発祥の奈良の地に蘇えった宝蔵院流十文字鎌槍のいきさつ |
昭和三十三年、鍵田忠三郎氏が奈良の東山、高円山に有料道路を開発した時、白毫寺墓地の横に道路を敷設されたのであります。その時、胤栄の霊が呼んだのか、その道路わきに鍵田氏によって、宝蔵院覚禅房胤栄師の墓地が発見され、その後鍵田氏によって、ずっとこのお墓が祀られ茲に昭和の世に現れ出たのであります。 去る昭和四十八年夏、既に奈良市長として、市の発展の為に心血をそそいででおられる鍵田忠三郎氏の招きにより、宝蔵院の槍道場規模で四百畳敷の、奈良市中央武道場建設中に、全日本剣道連盟会長(元最高裁判所長官)石田和外先生のご来駕をいただいた際、市長と共に、白毫寺にある宝蔵院胤栄師のお墓にご案内申し上げ、高声高らかに般若心経を墓前にささげおわった時、石用先生が、「実は宝蔵院流高田派の型を少々たしなんでおります。」と謙虚に申されたのがご緑のはじまりとなり、昭和四十九年九月二十八日、奈良市中央武道場(鴻の池道場)の竣工式に、鍵田市長の切なる願いを入れて、満場の見学者一同の見守る中で、先ず郷土出身の大先輩である、全剣連名誉会長木村篤太郎先生が、八十九歳の御老齢にもかかわらず、風格のある見事な居合のご披露をいただき、引続いて、発祥の地奈良に於いてはじめて、石田和外先生により、宝蔵院流高田派槍合せの型を、坂西太郎氏、山崎卓氏と共に御披露いたヾいたのであります。 其後鍵田市長の槍に村する熱意が、石田先生のお心に通じ、昭和五十年九月七日より一週間、東京の日本武道館に於て、槍合せの型習得の為、後記の四名が派遣され、終日きびしい稽古通じ、表十四本を習得し、更に翌年、昭和五十一年十月十八日より五日間、第一生命保険相互会社道場にて、裏十四本、明けて昭和五十二年十二月十三日より三日間、同じく第一生命道場に於て、新仕掛七本の御指導を受けたのであります。この計三十五本は、石田先生がその学生時代之を修得し、戦後、明治時代済寧館出仕山里忠篤先生より旧一高撃剣部に伝承され、書残されたメモなどを参照し、記憶をたどり、御苦心の末、復元されたものであります。当時江戸は勿論全国に於て隆盛を極めた宝蔵院流が、明治維新後、跡を絶えたかに思われていましたが、このように由緒ある古流を、旧第一高等学校撃剣部に伝承されたその先達、佐々木保蔵先生の卓越したご識見、ご意志を受け継がれた諸先輩方のご努力には敬服の外ありません。更に石田先生、及び第一生命の矢野一郎先生の御厚情と、御熱意により、十文字鎌槍の槍穂とともに、宝蔵院流発祥の地奈良に再現し、引継がれる事と相なったものであります。これは実に四百年ぶりの桟縁が熟し、宝蔵院流が奈良に蘇えった極めて意義深いものと言わねばなリません。 その間、昭和五十一年二月十八日、鍵田奈良市長、及び奈良市前助役慶田八郎氏(財団法人奈良市武道振興会理事長)をはじめ、関係者多数の御出席を得て、宝蔵院流第十八代石田和外先生より、剣道範土八段西川源内に対し、厳粛裡に、宝蔵院流高田派槍合せの型の伝授式が、奈良市鴻乃池道場において挙行されたのであります。 鴻乃池道場ではこの機に、槍教室を新設し、二十数名に及ぶ同好の士と共に、稽古をはじめるとともに、資料収集にも着手し、この由緒ある宝蔵院流の保存と伝承に精進しているところであります。そして、旧第一高等学校撃剣部諸先輩に、又直接御指導を賜わり、御伝授をいたゞいた、御師石田和外先生に対して、この宝蔵院流十文字鎌槍を、重大な決意を以て、子々孫々に到るまで、奈良の地に於て相伝えることを堅くお誓い申し上げておるところであります。 記 槍習得に参加せし者の氏名 剣道範士 八段 西川源内 |
「宝蔵院流槍術、再興」夕刊フジ 掲載 (S51(1976).3.12) 奈良市民だより「宝蔵院流槍術 奈良へ帰る」掲載 (S51(1976).7.15) NHKテレビ「近畿の話題 奈良」よみがえった宝蔵院流の槍 (S52(1977).1.23) 発祥の奈良の地に蘇えった宝蔵院流十文字鎌槍のいきさつ (S53(1978).7) 宝蔵院流槍術 奈良への里帰り (H21(2009).9) 石田和外先生 ご愛用稽古槍 受贈 (H21(2009).11.25) 宝蔵院流高田派槍術 第十八世宗家 石田和外先生ご愛用稽古槍の受贈 (H22(2010).5 |