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橋本凝胤 薬師寺長老
弔辞

昭和53(1978)年3月25日遷化

葬儀委員長 鍵田忠三郎

 謹んで奈良市名誉市民薬師寺長老橋本凝胤老師のご霊前に合掌し、哀悼のまことを捧げ、お別れの言葉を申し述べます。 
 老師は、仏教者として、持戒に特に厳しく、正しい仏徒としての道を貫き、その生涯を終えられました。 
 また、唯識教学の学問僧としても高名であり、学徳共にすぐれた仏教者として、実に偉大な存在であり、その老師が奈良薬師寺におられることが奈良市民の大きな誇りでもありました。
 老師は七歳のときに法隆寺の佐伯定胤老師のもとに入門得度され、戒律教学を学ばれ、八歳で薬師寺に入られ、その後衰微の薬師寺を復興されたのであります。そして民衆のために生涯独身を以て精進一途に生きぬかれ、法相宗の学問僧として、また、仏教界の大僧正として数奇の民衆教化の道に於て、おしはかることのできないご遺徳とご業績を残されたのでございます。 
 特に奈良市にとりましては、中国西安市から現在、王林市長ほか第三次友好代表団を迎えている時でもあり、昨日、この薬師寺にも参観に来られたところでありますが、その西安市との友好提携を、老師は十一年前、市民誰もが、中国との友好のことを考えていないときに提唱され、私にも強く西安市との姉妹都市を結ぶようにと奨められたのであります。 
 また、本年は平城宮跡発掘20周年を迎えたのでございますが、この広大なる平城宮跡は現在保存整備され、史跡博物館として復元されることに決まりつつあるのであります。この平城宮跡の保存について、二十数年前、これを強力に推進され、時の池田内閣総理大臣と政府を動かされ、国の保存買い上げを決めるよう奨められましたのも老師でございました。この中国西安巾との友好提携のこと、平城宮復元のこと等一事をとり挙げて見ましても、老帥の先見の明は見事であり、国の為に、そして奈良市の将来の発展の為に、実に偉人なお仕事をおやりいただいたものと今、ここに感謝申し上げる次第でございます。 
 一方では多年に亘り人権擁護委員など各種の社会教化と社会福祉の仕事を進められ、人権思想の普及啓発、あるいは青少年の善導に、そして生活困窮者、母子家庭の援護とその環境改善に献身的に尽くされたのでございます。 
 奈良市におきましても老師のその崇高なご人格と偉大なご業績に対し、昭和47年文化の日に奈良市名誉市民として顕彰させていただいたのでございます
忘れもしません、老師が名誉市民になられたのち、同じ名誉市民でありました故岡潔先生と二時間にわたって学問の真理をふりかざして、この薬師寺で対談されたことかありました。
 宇宙大真理を悟得されての、両先生の真剣勝負は吾々凡夫にはわかりませんが実に立派な勝負を拝見できたと存じております。 
 一方の岡先生は富士山の如く厳然と、一方の橋本老師は次元の違う雲の世界から悠然と。私もこのような気魂のするどい、そして次元の高い堂々の法論対決は、今後、生涯拝見することはないと存じます。実に得難い勉強をさせていただき感謝申し上げる次第であります。このお二人の名誉市民の岡潔先生は3月1目午前3時30分、老師も同じ3月25日午後3時30分、相次いで無命世界に帰命されたのであり、奈良市にとりましては淋しい限りであります。 
 奈良市は、いま千二百六十年の歴史の輪廻により、新平城京の新天平文化の時代を迎えたのであります。このときに薬師寺は天平時代の姿そのままに金堂の再建を成し遂げられ、西塔も再建への種をまかれ今その実現へと大きくご精進をなさっているのでありますが、これみなご老師のご遺業であります。 
 そして、老師は高田好胤管長、松久保秀胤副住職、安田瑛胤執事長と、多数の立派な弟子を育てられ、その法を伝えられました。 
 後継者は、老師のご遺志を継ぎ、般若心経百万巻写経勧進を以て全国を行脚し金堂復興を成し遂げ、次いで西塔を再建学べくご精進、ご勧進中であります。必ず法燈を護持し、行基菩薩の精神で以て老師のあとを立派に継いでいかれるものと信じます。 
 奈良市もご承知のように日本民族の心のふる里として、理想郷奈良の実現を目指し新平城京において新天平文化の花を咲かせるべく、本年は開拓精神を以て、正しい人の道を盛んにする新平城京のまちづくりを進めているところでございます。 
 その析平城京の精神的な指導者が老師でありました。この新天平の時代の人の道を示す偉人な燈台の灯が今、音もなく消えたのであります。悲しい限りであります。 
 思いまするに、日本の庶民仏教の創始者は、行基菩薩でありました。その行基菩薩は薬師寺の二代目の別当であり、長老さまの常に信奉しておられた方でありました。その行基菩薩は八十二歳で三月二目に菅原寺で遷化されたのでありますが、老師も同じく数え年八十二歳を以て同じ月の三月の二十五目に、天命と申すのでありましょうか、知友、信者、弟子たち、そして市民の悲しみのなかに正念常の如く遷化され、幽明境を異にされたのであります。 
 しかし、老師のご生前の偉大なご教化と、そのご業績の灯は薬師寺に厳然とその法燈が受け継がれることは勿論でありますが、広く全国の信者とわれわれ奈良市民の心の中に永遠に受け継がれて、不滅の灯を点じ続けていくものと存じます。 
 われわれ奈良市民は、名誉市民橋本凝胤老師が示された日中友好の道と、平城京の復元により日本民族の心を呼び起すことと、衆生済度の道を以て、真に幸せなるまちをつくるという奈良市のもつ三つの大きな使命をご遺志に従い、果してまいりたいと存じます。 
 希くは在天の橋本凝胤老師のご霊位、永く安らかにお眠りいただき、ご加護とご示教を奈良市と遺弟子に垂れ賜わりますことを。 
 ここにご生前、二十八万市民と共に、人類と国家民族と、そして奈良市のために正しいお導きをいただきました老師のご献身に対し奈良市民を代表し、奈良市長として、また葬儀委員長として厚く御礼申し上げ、心からなる合掌を捧げご冥福をお祈りいたしましてお別れの言葉といたします。 

  昭和53(1978)年4月9日

 

2016. 2.19