年譜
かわじ としあきら

  

川路聖謨
川路聖謨年譜 寧府紀事 島根のすさみ 寧樂百首 植櫻楓之碑

                    

  西暦

  年号

年齢

                      川 路 聖 謨 年 譜

              事    項

1781

天明 元

五月二九日、五世胤憲、将軍家治に槍術上覧

1787

   七

 

 

五月二二日、江戸の飢民蜂起、また相模、山城、大和、摂津、播磨、安芸、肥     後でも飢民蜂起。
七月、幕府文学・軍学・天文学・武芸の師名・流名・年齢・居所を記して差し出すことを命じる。

1789

寛政 元

 

 

八月六日、胤憲、奈良奉行三浦伊勢守に、役所内にて槍術上覧

1792

   

 

 

胤憲、奈良奉行柴田日向守に、役所内にて槍術上覧

1793

   

 

 

七月、松平定信老中退任

1801

享和 元

 1   

四月二五日、豊後日田の代官所構内に父・内藤吉兵衛歳由(日田代官属吏)・母(高橋小太夫の女(安永9〜1780))の長男として生まれる。幼名弥吉。

 

1805

文化 二

 

 

十一月十八日、胤憲、将軍家斉に槍術上覧

1807

    

 

 

二月、西蝦夷地を幕府直轄とし、松前藩を陸奥梁川に移す。

1809

     

 

両親に連れられて江戸へ移住。下谷に落ち着く。父・吉兵衛は幕府徒士組に用いられる。

 

1810

     

 10

弟松吉(後の信濃守井上清直)誕生

 

1811

     

 11

 

奈良奉行鈴木相模守、宝蔵院にて槍術御覧

1812

     九

12

 四月、小普請組・川路三佐衛門の養子となる。友野霞舟の門下へ。

 

1813

   

13

 元服。萬福(かずとみ)・聖謨と改名。小普請組に入る。

 

1815

十二

15

 

「蘭学事始」(杉田玄白)

1817

    十四

17

幕府勘定所の筆算吟味(吏員登用試験)に合格

 

1818

文政 元

18

 三月、支配勘定出役となる。評定所書物方出役兼任を命ぜらる。

八月、大久保加賀守老中就任

1821

     四

21

 六月、支配勘定並びに評定所留役助を命ぜらる。

十二月、東西蝦夷地を松前藩に返還

1822

     五

22

弟松吉持組与力井上新右衛門の養子となる。
実父内藤吉兵衛病死。三男重吉内藤家を継ぐ。

 

1823

     六

23

 一月十九日、評定所留役(御目見以上)を命ぜらる。

 七月、シーボルト長崎出島に着任。

1824

     七

24

 二月二一日、寺社奉行吟味物調役当分助 小石川舟河橋畔に居住
十月、同役を免ぜられ、勘定留役に戻る。
江州井伊掃部頭と松平伯 守の間に領地境界紛争発生。
十二月、この件の領地視察の出張命令を受ける。

 

1825

     八

25

 一月、中山道で京都経由、現地へ行き、係争地検分に当たる。
七月、伊勢路へ出、東海道経由で江戸に八月十六日着。

 

1827

     十

27

 七月、再度、寺社奉行吟味物調役当分助拝命。
十二月十六日、寺社奉行吟味物調役拝命。(僧道者淫祠を厳制)

 

1828

    十一

28

 

シーボルト事件

1830

天保 元

30

 

フランス七月革命

1831

     

31

 九月、勘定組頭格に昇任(抜擢)

1833

     四

33

公事訴訟取扱につき賞詞を受ける。
藤田東湖初めて川路宅を訪問。

天保の大飢饉始まる。

1834

     五

34

 

水野越前守忠邦老中就任。

1835

     六

35

 八月、但馬出石藩仙石家に内紛発生、本件予審を担当し解決。二万八千石を没収。
十一月、勘定吟味役に昇進。

 

1837

     八

37

 

二月、大塩平八郎の乱
三月、老中首座・大久保加賀守病死。
水野越前守忠邦老中首座就任。
六月、モリソン号撃退事件。

1838

     九

38

春、四番目の妻として大越氏の佐登子(高子)と結婚
江戸城西丸再築御用掛に
四月二二日、建築用材物色のため、木曽山へ出張
七月十一日、江戸帰着。
十二月十八日、将軍家慶賜賞

三月十日、江戸城西丸焼失
三月、長崎奉行より、異国船渡来の情報
佐渡島に一揆勃発

1839

     十

39

 三月、江戸城西丸落成。
八月、横井小楠、川路を訪問。

三月、辰ノ口評定所にて佐渡島一揆を審理
五月、蛮社の獄。

1840

    十一

40

 六月 八日、佐渡奉行に任ぜらる。
七月十一日、任地へ向け出立。
七月二四日、任地・佐渡相川町へ着。

 

1841

    十二

41

 五月八日、任期を終え、江戸へ出立。 
五月二六日、江戸着、飯田町桧木坂家住。
六月一三日、小普請奉行に登用される。
十二月一六日、従五位下に叙し、左衛門尉に任ぜらる。

一月三〇日、将軍家斉病死。家慶継承。
五月一五日、天保改革始まる。
七月四日、旗本の文武を奨励する。
十二月一四日、幕府問屋仲間を禁じる。

1842

    十三

42

霊屋、御濱御殿修繕の監
十二月、幕府より時服三着賜る。

七月、「異国船打払い令」廃止。

1842

    十四

43

十月、普請奉行に任ぜらる。

九月十四日、江戸・大坂十里四方の上知令公布
閏九月七日、撤回。
閏九月十三日、水野越前守忠邦老中首座罷免十二月、英国軍艦宮古八重山諸島近海に現る

1844

弘化 元

44

 

三月、フランス船、琉球来航通商を要求。
五月十日、江戸城本丸炎上。
六月二一日、水野越前守忠邦、老中首座に帰り咲く。
六月二五日、幕府部屋住みの者に武芸を奨励九月十一日、オランダ使節長崎へ、開国勧告

1845

     二

45

 

二月二二日、水野忠邦老中首座、再び罷免。
五月、安部伊勢守正弘老中首座就任。七月八日、海防掛組織される。
九月一三日、水野蟄居・急度慎を命ぜらる。

1846

弘化 三

46

  一月十一日、奈良奉行に任ぜらる。
三月  四日、任地へ向かう。 養父母、妻子(次男・市三郎)同道  三月十九日、奈良着。
九月二五日、長男・彰常(弥吉)病死の報を十月三日に受く。

米海軍提督ビッドル、浦賀に来航。
八月、孝明天皇より幕府に、海防を厳にすべしとの勅命下る。

   

1847

     四

47

  二月  二日、宝蔵院に旧記を借覧す。

 

1848

嘉永 元

48

  一月二四日、次男市三郎、宝蔵院へ弟子入り。
 三月十二日、吉野視察の旅に出る。
 三月十六日、帰着。
 五月 二日、剣槍稽古に出精するよう激励の詩を与える。
五月十一日、市三郎の白足袋での稽古行きに叱責。十一月 四日、胤懐面会に来たり、伝書の執筆を依頼す。
年末、貧民救済の施設を発案、基金百両を寄付。

フランス二月革命。

1849

     二

49

四月 四日、市三郎が稽古で先生と組打ちしたるを聞き、怒る。
五月十五日、胤懐訪ね来たり、槍について歓談す。
十月二一日、市三郎の他流試合に臨むにあたり、心構えを教える。
十月二二日、宝蔵院の稽古場で演武を参観。

 

1850

     三

50

 三月、「植桜楓碑」建立。

 

1851

51

五月、御用召。
六月十日、奈良出発。
六月二二日、江戸着。
六月二四日、大坂町奉行拝命。
十月二日、江戸発。
十月十八日、大坂東町奉行所着。

二月十六日、水野忠邦病死(六八歳)

1852

   五

 

52

 八月、転勤命令下る。
九月十日、江戸帰着、公事方勘定奉行拝命。
九月二十日、海防掛に任命される。

 

1853

     六

53

六月十八日、近国海岸見分の役を命ぜらる。
九月二二日、近海沿岸視察の旅にでる。
   二九日、江戸帰着。
十月三十日、対ロシア全権大使として長崎出張を命ぜらる。
         同時に勘定奉行勝手掛拝命。
十二月八日、長崎着。
十二月十四日、筒井政憲らとロシア使節プチャーチンとの交渉開始。

六月三日、ペリー艦隊浦賀に来航。  九日、幕府、浦賀奉行に命じペリーよりアメリカ国書を受領させる。
  二二日、将軍家慶死去、家定継承。
七月三日、徳川斉昭、海防参与就任。〃一八日、ロシア艦隊、長崎に来航。

1854

安政 元

54

 一月四日、ロシアとの覚え書きまとめる。
一月十八日、プチャーチン離日、長崎発。
二月二二日、江戸帰着。
四月、下田一帯取り締まり申しつけらる。
七月、軍備改正掛となる。
十月十七日、対露交渉のため下田行きを命ぜらる。

一月十六日、ペリー神奈川沖来航。
二月十日、横浜にてペリーとの交渉始まる。
三月、ペリーと日米神奈川条約(日米和親条約)締結。
五月一八日、樺太駐屯のロシア兵退去。
七月、日の丸制定。
八月二三日、幕府イギリスとの和親条約調印
九月二日、幕府オランダに下田・箱館の入港を許可する。
 〃二十日、プチャーチン来航、下田入港。
十一月四日、安政の大地震
十二月二一日、下田で日露和親条約。国境は
択捉島と得撫島の間、樺太は両国雑居地

1855

     二

55

一月三日、下田より帰着。
二月二四日、再度下田でプチャーチンと交渉。
五月、築造委員の一員であった下田砲台完成。
六月五日、蕃所翻訳用掛に任ぜらる(蕃書調所)。
八月九日、焼失した禁裏造営掛に任ぜられる。
八月十七日、関東川筋定掛、諸国川普請取締、倹約筋取扱いを命ぜらる。
九月、 禁裏造営監督のため京都へ。
十一月、江戸帰着、同月、貨幣改鋳を申しつけらる。

二月五日、幕府、講武所を設けようとし、総裁・頭取を任命。
三月二二日、プチャーチン離日。
十月二日、大地震で藤田東湖地震で圧死。
 〃九日、堀田備中守老中首座就任。
 二四日、長崎に海軍伝習所発足。

1856

     三

56

 

 

十月十七日、外国貿易取調掛を命ぜらる。
十二月十六日、久能山東照宮震災修復の労を賞せらる。

二月一五日、幕府倹約令を発布。
三月一二日、幕府駒場に洋式調練を行う。
三月二五日、幕府初めて講武所を設け、旗本御家人に武技を習わせる。
七月三日、アメリカ総領事ハリス着任。
八月五日、駐日総領事ハリス、下田に領事館

1857

     四

57

 

四月十一日、幕府講武所内に軍艦教授所を設置。
五月二六日、幕府ハリスと下田協約に調印。
六月十七日、老中安部正弘病死。
八月四日、プチャーチン長崎に再来。
九月七日、長崎奉行プチャーチンと追加条約
に調印。
十月二一日、将軍ハリスを引見。

1858

     五

58

一月八日、堀田備中守に随伴上京。
  二五日、京都着。
  四月、帰府。
五月六日、西丸留守居役を命ぜらる。

二月九日、堀田正睦参内し、日米通商条約の勅許を請求。
二十日、朝廷正睦に条約調印の不可を司令。
四月二一日、幕府正睦に帰府を命ず。
四月二三日、井伊直弼大老に就任。
五月一八日、幕府砲術修業を奨励す。
六月十九日、ハリスと日米通商条約調印。
 〃二五日、将軍世子家茂(慶福)と決定。
七月四日、将軍家定病死。
七月八日、幕府外国奉行を設置する。
九月、安政の大獄始まる。

1859

     

59

八月二七日、御役御免隠居差控を申しつけらる。
十二月二九日、表六番町に転居。 

十月二七日、吉田松陰死罪。

1860

万延 元

60

三月三日、敬斎と名乗る。

三月三日、井伊大老殺さる。桜田門外の変。
八月一五日、徳川斉昭(水戸)死す。

1862

文久 二

62

 

一月一五日、坂下門外の変。
二月十一日、和宮降嫁。
八月二一日、生麦事件。

1863

     三

63

 五月、外国奉行並びに御勘定奉行拝命。
九月、職を辞す。

六月三日、江戸大火、江戸城西丸類焼。
七月二日、薩英戦争。
八月、八月十八日の政変。

1864

元治 元

64

 

七月十九日、禁門の変(蛤御門の変)。
八月五日、四国連合艦隊の下関砲撃。
 〃十三日、第一回長州征伐。

1865

慶応 元

65

 

十月一日、家茂朝廷に辞表を呈出し条約勅許を要請。
十月五日、朝廷条約調印に勅許。

1866

     二

66

 二月十二日、中風発作、半身不随。

十月、寛堂留学。

六月七日、第二回長州征伐。
七月二十日、将軍家茂病死。
十一月十九日、幕府講武所を陸軍所と改称。
十二月五日、将軍慶喜就任。

1867

     三

67

十二月二五日、弟井上清直病死。

十月十四日、慶喜大政奉還を請う、翌日朝廷これを許可。

1868

明治 元

68

三月十五日、割腹ののち、ピストルにより自殺。

  十八日、七軒町大正寺に埋葬される。

一月三日、鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)。
三月十四日、五箇条の誓文
三月二八日、神仏混合を禁じる。
四月十一、江戸城開城。
七月十七日、江戸を東京と改称。
九月八日、明治と改元。
九月二二日、東北戦争終了(会津戦争)。

1869

     二

 

五月十八日、函館戦争平定。



   
2003/02/15