宝蔵院流槍術

宝蔵院流槍術
  宝蔵院流高田派槍術 第二十世宗家 鍵田忠兵衛


目次
1 宝蔵院流槍術と私 2 槍と矛 3 槍の種類 4 中世の興福寺 5 宝蔵院覚禅房法印胤栄 6 柳生と宝蔵院
7 武蔵と宝蔵院  8 宝蔵院流槍術の系譜 9 宝蔵院流槍術 奈良への里帰り 10 宝蔵院流槍術の技術 11 宝蔵院流槍術と川路聖謨 12 宝蔵院流高田派槍術の遺跡


1 宝蔵院流槍術と私

タウン誌「うぶすな」 2009.1月号 掲載


 新年あけましておめでとうございます。
 ご縁を得て、宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)について述べさせて頂くことになりました。今年1年、12回のお付き合いをどうぞよろしくお願いいたします。
 宝蔵院流槍術は、柳生新陰流剣術とともに奈良が発祥の古武道であります。その流祖は奈良・興福寺の子院・宝蔵院に住む覚禅房胤栄(かくぜんぼういんえい)といい、およそ450年前、猿沢池に浮かぶ三日月を突き鎌槍(かまやり)の技を工夫し、宝蔵院流を創めたと伝えられています。
 宝蔵院流の槍は、通常の真っ直ぐな素槍(すやり)に対し、鎌槍と呼ばれる十文字形の槍先に特徴があり、この鎌槍を活かして、突くばかりでなく、巻き落とす、切り落とす、打ち落とす、摺り込むなど、攻撃と防御に優れ、やがて全国を風靡し、「突けば槍 薙(な)げば薙刀(なぎなた) 引けば鎌 とにもかくにも外れあらまし」と詠われ、日本を代表する最大の槍術流派へと発展いたしました。
 宝蔵院流槍術は、吉川英治の小説「宮本武蔵」や漫画「バガボンド」、さらに平成15年放映のNHK大河ドラマ「武蔵」にも登場し、一般の方々にもその名はよく知られています。 現在では私が第二十世宗家を継承し、約100名の伝習者が、奈良市中央武道場や、東大阪市、名古屋市、ドイツ・ハンブルグの各道場において稽古に励んでおります。
 古武道は、型(形)の稽古が基本であり、この型稽古のお陰で400年以上も前の武道技術が現在にも伝えられている訳であります。ヨーロッパにも古来よりフェンシングや槍術の技術がありました。しかし、勝敗を主眼とするスポーツと化したため、人々は試合に勝つことに注力し、結局、古来の技術が消滅してしまいました。日本では古武道各流派がそれぞれ、先人が創始し磨き上げた技術の型稽古を繰り返すことにより体得継承して参りました。生身の人間が技術を受け継ぎ、それを次代に伝えることは容易なことではありません。一旦、途切れると復活は不可能でありますが、しかし、それがまた武道修行の醍醐味であり、修行者の励みでもあります。
 私は昭和32年、鍵田忠三郎の次男として奈良市で生まれました。父は自宅の一角に昭和36年、剣禅を指導する習心館道場(心を習う館)を創設しました。当然のことのように3歳で習心館道場に入門し、以来、剣道修行に邁進し、奈良育英高等学校・国士舘大学と進学しても剣道部に入部、武道三昧の学生生活でありました。宝蔵院流槍術が一度は廃れた奈良に再び蘇った経緯については、後に詳しく述べますが、このような学生生活を過ごす中で、宝蔵院流槍術を修行させていただくご縁をいただくことになりました。
 現在、私は衆議院議員として国政に参画させて頂いております。国会議員というのは、国家を論じる重要な職務であり、衆議院・参議院合わせ722名おられます。対して宝蔵院流槍術宗家は世界に只一人。願っても叶わぬ宗家の使命を与えて頂いた天命に身の引き締まる思いで日夜務めさせていただいております。また、日本の歴史文化である宝蔵院流槍術の宗家という重責を担わせて頂いてきたお陰で、道を誤らず今日まで歩んでくることができたとことに感謝申し上げる次第であります。   合掌







200.9. 1.10