ねいふきじ
川路聖謨
川路聖謨年譜 寧府紀事 島根のすさみ 寧樂百首 植櫻楓之碑
武道関係抜粋集 奈良奉行在勤日記 川 路 聖 謨 編集 一箭順三 |
六半時南都に発足いたす。天気ことによろし。茶紵の袴御紋附の羽織著着用いたし、虎の御門通うりを参る。品川釜やにて小給いたし、七半時前神奈川宿に参着。・・・ |
暁八時過に出て拂暁に京都の用達若狭屋八兵衛方にいたる夫より京都奉行月番伊奈遠江守御役宅に参る同人方にて朝飯菓子等出る。同人同道にて二條の所司代若狭守殿の御役宅に参る。在京の面々は、所司代はじめ、御用にて参り被居候高家より二條御門番迄不残罷出所司代平伏にて関東の御機嫌伺有之。いかにもいかにもきらびやか成事也。所謂、戯場の上使之義に付上座は御免と申候體故例の麁末(そまつ)流よほどのりきみ也。事畢て御所司代之御談等有之、けしからずひまとれ候か九時過に八兵衛方に罷帰候處都筑金三郎其外彫工一乗迄追々に入来にて中々晝飯も被給不申候間はなしながらに飯給候て出立被参人々居のこり候て見送也。夫より伏見に参る。伏見奉行不快に付、御機嫌伺なし。七半時旅宿に到著。 |
弘化三年三月十九日 きょうは南都に着くと申に、雨は止たれとも今にも降りなむ雲のたたすまいにてうくおもいながら行うちに、南都に四里はかり手前なる玉水というところにて、晝食せし頃より空少しくよろしくなり、これならばふりもすましとおもい行うちに、段々とはれ木津川の船わたしにかかりける頃は、四方の山々はれ、日かけほのみえて、はなくもりてふ天氣に付、こころいさみて木津川の土手の上より川の向うをみるに、人蟻のごとくに集りたり。ちかくなりてみるに、鑓立てたるもあり、みなみな麻上下着せしもの共也。 |
・・・それより三條通いうまちにかかり帰るに宗近が子孫の家ありて今も鍛冶屋也。きつねの手傳たらは格別、脇差もうてぬ體也。文殊重國の子孫の家にて一文殊重國という札出しあるはいかにぞや。或は、ここの堂に古きまるたの弓ありというもおかし。こはいにしえの丸太弓の古く納たるなるべし。 |
きょう九時[十一時五十分]前後、少しく雲ありて、いささかよしのかみを引わたしたるがごときに、日に暈(かさ)ありていろ虹のごとく。みな珍しがりてみたりし也。江戸にてはいかがありし、のちの便にきかせ候えかし。 |
弘化三年四月五日 晴 わが江戸にて遣いし素こき柄は、一貫五百目[五.六s]ありし。久しくやすみて、きのう槍の素こき柄来たりたり。八百目[三s]餘也。けさより遣いはじめみるに江戸にては、彌吉の兼て被見候通一度に千三百本宛毎朝こきたりしが、けさ漸半(ようやく)の目方の柄にて六十本こきたれば、腕折るるごとく成たり。 |
民蔵其外の妻共初て春日其外に参詣いたす。若草山に登るをみるとて、みなみな望遠鏡をもてみるといえども遠ければ人かたわかるのみにて其餘はしれず、そめが話に聞に、所々にて江戸の女をみるとて、大勢附そい歩行、町送にすること全江戸にて生醉、あるいは引廻をみるがごとし。茶店へ休めば其茶店に参り、着物等をみる。一度にてこりごりせしと云。きょうはところのものも出て、わか草山の辺にぎやか也。髪差等眞の鼈甲さしたるは更に一人もなし。衣類は緋の板しめ等着するなれ共、かんさしはみなしんちゅう等にて凡壹本二百文に過しはなし。され共、前に弐本、後ろへ弐本さすは老女といえ共、みなしかりまして、わかきにはあみだのごこうの如きかあり。しかしながら、くしより根とめのかんさしに至るまで、みなのこさず集るとも、百疋のものはあらじといいき。銀のかんさしさすものにてもなければ也。江戸の軽きものにも、笄(こうがい)[かんざし]壹本に七八両宛のを用ゆるはいかなることにや。武士の妻の頭の飾八十両もありて、夫の刀は三両にもいたらぬ用たたぬを帯するもある。かなり嘆息のこと也。奈良を笑うべきことにはあらぬ也。 |
内藤鍔(るび)のはなし井上にすすめしも尤也。両三日巳前前山吉兵衛が鍔銕色はよからねと、すがた并(ならびに)耳とも至てよきを買いたり。翌日、日なたへ出してみるに、下さいあかし少々頭を掻きたり<價百疋>。笹蟹の至て古き金色繪のめぬきをも買たり。<弐朱>。然るにさくらいのさとの豪商がうりもの也とて、三尺計なる備前一文字の太刀<至て古き坪かさの最上なるに、きりと菊の紋ちらしたる目ぬきふち頭さやかな物、みなよき時代のきくの模様さやへ銀にて菊をちらしたり。>一目にて楠家の重寶とみゆるに、虎と熊の尻さや添たり。是も又古色あり。これは群山の道具屋がわが鑒定(かんてい)をきき、および與力を以鑒定をこい、若哉望みならばうりもしつべしとの事也。鍔に金家風のもようある故に、眉毛をよくつばにてしめしみしに、継忠にやいかにも疑敷ものにて<七分三分と申もの也>。さて、其道具屋が持来りしに至て古きものはみないろゑの剥しをあとにてさしたるもの也。・・・ |
弘化三年五月二日 晴 |
弘化三年五月十四日 快晴 ・・・石切たむけより春日山の奥なる御林に行<三十七萬坪あると云>。杉松のよき御林なり。ここの鴬の瀧というあたりの木を千両ほど東本願寺に御拂になりて、、此節伐木のさかり也ければ彼宗旨のこと故、僧俗加りて材木を引出也。 |
・・・寺院の巡見果て芝辻町にある小屋下圏(おり)見置として参る。けしからず立派なる事也。會所というは、四疊の玄関附吟味所とて長吏共が吟味所もあり。其外奉行所より預け之もの入置候場所三ヶ所、長吏が方之圏(おり)四ヶ所ありき。捕りものの稽古にてもする歟(か)、直心流か今の一刀流などにて遣うしない一本ありき。奉行の来るまちて、所々香をたきて臭氣を去りたるとみえ、沈のかおりなどさても行届たる事共也。穢多の類に権のあること関東に聞かねども、上方はいづ方にても如斯事と聞こゆる也。 |
・・・夫より二十町ばかりにて、竹林寺に行。行基菩薩の開基にて、本堂の下は行基菩薩の廟所なり。例の軍法力等のよき木仏其外仏舎利、中将ひめの法華経等、奈良御定りの什物也。ここの田にて頻(しきりに)に蟋●(しゅしつ)の鳴也。秋のくれのごとし、いかにというにこうろぎに相違なしという。 うき旅にあきしとはすはきりきりす いかに五月のけふになくへき |
この頃、しない竹の折たれど、奈良中に竹刀なし。郡山迄行という位のこと也。勿論からかさやにても、しない竹には切ておかすという也。 |
弘化三年閏五月九日 晴 穢多共が牛を密に殺したるものあり。関東には十五年吟味物取扱たれども一度もなし。例をみるに、奈良には昔より多し。軽き盗いたしたる程の刑に成る也。めずらしきことにおもいければ、段々と審に聞うちに、其のきもはいかにせし、牛胆というて薬に成るかいかにといいしに、夫はたきて食いたりという。再びもみたひも押て訊問せしに、おなじことはけしからず胆は味はいと苦からむによく食いしといいしに、いやイイーに候哉イイーに候得は、干て猪胆にして売りしという。牛の猪胆とは猫か馬糞したり、打殺して熊胆とらむといかりしに、そは猿の間違なるべしとて、かたへなる人がとどめしと云、幼物語に似たりとていたく笑いければ、與力共も絶倒もすべきを、白洲のこと故、せき拂に紛し居たり。尚、追々と聞くうちに角はいかがせし、爪はいかがせしと問しに、みな髪さしの料にとて大坂の商人に賣りたりという。そは鼈甲或は今いう馬爪というものにして賣りたらむなといいしに、はいはいといいてよくわかりたり。しかし尚おもうに牛の猪胆を笑う奉行が牛の馬爪鼈甲といいしはいとおかしきことなれば、おもわずこはいかに牛の猪胆を笑いし奉行が、すももの梅干ににたることいいしはいかにとて失笑せしかは、又與力共、あたへを向きたり。 |
佐久間修理より越せし遠西砲術略叙一覧文書のことはしらず。一體の意いかがあるべき。先ツ近年有聞西洋火術之略而自私其説不軽以語人者余竊咲之という書出し故に、大に世の人にもあたり、又こころざしのところもよからぬ様也。内意はかくのごとくなりとも、西洋火術の書、よに多くあり日本にて火術も多くあれ共もとより西洋より来りたるものなれば、西洋の詳なるほどのことはいかがあるべきや。然るにこの人かかるものをあらわせしは、もと國家に益あらむ忠告のこころふかきによるものなるべし。世をすくうこころの深きは、仁の一端ともいうべし。かかる深切なるべし。よって望乞にまかせて叙するとありたらば、却(かえって)てよからんに拙(つたな)くこころせわきものを相手にとって夫を筆のとり所之はじめにいい出せし故に、わるくすると此叙文によって砲術家などの内にて彼是いうものもあるべしと懸念する也。文章は大切のものなり。容易なることは書れぬことなるべし。 |
中間、草を取とて、まむしにさされて大になやみたり。村人によく療するものありて、頼しに、布へ何か包みたるにて撫たるに、いたみ去りて快よし。草の葉をつつみて夫にて撫れば、肉の内にのこりたるまむしの歯ぬけるよし也。此度二本抜しと也。その草を教えず。段々と内々聞みるに八幡草というもの也と也。その草ひるがおとも夕かおともいう純白又は小しく赤色を含たるもある朝顔の花に似たる蔓草あり。其草に凡(およそ)のすがたは似たり。茎はまづまづたでに似て、高さ壱尺ばかり成草にてにて、葉に八の字うらおもてに陰然とみゆる也。因て、八幡草の名ある也。その草をとりもみ、灰汁につけたるにて、布につつみ、いたみ所を撫れば夫に歯のつきて抜け、いたみ去るよし也。其草を尋ねしに、垣根にも、庭にも多あり。おもわぬところに薬のあるもの也。定て関東にも多ある草にて、韓名もあるべし。人の為に成こと也。よって記す。 |
けさ居間に鼠居たり。兼て聞きしことありける故に、試に小侍をして、つまりつまりは出られぬ様にして、かれが隠ることのならぬ様に陰蔽(いんへい)の所なからしめ置、扨(さて)侍にはたきの柔成かしらにかたにて鼠のかくれ居るを撫でさするに、彼驚てはしる也。され共かれ隠るるところなければ、右に行き、左に行て、くぐり出る穴をもとむるに孔なし。よってかけ廻りて獨りつかれて、いささかの陰に行て、息をつかんとする故に、またかのはたきのかしらもて、往てなつれば走る也。かくすることしばしばなれば、少しくひまはいれと、終に鼠の息きれ、あしなえて、少も走ることなりがたく、果てはいか様ともなる也。その時に小侍が自由に殺す也。かくする時は、手間はとるれども、あやまちなし。棒を以、追い廻りなどすれば、障子の桟などを打折、机の上のものをそこないて、さわぎ又夥しく、或は、坐敷などを血だらけにする也。今一段氣を短くすると、手つかみなどにして大成ことを引出し、醫師を招くにいたる也。 |
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母上様御日記之内太郎のちゑのちゑ敷く相成候と之義、御認被遊候茂兵衛よりも骨ふとに丈高く可相成哉。けしからず成長との事申参候。林述斎大学の頭が朝鮮人に被申候通當時の武士と申すものは、学問其外の文事は悉武を講ずる閑暇の心懸にて武事は本職業故健にてさえあれば、先武士の一事はあると申候ものに付、一際目出度事に御座候、只々貞實に若夫婦心を用養い立可申候。 |
来月4日に鹿の角切あり。よつて所々より鹿駆集るところ、一疋の大鹿ありて、手にあまりたり。よつて町人之若もの共、打より取押たるところ過にて殺したり。よつて一乗院宮并興福寺大衆共より吟味願申立る。其勢梁恵王に不減。われいう、中秋にいたれば鹿の人を傷う故に、奉行所聞済にて差押て角をきる也。 |
政常鑓二十五匁[九十四c]とのよし。よくば買物也。あまり大身ならぬ鑓三十匁[百十三c]前後にて上作ならば買置べき事也。 |
試に、算木を投て乾の出しより、陰陽陰陽とくみ行ば、火にはじまりしは水に終わる也。坤の出しは、水にはじまりて火に終わる也。其うらをみれば、申迄もなく表水火なれば、うら火水と成居也。春夏秋冬の移行日に朝夕ある月に盈虚(えいきょ)[満ち欠け]ある人の三時はねぶらねばならぬなど、みな天地人一體のことなるべし。されば、天にまかせて何成をかわせむ。天にまかせて消息は常也とて捨たらむには必、悪に流るるなるべし。聖人消息盈虚(えいきょ)のことを易に説ながら、陽を助けて陰を抑給うは、必いわれあることなるべし。夜の五十刻は日の五十刻より短く、六時起て六時寝ては、ね過る。其外一人生れて一人死するよりも人別のます體など、必よく明らかにおし究たらば、陽のかたかち居るなるべし。聖人、陰陽消長をときつくしながら、陽を助け給う意を以、天意とみて天にまかせてする上は、日々のことおもい附しこそ天意なるべけれ。よきことを助けて、悪きことを抑て、日に善に進まんに、陰に終に抑とどめらるるあらさらめされ共、元来元気より陰陽にわかれ、其陰陽によりて天地間のこと行われ居るは、陰のなきということは決してならぬ也。 |
江戸の例にならい 行道院様の御正忌日故牡丹餅を造る。ひる打ちより給申候われけさ未明より起、鑓のすごき及び刃びきをふること凡四千五百餘。朝は例之通り通監(つがん)[司馬光撰、資治(しじ)通鑑]たち故、腹殊にへりたり。もち七ツ食いたり。殊の外出来たりとおもいしに、父上は八ツ被召上たり。・・・ |
今日は立田最寄に巡見として参る。法隆寺はとても四五日もかからずしては可也にもみること不能、よって巡見の昼休半日にては早く参るかた可然と與力等が申によって十三日の月西山にまだ高くみゆるころより起て朝かれい給。●に足もとみゆるばかりのころより奈良を出たり。法隆寺には・・・ ・・・峰の薬師に参る。ここの堂は一面二間餘づつもあるべし八角の大堂也。全御成小路の武器賣る肆のごとく、且小間物やにも似たり。くし笄(こうがい)[かんざし]の類、かがみの類、●刀剣類甲●鑓矢之根數ふるにいとまあらず、短刀の類、屋根のうらよりして少しのすき間なくかけあり。千を以數うべし。又山の如くつみたる内に古きつか前與四郎鍔或はよきさひの中心などみゆる也。古き相州住行光という箱ありければ、この刀をみたしといいしに、これは寶藏にありてここにあらずという。可疑事也。 |
霜なし。少しく暖也。けさ馬に乗、仕舞又日記再讀する也。・・・ |
けふは同心共の●砲見分也。三十人居立一玉ツツ。星皆中は百疋、只の皆中は弐朱宛被下事也。星の者弐人、皆中ばかりは五人あり。 |
此ほと少々宛の風邪あり。さすがの御両所様もくさめなどなさる。され共、葛根湯にも不及、御酒にて相済。おさとけろけろにならず、葛根湯三ふくにて相済。市三郎食物は常よりよく、折々起出元気ながら六日ばかりねる。左衛門尉、あさの飛びはねなく、其餘は常之通。以上不時候之定例、おさとのけろけろよほどよく直りたり。 |
・・・六時[午前六時]より例の飛びはね也。鑓の手いろいろにして三千百五十本、是は江戸の鑓より目かた軽く、七百三十目[二.七s]、且歩行こと少なければ數をませし也。居合切返し等三尺弐寸の刀目かた六百八十〆[二.五s]にて九百弐拾五本也。弐尺六寸の刀目かた四百十〆にて居合切返し、曲尺を踏共一千五十本也。 |
・・・彌吉彰常は、わが二十五歳の時、とんとん橋にて生まれて、ことし二十二歳なれども、われとはかわり直にして温なる人故、人々おもい附、われと書物の上にて古人を評し、或いは経義の論●にあらそうことはありけれ共、其餘人と物争することなく、十壱歳の時四書五経の素讀の御吟味に出て反物三反給り、十三歳の時より佐藤捨藏が塾に行き書をよみて、あさあさ隣なる増山河内守が家来のもとへ行き、種田流の鑓を遣い覚え、二十歳の時は免許に成る。馬は細川越中守家来がもと、あるいは諏訪部へ日々行きてことに好みたり。弓はつとめて射し、こともあれと好めるにはあらず。文章は書しが、詩は不好し也。剣術、居合、弓は若年寄の御一覧に出て御好になりし也。 ・・・われにまさりて謹厳なる質にて鑓とり、太刀振て一陣にすすむことは、予かれに減すべしとはおもわねども、二陣に進み芝居ふみこたえて節を全することは、かれに及ぶべからず。 |
きょう、大西寺より古銭の押しかた来たる。これは天平神護元年、称徳天皇造立つ遊ばせし伽藍西塔土中南より出しは、金銭にて開基勝寶とあり。北より出しは、銅銭にて萬年通寶というは、至ってめつらしきものにて、友野先生より押しかた御好みに付き取り寄せし也。 |
きょうも六時に起きる。昨日の通り、六千ほど太刀等を遣いたり。五時までかかる。 |
きょうも太刀ふり、鑓遣うことれいの如し。 |
六時より起きて、太刀ふり、槍遣うこと例にかわらず。 |
五日の雪、京地は三寸ばかり積もり、雪中によほどの雷にて、しばしば地震せしという。 |
庭の内より、裏、布目にて表にさざなみ型ある瓦の●たる多く出る。御役所に昔より参る惣吉という大工に尋ねみしに御役所は巳前、寺にて其の頃の瓦也。今も太鼓の間という所はみな此瓦也。三百年餘のもの也という也。 |
直たね、脇差しをみする。貞宗などより良きか。今年けしからぬ上達なり。同人正宗同位に老年迄には上達するといいしが、果たして良く出来うらやまし。直たね宗保、いずれも二百年来壱人也。 |
一 本書は、日本史籍協会叢書「川路聖謨文書(寧府紀事)」を原本とし、武道・ 修行・思想に関する部分のみを抜粋・転記した。 二 原本は、宮内庁書陵部架蔵の川路三左衛門聖謨自筆原本「寧府紀事」を底本と している。 三 原本は、読解の便を考慮し、底本を若干変更してあり、本書もそれにほぼ準じ た。其の主要な点は次の通りである。 イ 底本の割り注部分は、( )とした。 ロ 底本の頭書は、< >とした。 ハ 古体・変体・略体のかな・合字等は、現行の字体に改め、また、特例を除い て、カタカナはひらがなに統一した。 ニ かな遣いは、現代かな遣いに改めた。 ホ 送りがなは原則として底本のままとしたが、そのために難読・誤読のおそれ がある場合はこれを補った。 ヘ 全文に濁点・半濁点を施した。 ト 漢字は新漢字を用いた。 チ 読みにくい・読み誤りやすい語句にはふりがなを付けた。ただし、底本のふ りがなにはカタカナを用いて区別した。 リ 必要に応じてその補正・説明を[ ]内に明示した。 ヌ ・・・は、中略・後略したことを示す。 |