宝蔵院流槍術

宝蔵院流槍術
  宝蔵院流高田派槍術 第二十世宗家 鍵田忠兵衛

目次
1 宝蔵院流槍術と私 2 槍と矛 3 槍の種類 4 中世の興福寺 5 宝蔵院覚禅房法印胤栄 6 柳生と宝蔵院
7 武蔵と宝蔵院  8 宝蔵院流槍術の系譜 9 宝蔵院流槍術 奈良への里帰り 10 宝蔵院流槍術の技術 11 宝蔵院流槍術と川路聖謨 12 宝蔵院流高田派槍術の遺跡



8 宝蔵院流槍術の系譜

タウン誌「うぶすな」 2009.8月号 掲載



 宝蔵院流槍術は、胤栄が創始したことは五月号で述べました。そして、日本を代表する最大の槍術流派へと発展いたしました。これは、胤栄創始の鎌槍操法術理が優れていたことはいうまでもありませんが、それに加え宝蔵院には代々優れた門人が多く集まり、胤栄創始の技術をさらに体系化し継承発展させ、全国に波及されたのでした。

 二世は禅栄房胤舜(いんしゅん)です。胤舜は胤栄の甥にあたり、天正17年(1589)に生まれ、慶長7年(1602)14歳で得度し法師になりました。このとき胤栄はすでに80歳を越えていました。胤舜に槍術を手引きしたのが胤栄の直弟子で、宝蔵院近くにあった奥蔵院の老僧であったといわれています。胤舜は体系が不整備であった伝授の体系を流儀としての体裁を整え確立しました。胤舜には優れた門人が多く集まり互いの技術の向上を競いました。なかでも中川半入、柴田加右衛門、高田又兵衛、長谷川内蔵助、磯野主馬、田中勘兵衛の六人を六天狗とよばれていました。

 三世は覚舜房胤清、四世覚山房胤風、五世乗織房胤憲、六世覚乗房胤懐と続きます。こうした南都に伝わる鎌宝蔵院以外に、多くの門流がその門人達によって成立し、発展しました。

中村派 
 流祖胤栄の一の弟子といわれる中村市右衛門直政(尚政1577〜1652)。14歳で胤栄の弟子となり、慶長10年(1605)29歳で印可を授けられました。後に直政は越前・福井藩に仕官し、代々伝えられていました。

高田派
 私共が稽古する宝蔵院流高田派槍術の祖です。高田又兵衛吉次(1589〜1671)は伊賀国阿拝郡白樫村の郷士高田喜右衛門の長男に生まれ、慶長8年(1603)14歳で中村市右衛門直政に入門し、慶長20年(1615)に六十三か条の相伝目録を授けられました。寛永14年(1637)10月、島原の乱が勃発すると、小笠原忠真の招きに応じて小倉に赴きます。翌15年2月の原城攻めには、槍手一隊を率いて本丸を陥れ、その功によって700石を賜りました。慶長4年(1651)4月11日、病床にあった将軍家光への病中御慰みのため、長男斎(いつき)、弟子和光寺七兵衛とともに奥義上覧にに供しました。「又兵衛、技を演ずるにおよんでは疾風雷の如く、声、殿中に震う。一同その技の精妙敏捷に感激、家光公も病を忘れ・・」と伝えられています。そして10日後の4月20日、将軍家光はこの世を去ったのです。又兵衛には4人の男子がありましたが、三男吉通・四男吉全が小倉に留まり、吉通が相続して又兵衛を称しました。寛文11年(1671)正月23日、吉次宗伯は82歳で没し、小倉の峯高寺に葬られました。吉次にも久世大和守広之、森平三清政綱、河辺弥右衛門盛連、不破慶賀など傑出した門人が集まり、門人達の活躍によって江戸を始め諸藩に大きく広がる基礎を築いたのです。

 このほか、磯野派、下石(おろし)派が伝えられ、さらに地方では、姉川流、上田流、会津藩高田派、地位(ちい)流、尽心(いんしん)流、長尾派、伊能派、篠田派、吉田派、など全国に本流、支流、傍流が伝えられ広がったのでした。
 






2009. 7.28