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天保十一年七月十一日 天保十一年六月八日佐渡奉行の命被(かぶ)り、七月十一日被国へまかるとて、板橋(いたばし)の駅まで送別として参りつどいしはらから・友どちに、酒給うべさせなどして、袂(たもと)を分かちける。・・・ 天保十一年七月十六日 晴 旅宿狭くして武芸はならねど、経書(けいしょ)[四書五経、大学・中庸・論語・孟子、易経・詩経・書経・春秋・礼記]または通鑑(つがん)[司馬光撰、資治(しじ)通鑑]を読み、あるいは佐渡風土のこと記せし巻など取出して、日長くおもいしこともなし。 天保十一年七月十七日 晴 ・・・我思うに壱人の人を遣うにも、こころやすく動くこと難し。然るに此数ヵ村数百人の民、定めて数日こころを労し、力をつくせしことなるべしとおもえば、公のおおん恵み、いとかしこし。されど、夫(それ)は夫丈(それだけ)の身分ともなりたれば也。然れども、身分而(のみ)巳数百人の労苦をほしいままに受けながら、民の心をしらず、民を恵むにこころを用いざらんには、この民の辛苦、終にはわが身より子孫迄をもくるしむる種となりて、父祖の陰徳も、これがために消滅すべし。恐るべきことならずや。 天保十一年七月二十四日 快晴 ・・・相川という所は、赤泊より五十町一里、七里にして、後(うしろ)ロは山、前は大海也。人別一万余という。道狭くして、家づくりみ苦し。相川の入口に、惣門ありて、門番所あり。其内、町也。町の中より、至てけわしき坂登り候得ば、かなりの橋所々に懸り、惣構(そうがまえ)の内に地役人(じやくにん)住居也。奉行屋敷は、別段惣門あり。其惣門の内迄、鑓にて乗輿也。当番奉行の住居は、交替以前明置き、八右衛門[鳥居八右衛門正房]は非番の住居に移り居ぬ。八右衛門が玄関の前、三尺計手前より下乗いたし、八右衛門次の間迄出迎いたす。居間へ参り面 、到着の義申述る。即ち退散の積りなりしが、八右衛門が三年来ここに居て労し候而巳ならず、少しく中風の症も出、且十一日頃より中暑にて打臥す。きょうは某が着のうれしさに、押て髪結い月代(さかやき)そりたりとてよろこびながら、余程のはれ、面部・手等にみえ、さぞや心細からめとおもいしに、覚えず先立ちしは涙也けり。・・・ 天保十一年七月二十七日 晴 きょう夕方、乗馬いたす。馬場へ、馬のこと引き受ける家来先立ち、刀持其外近習のもの召連れ参る。其がもとの身分をおもえば、恐入りたる事也。 天保十一年八月二日 晴れ候て、東南風強し。 乗馬いたす。例の通り也。だく(B足(かけあし))に成りてのれずと申せしに、厩中間(うまちゅうげん)の、全く馬場長からぬ故也、と申しぬ。如才(じゅさい)なき奴也。長短に拘らず、いつも野足なるべし。佐州にて乗馬のこと、三年計りこれ無し。鳥居の馬は、山みちに迷いし時、管仲が遣いしと承るほどの馬也。佐州の馬は至て小さくして殊に意地わるし。よって地役人等、馬のことは曾てしらずと。されば、拙技(せつぎ)の仕合(しあわせ)なるべし。絶倒也。馬場は、四十間に少々たらず候。 天保十一年八月三日 晴、風強し 向陣屋の内、自分入用にて少々つくろい候て、今日より剣術を遣い申し候。鉄蔵[川路家の使用人]・粂蔵相類し候。剣術、かなりの切紙(きりがみ)[初歩の許可書]位也。順之助は一刀流也。かなりの年の稽古みゆ。嘉十郎は免許の由。中絶故、粂蔵などと五分位也。され共、気分高き故、皆々取廻され候。 天保十一年八月四日 晴、風 宅の書状も、日記に候わば、一覧いたし度く候。心得に相成り候。其外は、いたずらに人意をみだり候具とのみ相成り候間、却て当惑の種相成り候。日記に候わば、記し候て御差越し候えかし。 某心得の程、一ツを記し候。いにしえ、日本・異国にも、山に住み海島に住み、或いは色々に身をかえ、隠れたる人も多かりしにはあらずや。夫等(それら)は世に厭(いと)うこと、又は市中などにはこころをすましかねたる故にあるべく候。某は格別の御騰用(とうよう)故、世事をしばしも捨て候義はいたし申さず候。され共、残念成るは、世事を捨てざるより、又世事に迷うこと常に多く、日々くるしみ候。 天保十一年八月九日 晴 佐渡は、前にもいう如く、至極日傭の下直(げじき)なる所にて、銀山に、弁当はかのかたより持ち参りて、二十八文位の日傭あり。夫がうちにも、山中へ参り、穴へ入り、金銀を掘り候山大工(やまだいく)というものは、一日に四百文も、五百文も取り候由。至て辛苦の事のよし。彼の山大工に成りて、七年の寿(じゅ)を保つものなしと。いずれも同病にて、せきをせき、煤(すす)のごときものを吐きて、終に死ぬるなり。(是は、石州(せきしゅう)[石見銀山]其外の金銀山を聞くに、なべて同じ。油烟(ゆえん)自然に鼻口へ入り、夫より腹中・脳髄迄もいぶりて、骨かるる事なるべしと。実にや)<此短命のことに付、品々(いろいろ)の説ある。正論をしりて、いのちを延べ遣し度きもの也>。 天保十一年八月十日 晴 夕がたより、鑓をつかい申し候。 天保十一年八月十二日 晴 此程、朝は馬、畢(おえて)て鑓の素(す)ごき。夫より朝飯(多分五時[七時]過ぎに成る)給べ候後、直に経書の日課に懸り候。四ツ[午前十時]の鐘打ち候と、行水(ぎょうずい)廻り申し候(此鐘にて組頭出席也)。行水にて継上下(つぎかみしも)に着替え候て、御用の書物に懸る。四ツ半[午前十一時]過位、組頭居間へ参る。御用談これ有り、夫々指図いたす。九ツ[正午]の鐘打ち候て、一旦組頭退坐。其内、昼飯給べ候。又々組頭出でられ候。御用談これ有り、八時[午後二時]うち候て、暫く候て組頭退坐。直に四半帳(しはんじょう)の秘書写し懸く。畢て、通鑑よみ申し候。七ツ[午後四時]打ち候て、夜食給べ候。夫より剣術 、槍術に懸り候。はや、薄暮に相成り候(島国故、夕ぐれ迄さし申し候)。又行水候て、燈火にて歌書をよみ、日記を附け、又通鑑をよみ申し候。五半時[午後九時]に、用人より給人迄、悉く機嫌聞きに出る。逢い候て、少々物語いたし、ひま遣わし候。畢て近習・侍共、同断出る。夫より臥せり候。 天保十一年八月十六日 曇、風 きのうも夕がたより、茂兵衛・民蔵など、鉄砲の稽古専(もっぱら)也。だれか、戯(たわむれ)ごと申しけん、若きもの用心をせよ勤番(きんばん)は親父(おやじ)もよって放つ鉄砲 天保十一年九月二十二日 晴 五時[午前八時]の供揃いにて、鉄砲見分として参る。四十五人皆中りのものこれ有り、三十匁[一一二.五c]、十五匁もあり、三匁五分[一三.一c]もありき。地役のもの常に心がくるとみえ、取廻しよし。三拾匁うつものに、至て弱年のものもみえし也。そこより十町計り参り、町打場(ちょううちば)[大筒練習場]有り。 天保十一年十月朔[一]日 大風雨 ・・・何事ものこし置き候故、こころ懸かりに候。こころ懸かりなき程の楽しみはこれ有る間敷く候。倹約は身のつつしみにて、三千石は三千石丈(だけ)の出費、其外のこころえこれ無く候ては、今日の武士の武士たること成り申さず候間、拠(よんどころ)無き費(ついえ)はなき様いたし候ものの、是も能く考え候て、人のものをかり候ていたし申さず候程に、不時の手当ありても、夫にても金子を好み候わば、商人の武士にあるべき。明日をも構い申さず候て、人の懐中を仰ぎて不時の間に合せ候わば、乞人(きつじん)流の武士なるべし。され共、身をつつしみ、倹約のこと心をつくし候ても、貧なるは天に候得ば、よく洗い見候わば、金子のあるを好み候ものよりは、彼の明日のくらしなきもののかた、猶よかるべし。され共、少しも奢(おごり)りたるこころあれば、人を貪(むさ)ぼることは盗人の小なるものに付、人を貪り、かりものなどにて一寸の挨拶・音信などいたし候ものは、眼をとどめてよくみれば、盗人の人にものおくるにも近く、糞汁の衣着て、神拝みする類なるべし。 天保十一年十月十日 風雨 今日は武術の一覧也。書院の畳をあげ候得ば、直に稽古場になる也。七間に三間の板間にて、よき稽古場也。くり出しは目付也。某が右の横に組頭、入側(いりがわ)に用人・給人・刀もち着坐也。左次(ひだりつぎ)の間に、広間役一同着坐。鑓は宝蔵院(伊能先生[伊能一雲斎]の門人、高山又蔵[高山貞利・佐渡奉行支配組頭]の弟子共也)、左分利流・無敵流也(是は素鑓同士也)。剣術は無眼流・東軍流・新陰流(中野楽山先生[中野金四郎]などの同流名なれ共、大いに異る也)、居合無敵流、杖術吉岡流、柔術渋川流・心流也。いずれも形一通り畢て、東軍流・新陰流目録・免許のもの、仕合いたす。宝蔵院は入身(いりみ)[素手で向かう]いたす。東軍流・新陰流、いずれも花法[型]也。罷出で候面々へ、強飯(こわめし)・煮しめ等遣わす。いずれも先例也。人数七十弐人あり。五時[午前八時]揃にて、七半時[午後五時]頃まで相懸り候。新陰流に猿飛の太刀あり。武備志にいう所のものに似たり。某が以前皆伝受けし新陰流に、燕飛の太刀あり。似たるがごとし。 天保十一年十一月二日 晴 昨日、嘉十郎と槍を遣い、組合い候処、槍の上へ互いにころびて、槍折れ候いぬ。よって、ここのかしの柄を取寄せみるに、おさおさ天草[天草かし、肥後国天草特産白樫・槍柄に好適]のごとし。かしは海辺によろしきかもしらず。 天保十一年十一月五日 此程、日々の刀槍、怠り申さず候。歌は全くの武門になぐさみものに付、四時過ぎより臥せり候迄と、朝燈のあるうち計といたし置き候。され共、数え候得ば、十月二五日より今暁迄に、百八十首よみ申し候。されば、少しの閑にても捨てられぬもの也。 鍬五郎の清書一覧いたし度く存じ候。 此頃は旅なれ候て、月日も早くたち候如く覚え申し候。日々のこと左の如し。 凡(およそ)かね六ツ[午前六時]位に起き候て、燈のあり候内は歌よみ申し候。燈ひけ候頃、家来より稽古場よろしと申出で候間、直に稽古場へ参り候。槍は突身弐度、いり身弐度、刀術は家来粂蔵・鉄蔵・時太郎・順之助を遣い遣し候。粂蔵ともにきり紙以上、たしかの業に相成り候間、時太郎・順をまぜ候て、おりかえし二度遣い候得ば一息に相成り、汗出で申し候。粂・鉄は一度宛也。夫より直に居間へ帰り候得ば、朝食事也。夫より髪とりあげ、湯など遣い(入湯は六さい[月に六回]位也。手水(ちょうず)計り、日々也)候内に、はや四ツ[午前十時]に成り候間、追々組頭はじめ出で候。地役のもの共へ逢い、組頭に逢い候内、九ツ[正午]過に相成り候。一旦組頭引き候内、食事いたし候。尚又組頭出、御用向申談じ、地役のものにも逢い候得ば、多分七ツ[午後四時]に相成り候。此事果て、のち雨降り申さず候節は、乗馬いたし候。夫より、夜食に相成り候。夜食終わり候て、灸事いたしながら、順之助に左伝よみ遣し候。左伝よみおわり、灸事果て候得ば、たそがれに相成り候。燈迄、鑓のすごきなどいたし候。燈附き候て、五[午後八時]迄経書よみ、家来共暇遣し、枕もとに埋火(うずみび)さし置き候て、四ツ[午後十時]迄歴史よみ申し候。四のかね承り候後は、ひまに相成り候間、歌をよみ申し候。大かた十首計よみ候得ば、九ツ[午前零時]に相成り候。十首よみ得かね候ら得ば、暁に相成りよみ申し候。薬は毎日、 [オケラの老根]・附子(ふし)[鳥頭(とりかぶと)の子根]一ぷく、四日目に柴胡(さいこ)[ミシマサイコを主とする薬方]・承気(じょうき)[大黄を主とする薬方]の内一ぷく給べ申し候。此程、至て健かに御座候。近頃覚え申さず候位に御座候。以上の次第、当時の日なみに御座候。しるし、御安慮のため奉り候。食事は例の通り、朝しお断(たち)、ひる飯は香物かみその類、よるは一菜(此一菜を四日、五日目にしるにかえ候)、間に菓子等給べ申さず候間、飯は小茶碗にて五はい位に御座候。 天保十一年十二月十三日 風雪 昨夜より寒殊甚だし。手拭も手水鉢もなべて氷らぬものとてはなし。二十六度強半迄に寒く相成る。甚寒より八度尚寒し。用人共の部屋は硯氷るというが、某が居間はすずりこおらず。あさも昼も夜も同じさむさ也。是、寒国の故なるべし。けさ、鑓遣いしに、鎌鑓三度、素やり突身弐度、六半時[午前七時]過ぎより五[午前八時]過まで遣いて、 に汗にじむ位也。 天保十一年十二月十四日 風雪 寒、甚し。氷らぬものは某が居間の硯のみ也。手拭など板の如くに成る。 きょう朝、剣術を遣いて、向う陣屋より帰る時みしに、家来共みな素あしにて雪をふみ、勿論稽古着一ツ也。全くに某は衣類着替えけれ共、稽古場は奉行内玄関の向いなれば也。中々に、こたつのこころにては成りがたき也。 天保十二丑年正月九日 風雪 今日はよほど暖也とて寒暖昇降[寒暖計]をみしに三十一度にて甚寒より尚さむし。はじめ、寒気もしよも甚寒よりはこさじといいし頃は、甚寒のしるにきし日はさむしといいて、みなかこちける也。然るに二十二度迄いたりたることありて、いつしかあられぬさむさにもなれて、三十一度もあたたか也というごとくにはなりてけり。されば、身はなれぬればいかようにも凌がるるものなれば、鍬五郎など構えてわれはかくもせり、この上はならぬとおもうべからざる也。いつも足らぬこころにて、身は窮屈におくべきことぞかし。二十二度の寒になれて、三十一度をもゆるみたるとおもうにて、平日のこと、いか様にもなること也。既に近き証あり。炬たつというもの用いし時は、一日こたつなき時はこころぐるしかりしが、某、久しきおもいにて去年よりやめて、きょうに成りみるに、なきぞひまあきてよき也。こたつのことは更に忘れたり。 天保十二年正月二十三日 風雪 ここの例にてきょう白洲はじめなり。第一に、九十歳以上の者へ御手当、九十五歳以上のものへ御扶持これを下さる。申渡、以上六人あり。次に、孝行・奇特のものへの御褒美也。是も三人あり。 天保十二年閏正月二日 微雪、風、あられ ・・・てんの居るならば皮のほしきもの也と(貂鼠(てん)の皮至てあたたかにて、さて又筆によし。朝鮮の筆多く貂毛也)いいしに、俗間にててんとは申せども、いまだ年古りたるにはあらず、かくかくの毛色也という。申す様、よく並のいたちの如くに聞ゆれば、尚尋ねしに、家に辺におりおり出て、鶏・雀などとるという。されば常のいたち也けり。獣と聞きしに貂とこころえ、いたちの話にいたりぬ。おかしきこと也。 天保十二年閏正月二十三日 朝晴、夕がた春雨 きょう、御宮ならびに大山祇に八幡へ、年頭の拝礼として罷出ず。夫より孔廟へ参り拝礼いたし、同所武芸所へも参りみしに、孔廟は十七史、其外書物、稽古所に しくつみ重ね立て候。役人三人・教授・目付・句読師(くとうし)等あり、十才より十六、七なるも多く参り居り、四書其外をよみ、夫より手習いし、畢りて大人は武芸所へ参る也。武芸所八間計あるべし、立派なること也。六、七人にて素やり・鎌鑓の勝負ありき。夫より組頭宅へ参る。組頭麻上下にて出迎いたし、奥へ通り、家内のもの共迄へも逢い候事例也。即日、組頭はまた、某が宅へ礼に参る也。是も例也。新十郎[組頭山本新十郎]の御役宅は市中にあり。きょう、某が出門より右の往来、途中見物山の如し。愚にも又けしからず候。子供あとより附き歩(あるき)行、牽馬をみて興じ、声をあげてほむる也。笑うべきのいたり也。・・・ 天保十二年三月十一日 晴 口にあい候もの給べ候えとの御事、有難く候。此ほどは巡村故、自然と朝夕は一汁一菜に相成り候。尤もひるは弁当に梅干二ツに焼飯と定申し候。夫をこり[梱]へいれ候て持たせ候。尤も家来の弁当は菜の物もを持たせ候。これほどにいたし くと、酒又は銭など内々中間にねだらせぬ様にいたし候義出来候。村々にて入用大に減じたりとの義喜び候て内々家来へ申しで候。給物悪(あしく)しくいたせば、仇などせし下(しも)ざまのものも、むかしはありしよし也。 天保十二年三月二十一日 晴 西蓮寺に東照宮の御書あり。かかり湯いたし、今朝拝見いたす。伝来さだかならず。其外拝領の茶器を出す。よろしくみゆれ共、相分からず候。伝来さだかならず候。本間家上杉に滅ぼされし頃[天正十七年(一五八九)上杉景勝の佐渡国平定]より持伝えの小わきざし出す。素あかがね・なな子のふち作風の武者目貫にてさめもよろし。至ってふるし。細川流の拵(こしらえ)[肥後拵]に至て類す。細(すくは) 理にて、三すみ成る菖蒲作(しょうぶづくり)也。大和物のごとし。いずれの作と聞きしに、銘はしらず、中心くさり居ると承るという。中心を抜かせ見しに、正真<金房正真なるべし>という銘あり、至てよろしき中心也。つくしぼうのごときものにて、全くの短刀也。疑無きものなり。 天保十二年三月二十二日 晴 ・・・鷲崎にて百姓の飯をみて辛苦に驚き、笠とり・はしり等の難所風雨にて歩行し、弐尺三寸の新刀、はば・かさね相応なるに短刀をさし、山坂十里に近く歩行し、ことの外くたびれ候。右の体にては、都にて弐里・三里のみちこそ三尺以上の大刀も役に立ち申すべく候得共、陣中の心懸には弐尺壱寸前後の刀なるべきか。鑓もちはあれ共、刀もちと申し候こと陣中にはあるまじき 。野太刀遣いたらんとも、鑓の用は如何これ有るべきか。平日竹刀の長短も、しないうちに長ぜず。ことを欲せず、非常武篇の心懸けあらば、あまりに長きは如何あるべしか。一日にてくたびれたり。二日、三日のこと、まして一月、二月のおもうべき也。しないうちの論にて、只に勝負のみを争うは武というべき 。され共、勝負を争うこともしらず、理と話とに長じたるは、明儒のいう野狐禅(やこぜん)に近きものなるべし。 天保十二年四月十六日 雨、雷 ・・・とあり。添書の趣偽物(ぎぶつ)にあらざれば、椀の日蓮が椀か否やはしらねども、いい伝えしも古きことにて、其の古きこというべくもあらぬ也。此椀の 末なるをみて。塚原の牛馬を捨てたる所にある一間四面の三昧堂に居ながらも、心を動かさず法華をときたることおもうべきこと也。今のものは法華を信ずるとはいいながら、欲深くして、とかくよき衣類、うまき物をこのみ、はつかのことにはら立ち、或は孫や子のためにあらねぬよくをなし、みるものきくものにこころうごきて、地獄に生きながらおちてこころをくるしめ、又は少しも我慢のならぬより、うそまでいいて人をわるくいうなど、みな五欲の悪よりいずる也。法華経に偽せなからぬには、日蓮が必ず手伝いて、地獄へかかるもの共を投げ給うなるべし。つつしむべきこと也。木像は木のきれ、経文はくろくすみのかたをおしたる紙也。夫をよみおがみて、成仏せんとおもうはおろか成る事也。それよりも、半時にてもよろしく、悪心なく、欲を薄くすべき事也。 天保十二年四月十七日 雨 五時[午前八時]頃より、山の神なる教寿院の御宮へ拝礼として罷越す。きのう七時[午後四時]より、こころよりの御清(おきよめ)を成して詣でける也。至て六カ敷出来損じたり。され共、きょうの拝礼ある故にや、久しく妄念に流されはせず、有り難きこと也。畢て孔廟へ参る。拝礼畢て、学問所引受田中従太郎其外定役・並役にものとしばし申談事し、例の通り稽古所へ参る。ここは地役人の子供等が手習 に読書する所也。二、三十人居たり。よく精を出せ、おとなしくして孝行せよ、と辞(ことば)懸遣し候。いずれも平伏して居し也。夫より武芸の稽古所へ常は参るなれど、きょうは早く、いまだはじまらぬ故に参らぬ也。某、聖像を拝すれば、必ず地役人の子供に逢いて辞遣す也。是は往々(ゆくゆく)は佐渡の要(かなめ)たる、御用立つ人もあれかしとおもえば也。奉行故に子供を拝しはせねど、拝するもおなじこころにて必ず辞を遣す也。是は則ち、御奉公と一ツなるべし。 天保十二年四月二十八日 曇、微雨 重ネテ佐州脩教館ヲ建ツルノ記 [本文省略] 天保十二年五月八日 曇 払暁の出立にて、出懸け六郎左衛門玄関迄相届けかえる。当番のもの、 に六郎左衛門用人、御門内にて暇乞いたす。夫より、下(おり)戸口其外遠きは沢根の湊迄おくり来る。七時[午後四時]頃に小木の湊に到着いたす。山方役に蔵田太中[蔵田茂樹]というものあり。佐州にての歌よみ也。巳前淳介へ、墨田川すむらん月におもい出よわがたもとにもやどるものとは、という送別の歌よみし男也。我、人より物受ることとてはなし。されど歌贈るほどのことはあらかじといいしに、五月のはじめ大江戸へかえらせ給うをおくり奉るとて、という辞書(ことばがき)にて、たち花のかぐわしき名をなごりにてほどは雲井に行くほととぎす、とよみておくりし也。太中が実名(じつみょう)は茂樹と申せし。
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凡 例 |
2003/02/09