宝蔵院流槍術 宝蔵院流高田派槍術 第二十世宗家 鍵田忠兵衛 目次 1 宝蔵院流槍術と私 2 槍と矛 3 槍の種類 4 中世の興福寺 5 宝蔵院覚禅房法印胤栄 6 柳生と宝蔵院 7 武蔵と宝蔵院 8 宝蔵院流槍術の系譜 9 宝蔵院流槍術 奈良への里帰り 10 宝蔵院流槍術の技術 11 宝蔵院流槍術と川路聖謨 12 宝蔵院流高田派槍術の遺跡 |
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6 柳生と宝蔵院 タウン誌「うぶすな」 2009.6月号 掲載 |
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柳生・石舟斉塁城址 |
柳生は、京に36q、奈良に10数q、東に伊賀国がひかえ、各地の豪族達の情報を得るにも容易で、また豊かな水による肥沃な土地柄です。また、奈良から柳生、伊賀にかけては、柳生一族、槍の宝蔵院胤栄、高田又兵衛、薙刀・槍の棒庵、剣の荒木又右衛門、弓の日置弾正正次、忍法の伊賀流など多くの武芸者を育んできた地でもあります。 柳生は大化の改新(645)において、大和国に六つの県(あがた)の一つとして曽布(そふ)がおかれ、その中に楊生(やぎゅう)がありました。その後、楊生は藤原氏の荘園として経営されましたが、関白藤原頼通が藤原氏の氏神春日神社の社領として寄進されました。この社領を管理する豪族達のうち柳生家が頭角を現し戦乱の世を生き抜いてきました。柳生宗厳(むねよし)は、家厳(いえよし)の子息として享禄2年(1529)柳生庄に生まれました。宗厳は戦乱の世にあって武芸の研鑽に励み、畿内随一と目されるほどの青年に成長しました。 一方、上泉伊勢守秀綱の先祖は代々上野国勢田郡大胡の城主でしたが、北条氏康に攻められた後、上杉謙信に所属していましたが武田信玄に攻められ箕輪城落城とともに落ち延び、後武田軍に編入された、と伝えられています。信玄は、秀綱の非凡を惜しみましたが、愛州移香伝の陰流に神道(新当)流をあわせて工夫考案した新陰流の研究と弘法のため、武田家への仕官を辞し、数人の門弟と諸国遍歴の旅に出ます。 まず、伊勢の国司北畠具教(とものり)を訪ねました。具教は塚原卜伝高幹(たかもと)から新当流秘太刀を伝授された名手です。この時具教は秀綱に、刀槍術で実力五畿内随一といわれる柳生新左衛門宗厳、南都興福寺に宝蔵院覚禅房胤栄という槍術の逸材がいることを語ります。早速、永禄6年(1563)、秀綱一行は宝蔵院に入りました。秀綱56歳、宗厳35歳、胤栄43歳いずれも兵法家として最も技能の成熟した年齢でした。胤栄と宗厳は武を通して互いに親交があったものと思われます。胤栄は宗厳を宝蔵院に呼び寄せました。宝蔵院道場で、宗厳は秀綱に3日間3度の試合に完敗し、胤栄と共に入門します。以来宗厳は研鑽を積み、永禄8年4月、再び柳生を訪れた秀綱に与えられた考案「無刀取り」を示し、秀綱は宗巌に「新陰流兵法二世の正統」を継がせました。続いて八月には胤栄にも印可状が授与されました。宗厳は厳しい修行によって上泉新陰の総てを吸収し、これを基にさらに長い年月をかけて柳生新陰流を大成させます。一方、胤栄は秀綱の思想を基盤に宝蔵院流槍術を創始しました。 文禄2年(1593)、宗厳は剃髪して但馬入道石舟斉宗厳(たじまにゅうどう せきしゅうさい そうごん)と称しました。宗厳が徳川家康に初めて会ったのは、文禄3年(1594)、家康53歳、宗厳66歳でした。宗厳の兵法の卓抜さに深く感動した家康は、誓詞をいれ宗厳に勤仕を命じましたが、高齢のためその任に堪えないとして同行の五男又右衛門(24歳・後の但馬守宗矩)を推挙し、自らは慶長11年(1606)4月19日78歳、柳生庄で生を閉じたのでした。 |