宝蔵院流槍術

宝蔵院流槍術
  宝蔵院流高田派槍術 第二十世宗家 鍵田忠兵衛

目次
1 宝蔵院流槍術と私 2 槍と矛 3 槍の種類 4 中世の興福寺 5 宝蔵院覚禅房法印胤栄 6 柳生と宝蔵院
7 武蔵と宝蔵院  8 宝蔵院流槍術の系譜 9 宝蔵院流槍術 奈良への里帰り 10 宝蔵院流槍術の技術 11 宝蔵院流槍術と川路聖謨 12 宝蔵院流高田派槍術の遺跡


2 槍と矛


タウン誌「うぶすな」 2009.2月号 掲載


 今回は、槍と矛(ほこ)について述べます。
槍と矛の違いは何か。イメージとしては矛は先端が丸みを帯びた鈍角が多いのに対し、槍は刃が直線的で先端が鋭角である、と言うことができますが、定義が曖昧で実ははっきりしておりません。
 江戸時代の学者・新井白石(1657〜1725)も槍と矛について研究しており、彼の著作「東雅(とうが)」において考察がなされ、「天智天皇の中大兄と申まいらせし時に、入鹿の臣を斬り給ひしに、自ら長槍を執り給いし」との記述があるものの、槍と鉾に明確な区分がないことを記しています。私も同一物が上代にはホコ、南北朝時代以降にヤリと称するのが一般的であったと解するのが適当ではないかと考えております。
原始の時代から、狩猟や戦いの道具として木や竹の先端を尖らせ使用していたと想像されます。さらに、石器時代には骨や石などで鏃(やじり)を作り、長棒の先端にとりつけ使用していました。
 古事記に伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の二神が天浮橋(あめのうきはし)から「天沼矛(あめのぬぼこ)」を指し下ろし、とあるように、古墳時代から奈良時代にかけては矛の使用が見られます。その後はなぜか矛の使用は廃れ、平安時代末期から鎌倉時代頃は、長柄の武器としては薙刀・長刀(なぎなた)が多く使われていました。現代武道の「なぎなた」では女性が多く使用していますが、武蔵坊弁慶が京の五条大橋において薙刀で牛若丸に挑んだと伝えられるように、当時は男性が使用する武器でありました。
 しかし、鎌倉時代後期に襲来した元寇(げんこう)で元軍が使用した長いヤリに触発され、有用性が認識されたのでしょうか、徐々にその活用が日本でも広まりました。
 「ヤリ」の文字が最初に使用されている文献は「曽我氏文書」元弘4(1334)年です。「矢木弥二郎 以矢利(ヤリをもって)被胸突(むねつかれ)半死半生了正月八日」とあり、文献上では矢木弥二郎がヤリによる日本で最初の被害者ということになります。
 南北朝時代になると、菊池武重が竹の先に短刀を縛り付けた槍によって、千名の兵で足利三千名の軍を敗走させたという箱根・竹ノ下の戦い(1335)での菊池千本槍の活躍が有名です。
 また、戦国時代の戦ではまず鉄砲、そして弓を撃ち合い、続いて長槍を並べた槍衾(やりぶすま)による集団戦など、槍の特色を活かした戦法が採用されるようになりました。槍は、突くばかりでなく振り上げ打ち叩くことも可能で、訓練未熟な雑兵(ぞうひょう)においても相当の威力があったようです。
 その後も槍は、羽柴秀吉が柴田勝家に勝利した賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い(1583)における七本槍の活躍に見られるように、戦場武器の花形として活躍しています。
 因みに、私共の宝蔵院流槍術はこの戦国時代末期頃に創始されました。
さらに江戸時代になり世の中が平和になると、槍は大名行列の先頭を飾り、また城門や関所の警護用など儀仗としても用いられるようになりました。







200.9. 2. 1