不快に付、御機嫌伺なし。七半時旅宿に到著。

弘化三年三月十九日

きょうは南都に着くと申に、雨は止たれとも今にも降りなむ雲のたたすまいにてうくおもいながら行うちに、南都に四里はかり手前なる玉水というところにて、晝食せし頃より空少しくよろしくなり、これならばふりもすましとおもい行うちに、段々とはれ木津川の船わたしにかかりける頃は、四方の山々はれ、日かけほのみえて、はなくもりてふ天氣に付、こころいさみて木津川の土手の上より川の向うをみるに、人蟻のごとくに集りたり。ちかくなりてみるに、鑓立てたるもあり、みなみな麻上下着せしもの共也。
川をわたりて一番に平服したるは給人の松野四郎にて、夫より宮方之御家来或は紀州熊野三山之貸附懸之もの共、與力同心壱両人、其外町人共に至り候迄、夥(おびただしく)出迎たり。木津川の河原は、白砂百間も其餘もある所に大勢出たれば、よほどけばけば敷こと也。町人共はもも立にて供の先に立也。<是も夫々の規模寄故振合のある事也
 夫より宮方之御家来、或は町人穢多の頭の長吏というものに至る迄仕来にて、奉行所門前迄之内に追々立迎いたす。其外見ン物の夥事はかぼちゃ西瓜をつみたるがごとく頭をならべ、女共には夫々衣類等着替て出居る體也。わが此國の司に成てくればこそ、かくもみるとおもいければ、肩輿の簾をかかげてみるに笑うべきことの多かりき。それをも忍びて、木まじめにて着したり。
 奈良の御役所玄関前は立派なることにて、表向は長屋門、玄関、太鼓やぐらとう
に至る迄、悉(ことごとく)つつ瓦にて五六萬石位の大名の立派なるがごとし。され共、慶長巳前の普請のままなるべければ、きれいにはあらず。しかし、畳かえ等ありてわが宅よりはよほどきれい也。庭は、大松は、一かかえ二かかえもある松。其外、小松迄も二十本もあるべし。さくらさかりにて泉水のけしきよろし。さと并(ならびに)御陰宅御夫妻市三郎共并家来にいたるまで、一人も無恙(つつがなく)一同到着のよろこび等申述る。・・・


弘化三年三月二十二日 快晴

 ・・・それより三條通いうまちにかかり帰るに宗近が子孫の家ありて今も鍛冶屋也。きつねの手傳たらは格別、脇差もうてぬ體也。文殊重國の子孫の家にて一文殊重國という札出しあるはいかにぞや。或は、ここの堂に古きまるたの弓ありというもおかし。こはいにしえの丸太弓の古く納たるなるべし。


弘化三年三月二十七日 晴

 きょう九時[十一時五十分]前後、少しく雲ありて、いささかよしのかみを引わたしたるがごときに、日に暈(かさ)ありていろ虹のごとく。みな珍しがりてみたりし也。江戸にてはいかがありし、のちの便にきかせ候えかし。
 江戸屋町というところあり。具足師江戸や與左衛門というものの住せし地にて、ここにて甲冑をつくりたるという。與左衛門は、岩井が祖にて今ある奈良ものという古き出来合具足をここにて作りしなるべし。

弘化三年四月五日 晴

 わが江戸にて遣いし素こき柄は、一貫五百目[五.六s]ありし。久しくやすみて、きのう槍の素こき柄来たりたり。八百目[三s]餘也。けさより遣いはじめみるに江戸にては、彌吉の兼て被見候通一度に千三百本宛毎朝こきたりしが、けさ漸半(ようやく)の目方の柄にて六十本こきたれば、腕折るるごとく成たり。
 温故知新の温の字を温●(おんぜん)と註し、一旦あたためしを断絶してひえぬ様にするとの論、實に確論なり。我等がなぐさみ同前のことはしばらくさし置ぬ。いかに上手といわるるとも、中絶しては必いたく藝おとりて半にも及ばぬなるべし。温●の字、武藝を学ぶものも忘れてはならぬ事也。毎々彌吉に申すことながら、朝夕に日々少なりとすれば、藝さひぬ故にさほどにはわるくならぬ也。
 刀を為磨、おりおり拭候といかに心をいれ磨きたりとも、久しくうちこみて赤さび出たると引くらべみると心をいれたるかた却て大に劣る也。この心藝術上のたしなみ第一なるべし。
 わが武藝もと鈍刀にてあしく時々磨たるが、さびたるに付、以後は銕きうにも刀にならぬものと成たるなるべし。可怨可悲。このほども例のす振、素こき毎朝いたす積也。すぶりも重き刀にて、三十ばかり漸(ようやく)なりしが、是は到着三日相立候にはじめ候間、けさなどは三百七十までに復古したり。


弘化三年四月十八日 晴

 民蔵其外の妻共初て春日其外に参詣いたす。若草山に登るをみるとて、みなみな望遠鏡をもてみるといえども遠ければ人かたわかるのみにて其餘はしれず、そめが話に聞に、所々にて江戸の女をみるとて、大勢附そい歩行、町送にすること全江戸にて生醉、あるいは引廻をみるがごとし。茶店へ休めば其茶店に参り、着物等をみる。一度にてこりごりせしと云。きょうはところのものも出て、わか草山の辺にぎやか也。髪差等眞の鼈甲さしたるは更に一人もなし。衣類は緋の板しめ等着するなれ共、かんさしはみなしんちゅう等にて凡壹本二百文に過しはなし。され共、前に弐本、後ろへ弐本さすは老女といえ共、みなしかりまして、わかきにはあみだのごこうの如きかあり。しかしながら、くしより根とめのかんさしに至るまで、みなのこさず集るとも、百疋のものはあらじといいき。銀のかんさしさすものにてもなければ也。江戸の軽きものにも、笄(こうがい)[かんざし]壹本に七八両宛のを用ゆるはいかなることにや。武士の妻の頭の飾八十両もありて、夫の刀は三両にもいたらぬ用たたぬを帯するもある。かなり嘆息のこと也。奈良を笑うべきことにはあらぬ也。


弘化三年四月二十一日 晴

 内藤鍔(るび)のはなし井上にすすめしも尤也。両三日巳前前山吉兵衛が鍔銕色はよからねと、すがた并(ならびに)耳とも至てよきを買いたり。翌日、日なたへ出してみるに、下さいあかし少々頭を掻きたり<價百疋>。笹蟹の至て古き金色繪のめぬきをも買たり。<弐朱>。然るにさくらいのさとの豪商がうりもの也とて、三尺計なる備前一文字の太刀<至て古き坪かさの最上なるに、きりと菊の紋ちらしたる目ぬきふち頭さやかな物、みなよき時代のきくの模様さやへ銀にて菊をちらしたり。>一目にて楠家の重寶とみゆるに、虎と熊の尻さや添たり。是も又古色あり。これは群山の道具屋がわが鑒定(かんてい)をきき、および與力を以鑒定をこい、若哉望みならばうりもしつべしとの事也。鍔に金家風のもようある故に、眉毛をよくつばにてしめしみしに、継忠にやいかにも疑敷ものにて<七分三分と申もの也>。さて、其道具屋が持来りしに至て古きものはみないろゑの剥しをあとにてさしたるもの也。・・・
 幸三郎より所贈の袋長刀體のもの珍敷是は袋長刀歟(か)。しかし、きつ先長刀ともみえず、つくしほうの袋なるにはあらずや。

弘化三年五月二日 晴

 われ、興福寺土塀をみるに、としを経、くろく成、雨にあたりたる所木めの如く成文を顕し、石にも似たるがごとく破れたるを補理せしは、●に不及不審におもいて医師隆慶にといしに古老の咄に土を油をいれて一旦煮たるものといい、既に土を煮たりしという大釜なお存するよし也。夏王勃々が虎牢の土を蒸して城を築けりとに事、謂あることにや上方中国の土を練り、酒歟(か)油を以ねり城を築たらば、夏の城のとく成べし、漆くいを酒にてねると、としを経、如石に成漢法ありという也。

弘化三年五月十四日 快晴

 ・・・石切たむけより春日山の奥なる御林に行<三十七萬坪あると云>。杉松のよき御林なり。ここの鴬の瀧というあたりの木を千両ほど東本願寺に御拂になりて、、此節伐木のさかり也ければ彼宗旨のこと故、僧俗加りて材木を引出也。
 鴬瀧を見おろす小屋にて小休いたす。この御林おもいしよりも廣し。山小屋三ヶ所あり。三十町餘あるという。
 そこより若くさ山の麓に出、若くさ山の絶頂にのぼりたり<ここに鴬陵という石碑あり。或曰、又紫式部云々と彫あれどもみえず。此わけ追て尋べし。四拾間四方ほどは平坦の地にて、木津川(即いづみ川)、其他昔の御所旧址ある法華寺より、一條、二條、三條の通り等畫圖(がと)の大成をみるがごとくにわかる也。高さは八町[八七二b]ばかりもあるべし。月も虫も遠地なれ共花もみちともにみるべし。山中に更に木なく、高麗芝織がごとくにて摘みのこされしわらびの少しづつあるばかりにていかにや草の高き所もなし。いつもここに人の遊ぶところにて、女子ども遊山所には所謂高して危からず、いうべくあらぬよきところ也。
 その芝山を下たれば、麓はかの武蔵野にて、即武蔵野という茶店あり。ここにて小休いたす<この茶店にて酒も肴もうるよし也。八疊、十疊、十二疊位の坐敷、三間ほどづつあるを、いくらも(五ヶ所)立ちならべ、その境をつつじと小松にて見切をして隣へ行かようことは自由にて、さて又みえすかぬごとくに造りたり。天井は、みがき竹をあみ、垣根を天井に成たるがごとくにて珍らしき也。ここよりも奈良の市中、いこま山等よくみゆる、至てよき遊び所也。みな人の酒のむ所とみえて、楽書無用という札を出しあれ共、所々旅人の楽書おびただし。其内に、武蔵又は江戸などとかきて同行何人なとあるは、定て町人なるべし。され共、誰なるやとおもいなつかしき也。月の夜、花の夕等奉行来り、やすらう先格ありやとといしに、御門跡の御方々は、若くさ山へ幕打て御遊びもありぬ。奉行の行ことは、きょうの巡見の小休ばかりなりという>。
 そこより供立をいたし、肩輿にて七 ツ時頃に帰りたり。きょう石切嶺より股引半てんにて歩行せしが険阻のみちと、此のほど庭より外歩行せぬ故に大につかれたり。<草臥しはともかくも、第一に刀のあたる所に大福もちほどのはれ出来、豆も少々出来たり。普陶侃(かん)か甕(かめ)をはこびし遺意にて、すこき千五百本、大刀のすふり五百餘は毎朝するなれ共、體を遣うことの少なき故、かく女のごとくに成りたり。間宮林蔵、夏は多くはだしにて歩行也。いかなればかくはし給うぞといいしに、あしのうら柔になるとこまることあるといいき。いまおもえば尤成事也。これよりは大刀をさして閑暇に馬場を駆歩行てならすべくとおもう也。平山幸蔵が大刀さすは、體をきたゆるためもあると伊能一雲斎のいわれるきさもあるべし。>・・・


弘化三年五月十九日 晴

 ・・・寺院の巡見果て芝辻町にある小屋下圏(おり)見置として参る。けしからず立派なる事也。會所というは、四疊の玄関附吟味所とて長吏共が吟味所もあり。其外奉行所より預け之もの入置候場所三ヶ所、長吏が方之圏(おり)四ヶ所ありき。捕りものの稽古にてもする歟(か)、直心流か今の一刀流などにて遣うしない一本ありき。奉行の来るまちて、所々香をたきて臭氣を去りたるとみえ、沈のかおりなどさても行届たる事共也。穢多の類に権のあること関東に聞かねども、上方はいづ方にても如斯事と聞こゆる也。


弘化三年閏五月朔日

 ・・・夫より二十町ばかりにて、竹林寺に行。行基菩薩の開基にて、本堂の下は行基菩薩の廟所なり。例の軍法力等のよき木仏其外仏舎利、中将ひめの法華経等、奈良御定りの什物也。ここの田にて頻(しきりに)に蟋●(しゅしつ)の鳴也。秋のくれのごとし、いかにというにこうろぎに相違なしという。

 うき旅にあきしとはすはきりきりす いかに五月のけふになくへき


弘化三年閏五月八日 晴 八十五度の暑也

 この頃、しない竹の折たれど、奈良中に竹刀なし。郡山迄行という位のこと也。勿論からかさやにても、しない竹には切ておかすという也。
 宝蔵院の槍をいまだみず。定てけしからずおもうことのあるべき也。
 土地は散楽、茶の湯の外は稽古するものなし。歌よみもわずか成り。学者は奈良中に唐本をよむもの三人ばかりあるべしや。無覚束儒者というものの一向にて、文章等何かよめぬ句法なとあれ共、夫にて天下無雙のごとくおもい居也。・・・


弘化三年閏五月九日 晴 

 穢多共が牛を密に殺したるものあり。関東には十五年吟味物取扱たれども一度もなし。例をみるに、奈良には昔より多し。軽き盗いたしたる程の刑に成る也。めずらしきことにおもいければ、段々と審に聞うちに、其のきもはいかにせし、牛胆というて薬に成るかいかにといいしに、夫はたきて食いたりという。再びもみたひも押て訊問せしに、おなじことはけしからず胆は味はいと苦からむによく食いしといいしに、いやイイーに候哉イイーに候得は、干て猪胆にして売りしという。牛の猪胆とは猫か馬糞したり、打殺して熊胆とらむといかりしに、そは猿の間違なるべしとて、かたへなる人がとどめしと云、幼物語に似たりとていたく笑いければ、與力共も絶倒もすべきを、白洲のこと故、せき拂に紛し居たり。尚、追々と聞くうちに角はいかがせし、爪はいかがせしと問しに、みな髪さしの料にとて大坂の商人に賣りたりという。そは鼈甲或は今いう馬爪というものにして賣りたらむなといいしに、はいはいといいてよくわかりたり。しかし尚おもうに牛の猪胆を笑う奉行が牛の馬爪鼈甲といいしはいとおかしきことなれば、おもわずこはいかに牛の猪胆を笑いし奉行が、すももの梅干ににたることいいしはいかにとて失笑せしかは、又與力共、あたへを向きたり。


弘化三年閏五月十三日 曇

 佐久間修理より越せし遠西砲術略叙一覧文書のことはしらず。一體の意いかがあるべき。先ツ近年有聞西洋火術之略而自私其説不軽以語人者余竊咲之という書出し故に、大に世の人にもあたり、又こころざしのところもよからぬ様也。内意はかくのごとくなりとも、西洋火術の書、よに多くあり日本にて火術も多くあれ共もとより西洋より来りたるものなれば、西洋の詳なるほどのことはいかがあるべきや。然るにこの人かかるものをあらわせしは、もと國家に益あらむ忠告のこころふかきによるものなるべし。世をすくうこころの深きは、仁の一端ともいうべし。かかる深切なるべし。よって望乞にまかせて叙するとありたらば、却(かえって)てよからんに拙(つたな)くこころせわきものを相手にとって夫を筆のとり所之はじめにいい出せし故に、わるくすると此叙文によって砲術家などの内にて彼是いうものもあるべしと懸念する也。文章は大切のものなり。容易なることは書れぬことなるべし。
 流れ行末こころせよ よしあしの難波もこもる水茎のあとという歌よみたれば、彌吉がこの頃文章かくというにつきて、同人而巳(のみ)に對して話置きぬ。しかしながら、われ更に文章のことをしらず、好まぬ故に修理などに聞せば大に笑うなるべければ、一家私言もとよりのことながら修理は懇意の人故に、序(ついで)に可申遣とおもう故にここに記す。


弘化三年閏五月十四日 晴八十三

 中間、草を取とて、まむしにさされて大になやみたり。村人によく療するものありて、頼しに、布へ何か包みたるにて撫たるに、いたみ去りて快よし。草の葉をつつみて夫にて撫れば、肉の内にのこりたるまむしの歯ぬけるよし也。此度二本抜しと也。その草を教えず。段々と内々聞みるに八幡草というもの也と也。その草ひるがおとも夕かおともいう純白又は小しく赤色を含たるもある朝顔の花に似たる蔓草あり。其草に凡(およそ)のすがたは似たり。茎はまづまづたでに似て、高さ壱尺ばかり成草にてにて、葉に八の字うらおもてに陰然とみゆる也。因て、八幡草の名ある也。その草をとりもみ、灰汁につけたるにて、布につつみ、いたみ所を撫れば夫に歯のつきて抜け、いたみ去るよし也。其草を尋ねしに、垣根にも、庭にも多あり。おもわぬところに薬のあるもの也。定て関東にも多ある草にて、韓名もあるべし。人の為に成こと也。よって記す。


弘化三年六月十日 晴九十二度

 けさ居間に鼠居たり。兼て聞きしことありける故に、試に小侍をして、つまりつまりは出られぬ様にして、かれが隠ることのならぬ様に陰蔽(いんへい)の所なからしめ置、扨(さて)侍にはたきの柔成かしらにかたにて鼠のかくれ居るを撫でさするに、彼驚てはしる也。され共かれ隠るるところなければ、右に行き、左に行て、くぐり出る穴をもとむるに孔なし。よってかけ廻りて獨りつかれて、いささかの陰に行て、息をつかんとする故に、またかのはたきのかしらもて、往てなつれば走る也。かくすることしばしばなれば、少しくひまはいれと、終に鼠の息きれ、あしなえて、少も走ることなりがたく、果てはいか様ともなる也。その時に小侍が自由に殺す也。かくする時は、手間はとるれども、あやまちなし。棒を以、追い廻りなどすれば、障子の桟などを打折、机の上のものをそこないて、さわぎ又夥しく、或は、坐敷などを血だらけにする也。今一段氣を短くすると、手つかみなどにして大成ことを引出し、醫師を招くにいたる也。
 大國の小國を攻め上たる人の、小人を治る、みな此術也。鼠をとるは、前のごとくに酒井成大先生のなされしと常に語られけるを、きょう試みしによく出来る也。このこと小なることなれ共、大に用らるるべき様也。つまりは、氣の短か大損の種とおもわるる也。
 寶藏院のことを聞みるに、槍技は近頃、上覧の時、清水次郎傳授を覚えしまでにて、扨、寺につたうるものなし。中河内國助が●し鑓(寛文)を以第一とするにいたる。間取に不足、其内一本、わが所持の金房(かなんぼう)に似たるあり、中心(なかご)を辛(かろうじ)て抜みしに、果て金房正貞なり。幸い正貞の作も持参りたれば、引くらべみるに一毫(いちごう)の違いなし。
 只、寶藏院のやりは、摩利支天と表に鐫(せん)[彫る]、うらに蓮華あり、鑓は元も末も柄の太サ八分[二.四p]あり。尤もしお首のかたは、かなものあれば、正味七分五厘[二.三p]餘もあるべし。手とまり金のすり込にて、中心はかたくり込也。石つきとかりて穴なし。おもうに正貞天正[〜一五九一]頃の人なれば此やり二代目以下のものなるべし。され共、全體を存せしもの是より外になければ、かの寺随一の什物なるべしとおもいて、これをば不失大切にせよといい遣わしたり。


弘化三年七月二十日 くもり


 ならによく革を扱う村人あり。其のものに申付、眞の馬革の藍染をつくらせたり。いろは十分ならねども、至てよく、且長ければ、少しの継合せにて柄まける故に、武用にてよし。幸三郎、新右衛門など、入用あらば遣すべし。中々鹿の染革の類にはあらぬ也。大に発明したり。よってねり鞍の傳絶たるに、わが所持の品をみて大に得たることありとて、居木迄惣ねりにて五両にて可作という萬代もの且武用第一のもの也。彌吉など心得に成ことはあらば、申越候へ。ねりくらのことに付、近辺に武篇者あらばそうだんすべしとおもいて、郡山にあるという故に、夫が弟子の與力より聞かせしに、無覺束答にて實はねりくらはみしこともなきかとおもわるる也。細川に製作の明なるもののあらば、聞合給はるべし。先此度のは、居木迄今あるねりくらの通の製作にする積也。
 勝頼が家来四十六を戦場にて老人といいしこと可疑(此事先達てしるし置候)。われ同年なれ共、その様につかるる氣なし。此ほど五分の勝負をせぬ故に鑓のすこき、都合二千二百本餘、刃びきの刀都合千三百餘、毎朝ふれ共つかれはせぬ也。朝馬にのり候て、直に宗次郎市三郎誠一を折返し三邊つつ剣術を遣い遣わすなれ共、くたびれはせず。勿論御用向きのひまには経書歴史をよみ、萬葉集の一覧などにて少も不怠され共、こんきのつきたるとおもうこと少もなし。
 只可怪は時に寄、御養父様の御相手又は嘉日などに酒をのみみるに、追々酒料減少しこの七夕などは、中猪口三ツの酒漸也。きのうあたりは涼しき故にためし見しにやはり同じこと也。酒はもとより好みながら至て悪む故にのめぬはいかにも可飲といいしが、夏巳来之體一合を三度に可用位也。よつて記之御隠宅の御説にては、あつきとなま魚のなき故なるべしとの御事なれ共さにはあらずしかれ共身體至て健なれば、少も可怪ことはあらねども一體慷慨の氣を吐ために、おりおり酒を用ゆるというがごとき氣味故、老境に入て更にのめすなりしにや可悦の至ながら、また可怪がごとし。聖智暗合の禁酒と成しは一奇也。


弘化三年七月二十七日 晴

 母上様御日記之内太郎のちゑのちゑ敷く相成候と之義、御認被遊候茂兵衛よりも骨ふとに丈高く可相成哉。けしからず成長との事申参候。林述斎大学の頭が朝鮮人に被申候通當時の武士と申すものは、学問其外の文事は悉武を講ずる閑暇の心懸にて武事は本職業故健にてさえあれば、先武士の一事はあると申候ものに付、一際目出度事に御座候、只々貞實に若夫婦心を用養い立可申候。
 林家などのごときは、日本のいにしえにていう譜代儒たる人にても如斯なれば、まして武役のものは武藝第一なるべし。され共、十五歳以下にては武藝はあまり役にたたぬものなれば、八歳にて手習算術素読をはじめ候て可然か。算術はひら算を知らねば軍學にも経済學にも大に困ること也。近来算術を町人のするものと心得しは、武術かたより候て、書物を僧侶のものとするころよりの流弊なるべし。八歳にして小學にいり、書數を學とみえ、六藝のうちに數を加えあるにてもこころあるべき事歟。
 算術と水をおよぐこと程、知る人と、しらぬ人の違いあることはなき也。孫子にも、兵法一日度二日量三日稱とあれば算術をせぬというは、一向にわからぬこと也。
 武士の博學必とすべき事にあらず。四書七書小學をあら増すに心得たらば先可なるべきか。太郎に貞實を専ということは、貞實は、幼年より教にて貞實に成也。利口にて才あれとは少も思い不申候。利口にて才あらば身を亡すいまいましきことの一ツある譯成也。いかに貞實に仕こみても、元来才あらば徳のはたらきと成て、貞實もよく出来べき也。才力と智恵ありて、貞實ならずば必家を亡すべきもの也。可恐こと也。よってかくは申す也。

 ・・・遠国に来りて、江戸の御手當の行届をおもいはかれば別段なること也。一事を以云うときは、奈良に天災ありても町會所のごとき御扱はならす人足寄場というものなければ、入牢者百人之内、四五十人は再犯也。その筈也。出牢して一銭もなければ餓死するより仕かたなし。餓死を守りて、節を動かさぬは賢人君子のことにて、無頼の無宿を無銭にて追拂うこと故、又盗をせよかしとかり歩行くがごとく嘆息之至也。

 われ奈良へ来り五月二日に始て入墨又は敲(こう)[むち]之もの十六人計ありしが其再犯頃日迄に四人召捕、壹人は野非人に成て餓死したり。可憐のことならずや。遠国へ行ねば御膝元のことはしれぬ也。たとえば、原吉原にてみれば、富士はきしより高からずおもえども、筥根に登りてくたびれしのち顧みれば、筥根はふじの麓なる野路よりも遥にひくき也。其節初てふじの別段なるかしるる也。御膝元をはなれ難有ことをよく知る、是に似たり。


弘化三年七月晦日 晴

 来月4日に鹿の角切あり。よつて所々より鹿駆集るところ、一疋の大鹿ありて、手にあまりたり。よつて町人之若もの共、打より取押たるところ過にて殺したり。よつて一乗院宮并興福寺大衆共より吟味願申立る。其勢梁恵王に不減。われいう、中秋にいたれば鹿の人を傷う故に、奉行所聞済にて差押て角をきる也。
 鹿の角をきるは、鳥の羽をきり、人の指をきるにも近し。既に鹿を傷ふことをゆるす上は、過て死にいたるまじきにはあらず。こは常典を以取扱かたしといひしに、大衆寶蔵院等大に服したり。
 いにしへは、鹿を殺すものは興福寺の山内を引廻してさる澤の池のほとりで石こつめという刑に處し、或は首を刎たると云う。そは定めて戦国以前のことなるべきを國家の例典のごとくこころ得居るにはこまり果る也。つるころし、鹿ころしのつみ死に及ぶというは梨園の戯曲に演義せしものとおもいしに、其實物に逢いて困るも一奇談也。


弘化三年八月二十一日 雨

 政常鑓二十五匁[九十四c]とのよし。よくば買物也。あまり大身ならぬ鑓三十匁[百十三c]前後にて上作ならば買置べき事也。
 脇差の研、出来参る。一覧今少しよろしかるべくと存候處、兼定の不出来のことし右に手は、くさり縄の對には難成。くさり縄のわきさしには、錦さや兼定を用い重國の脇差へ可成のものを用い候ては如何。
 出立前にたのみ置候、素銅目貫は「きつこう紋所」いまだ出来不申候哉。
 大越よりくさくさのことを申参りて、こころなぐさめにとて、刀の話を數ヶ條まで記されたり。三百両四百両の刀あるとのこと也。われ病ほど刀を好めり。しかし、高金のものは不好。五六十両以上の入費ならば、二十匁[七十五c]三十匁[百十三c]の西洋砲の類為鑄(ちゅう)度もの也。


弘化三年八月二十四日 曇

 試に、算木を投て乾の出しより、陰陽陰陽とくみ行ば、火にはじまりしは水に終わる也。坤の出しは、水にはじまりて火に終わる也。其うらをみれば、申迄もなく表水火なれば、うら火水と成居也。春夏秋冬の移行日に朝夕ある月に盈虚(えいきょ)[満ち欠け]ある人の三時はねぶらねばならぬなど、みな天地人一體のことなるべし。されば、天にまかせて何成をかわせむ。天にまかせて消息は常也とて捨たらむには必、悪に流るるなるべし。聖人消息盈虚(えいきょ)のことを易に説ながら、陽を助けて陰を抑給うは、必いわれあることなるべし。夜の五十刻は日の五十刻より短く、六時起て六時寝ては、ね過る。其外一人生れて一人死するよりも人別のます體など、必よく明らかにおし究たらば、陽のかたかち居るなるべし。聖人、陰陽消長をときつくしながら、陽を助け給う意を以、天意とみて天にまかせてする上は、日々のことおもい附しこそ天意なるべけれ。よきことを助けて、悪きことを抑て、日に善に進まんに、陰に終に抑とどめらるるあらさらめされ共、元来元気より陰陽にわかれ、其陰陽によりて天地間のこと行われ居るは、陰のなきということは決してならぬ也。
 豊年に凶年の手當をし、夏のうちに冬の着るいの手當をするごとく、盛なる時に衰るこころえなくば、必迷うべき也。盛成時に衰る時の手當とて、金銭を貯ば、ますます早くおとろうべき事也。金銭は身につまず、いかにも質素にして目にみえぬ處に積まるるならば、つみたき事也。このこと前にも其意を記し常におもうなれども、何分にも出来ぬ也。これは彌吉等へとくにはあらずわかさん悔はなし也。


弘化三年九月十二日 晴

江戸の例にならい 行道院様の御正忌日故牡丹餅を造る。ひる打ちより給申候われけさ未明より起、鑓のすごき及び刃びきをふること凡四千五百餘。朝は例之通り通監(つがん)[司馬光撰、資治(しじ)通鑑]たち故、腹殊にへりたり。もち七ツ食いたり。殊の外出来たりとおもいしに、父上は八ツ被召上たり。・・・

 鑓刃びきの数をましたるは、江戸の如き稽古なき故也。


弘化三年九月十四日 晴

 今日は立田最寄に巡見として参る。法隆寺はとても四五日もかからずしては可也にもみること不能、よって巡見の昼休半日にては早く参るかた可然と與力等が申によって十三日の月西山にまだ高くみゆるころより起て朝かれい給。●に足もとみゆるばかりのころより奈良を出たり。法隆寺には・・・

 ・・・峰の薬師に参る。ここの堂は一面二間餘づつもあるべし八角の大堂也。全御成小路の武器賣る肆のごとく、且小間物やにも似たり。くし笄(こうがい)[かんざし]の類、かがみの類、●刀剣類甲●鑓矢之根數ふるにいとまあらず、短刀の類、屋根のうらよりして少しのすき間なくかけあり。千を以數うべし。又山の如くつみたる内に古きつか前與四郎鍔或はよきさひの中心などみゆる也。古き相州住行光という箱ありければ、この刀をみたしといいしに、これは寶藏にありてここにあらずという。可疑事也。
 今も皆納よし也。なるほど新敷狩人の●砲又は立派なる櫛笄釘附にしたるあるは白さや等多ある也。けふここに来たり貞助などよき柄也、此やりの中心はよし、鍔のかねよし、などいいてしばし日のたけるを忘るる體なれば十日も引越きりにして見ざればあかず。やめよといいて帰りしに、はや七ツ頃になりたり。・・・


弘化三年九月十六日 晴

 霜なし。少しく暖也。けさ馬に乗、仕舞又日記再讀する也。・・・


弘化三年九月二十三日 晴

 けふは同心共の●砲見分也。三十人居立一玉ツツ。星皆中は百疋、只の皆中は弐朱宛被下事也。星の者弐人、皆中ばかりは五人あり。


弘化三年九月二十六日 晴

 此ほと少々宛の風邪あり。さすがの御両所様もくさめなどなさる。され共、葛根湯にも不及、御酒にて相済。おさとけろけろにならず、葛根湯三ふくにて相済。市三郎食物は常よりよく、折々起出元気ながら六日ばかりねる。左衛門尉、あさの飛びはねなく、其餘は常之通。以上不時候之定例、おさとのけろけろよほどよく直りたり。


弘化三年十月三日 晴

 ・・・六時[午前六時]より例の飛びはね也。鑓の手いろいろにして三千百五十本、是は江戸の鑓より目かた軽く、七百三十目[二.七s]、且歩行こと少なければ數をませし也。居合切返し等三尺弐寸の刀目かた六百八十〆[二.五s]にて九百弐拾五本也。弐尺六寸の刀目かた四百十〆にて居合切返し、曲尺を踏共一千五十本也。
 右より書物に成。小學、近思録、傳習録の類之内にて、凡弐枚を五篇ツツ程の割成。四書之内五枚を三篇ツツ程の割成。家来弐人市三郎え素讀、剣術、龍助、達て申に付、易の講二●ツツ、尤講する所は必●書いたし候て、翌日講する也。孫、呉之内二十枚ばかりツツ、通鑑同断也。夜に至り、ひまあれば萬葉集考の眞淵が説と、代匠記の契●が説と校合、書入等いたす。夜五ツ半時[午後九時]過よりは歌をよむ也。馬を乗るは三日目也。
 右の通り日課に付、ひるの白洲、與力共之對話、御仕置伺書之一覧等もあれば、凡四ツ承り候てよりやや仕舞う也。是は故郷の情を減する身の補い也。心學せよと愛日楼より文通もあればこころつくれとも、心は矢張もとのまま也。戚南塘が業をねるはやすく、こころをねるはかたしとのこと、くれぐれ感じ思い、且、大に恥るなり。・・・
 かくこころよく日記をしるしはて夜食4はいめを一口食せし時、民藏急に参り、一寸申上度と之声、いかにも物かわりたり。何そといえば、御用状とてうち泣也。はっと胸潰ければ、ここよと氣をしづめてきくに、彌吉が二五日に果てしと之事。其の餘はいうべくもしるすべくもあらず、只母上のさして御當りなきと之義、難有。・・・


弘化三年十月五日 朝より雪ふる

 ・・・彌吉彰常は、わが二十五歳の時、とんとん橋にて生まれて、ことし二十二歳なれども、われとはかわり直にして温なる人故、人々おもい附、われと書物の上にて古人を評し、或いは経義の論●にあらそうことはありけれ共、其餘人と物争することなく、十壱歳の時四書五経の素讀の御吟味に出て反物三反給り、十三歳の時より佐藤捨藏が塾に行き書をよみて、あさあさ隣なる増山河内守が家来のもとへ行き、種田流の鑓を遣い覚え、二十歳の時は免許に成る。馬は細川越中守家来がもと、あるいは諏訪部へ日々行きてことに好みたり。弓はつとめて射し、こともあれと好めるにはあらず。文章は書しが、詩は不好し也。剣術、居合、弓は若年寄の御一覧に出て御好になりし也。

 ・・・われにまさりて謹厳なる質にて鑓とり、太刀振て一陣にすすむことは、予かれに減すべしとはおもわねども、二陣に進み芝居ふみこたえて節を全することは、かれに及ぶべからず。


弘化三年十月九日 くもり

 きょう、大西寺より古銭の押しかた来たる。これは天平神護元年、称徳天皇造立つ遊ばせし伽藍西塔土中南より出しは、金銭にて開基勝寶とあり。北より出しは、銅銭にて萬年通寶というは、至ってめつらしきものにて、友野先生より押しかた御好みに付き取り寄せし也。
 彰常が嘆きにて、おさとが此節の体、實にしるしかねる體也。病たらんことをおそれて、いろいろ異見を加え、われは七十に近くははのましますに、痩せたりなどということありては不幸なれば、こころを男々したり、われを手本にせよとて、きょうより袖もて面をおおうことを少もせず。
 例の早起きにて鑓のすこきなどする。常よりは増したり。この手段は少も暇なく、心を藝に置くつもり也。鑓四千本、刃ひき二千本をふりたり。寝るまで須叟の暇なし。


弘化三年十月十日 晴

 きょうも六時に起きる。昨日の通り、六千ほど太刀等を遣いたり。五時までかかる。


弘化三年十月十一日 晴

 きょうも太刀ふり、鑓遣うことれいの如し。


弘化三年十月十四日 晴

 六時より起きて、太刀ふり、槍遣うこと例にかわらず。


弘化三年十月十八日 風雨

 五日の雪、京地は三寸ばかり積もり、雪中によほどの雷にて、しばしば地震せしという。


弘化三年十月二二日 くもり

 庭の内より、裏、布目にて表にさざなみ型ある瓦の●たる多く出る。御役所に昔より参る惣吉という大工に尋ねみしに御役所は巳前、寺にて其の頃の瓦也。今も太鼓の間という所はみな此瓦也。三百年餘のもの也という也。
 御役所の元来、寺なりということ不分明。案ずるに、此御役所は元来大和大納言秀長の住居を移し、今以、玄関は桧皮ぶきなれば、其の時の瓦なるべし。
 寺というは、御役所にある石に蓮華梵字等の類、至って多く、踏み段、井戸の邊などにも見ゆ。これは松永が多門山の城築きし時、市中の石塔をこぼちて作りたり。其の石垣取り崩しに成りしの捨てありしを、所々掘りなどに用いしという也。
 夫と中坊は必ず、興福寺の衆徒、筒井七流などの類なるべし。古文書に中坊法眼などいうをみて思う也。右の二ツをも混せしなるべし。


弘化三年十一月二日 しぐれ

 直たね、脇差しをみする。貞宗などより良きか。今年けしからぬ上達なり。同人正宗同位に老年迄には上達するといいしが、果たして良く出来うらやまし。直たね宗保、いずれも二百年来壱人也。








  凡 例

一 本書は、日本史籍協会叢書「川路聖謨文書(寧府紀事)」を原本とし、武道・ 修行・思想に関する部分のみを抜粋・転記した。

二 原本は、宮内庁書陵部架蔵の川路三左衛門聖謨自筆原本「寧府紀事」を底本と している。

三 原本は、読解の便を考慮し、底本を若干変更してあり、本書もそれにほぼ準じ た。其の主要な点は次の通りである。

 イ 底本の割り注部分は、(  )とした。

 ロ 底本の頭書は、<  >とした。

 ハ 古体・変体・略体のかな・合字等は、現行の字体に改め、また、特例を除い  て、カタカナはひらがなに統一した。

 ニ かな遣いは、現代かな遣いに改めた。

 ホ 送りがなは原則として底本のままとしたが、そのために難読・誤読のおそれ  がある場合はこれを補った。

 ヘ 全文に濁点・半濁点を施した。

 ト 漢字は新漢字を用いた。

 チ 読みにくい・読み誤りやすい語句にはふりがなを付けた。ただし、底本のふ  りがなにはカタカナを用いて区別した。

 リ 必要に応じてその補正・説明を[  ]内に明示した。

  ヌ ・・・は、中略・後略したことを示す。



   
2003/02/15