宝蔵院流槍術 宝蔵院流高田派槍術 第二十世宗家 鍵田忠兵衛 目次 1 宝蔵院流槍術と私 2 槍と矛 3 槍の種類 4 中世の興福寺 5 宝蔵院覚禅房法印胤栄 6 柳生と宝蔵院 7 武蔵と宝蔵院 8 宝蔵院流槍術の系譜 9 宝蔵院流槍術 奈良への里帰り 10 宝蔵院流槍術の技術 11 宝蔵院流槍術と川路聖謨 12 宝蔵院流高田派槍術の遺跡 |
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7 武蔵と宝蔵院 タウン誌「うぶすな」 2009.7月号 掲載 |
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宮本武蔵肖像 |
宝蔵院流槍術は、江戸時代を通じて最大の槍術流派でありましたが、近世、一般の人達にその名が知られるようになったのは、やはり吉川英治の著「宮本武蔵」のお陰でしょう。 では、実際の武蔵はどうだったでしょう。慶長9年 (1604)21歳で、京都の蓮台野・一乗寺下り松・三十三間堂にて吉岡一門を破った武蔵はその足で奈良・宝蔵院にやってきます。この時、胤栄は84歳、胤舜16歳。初代は高齢、二代は若年であったためか、武蔵の相手は奥蔵院道栄がつとめ、この時の様子が「二天記」に記されています。 「二天記(にてんき)」は、武蔵の死(正保2年(1645)62歳)後、寶暦5年(1765)に弟子によって纏められた武蔵の伝記です。これによると、「僧鑓を以て立ち向ふ、武蔵は短き木刀を持て立会ひ、両度勝負をなすに僧利なし、以て武蔵が技術を感賞して、院に停め饗応あり、その夜談和(話)するに、已(すで)に曙(あけ)なんとす、武蔵去りぬ」つまり、二度試合をしたが両度とも宝蔵院が負けたとあります。私は武蔵の死100年後の弟子が記しているこの勝敗については重要視しておりません。ここで着目しますのは、試合後に互いに相手を認め合い、飲食を共にし、武術や人生について夜を徹して語り明かした、というくだりです。これまでの武蔵は、相手を叩きのめし、逃げるようにその場を立ち去る野獣のような行動が常でした。晩年の武蔵が著す品格の高い著述や書画に見られるように、武蔵における人生の転機が奈良・宝蔵院であったということが出来るのです。こうしたご縁から、武蔵創始の「二天一流(にてんいちりゅう)」ご宗家一門とは、今日においても交誼いただいております。歴史に繋がる400年の交流とは誠に愉快であります。 武蔵はその後、豊前小倉で宝蔵院流と試合をしています。これを故・松原英世氏(郷土史家)がその著「高田又兵衛」において詳しく紹介しておられます。 (宝蔵院流高田派槍術祖・高田又兵衛は、)武蔵とはただ一度仕合いをしたことがある。寛永9年(1632)、小笠原忠真が豊前小倉へ転封のとき、武蔵、伊織、又兵衝ともども同行しているので、小倉でのことである。小笠原忠真が武蔵、又兵衝の両名を呼び寄せて仕合いをするよう命じた。一度は拝辞したが忠真はあきらめず、やむなく又兵衛は竹製の十文字槍、武蔵は木刀を手にして立ち合う。この頃の武蔵は二刀を遣わず一刀であった。中段に構える武蔵に向かって又兵衛の槍が鋭く突き出された。二度目まで躱(かわ)したものの、第三の突きがやや流れるようになり、武蔵の股間へ入ってしまう。武蔵は即座に、「さすが又兵衛殿、それがしの負けでござる」それをさえぎるように又兵衛が、「本日は御前ゆえ、それがしに勝ちを譲ってくださったのであろう」と謙遜する。一説には、この仕合いは一進一退、形勢いずれが有利かと見る間に、突然又兵衝が槍を投げ出して「参った」という。不審顔の藩主忠真に対し、「槍は長く、剣は短い。長いものに七分の利があるにもかかわらず三合しても勝てなかった。したがって長い得物(えもの)を持って戦った私の負けでございます」と説明。忠真は両者の技量に大いに満足したという。 |