よみがえった 宝蔵院の槍


よみがえった宝蔵院の槍


日時   昭和52(1977)年1月
番組   NHKテレビ「近畿の話題 奈良」
      (7:207:35
出演   鍵田忠三郎
      西川源内
きき手  児島建次郎


1467年に始まった応仁の乱をきっかけに、各地の守護大名が群雄割拠し、各地で合戦が繰り広げられました。

当時の大和は藤原氏ゆかりの興福寺が治めていましたが、16世紀になるや、にわかに騒然とし、京都からは赤沢氏、堺からは松永氏が攻め入るなど戦乱の地へと化していきました。

こうした武力こそが力であった時代に、一人の僧が新しい槍を考え出しました。


新春早々から興福寺の境内には厳しい声が響いております。
宝蔵院流の槍の寒稽古が行われているところです。

寒くはありませんか。



一箭順三
爽やかな良い気持ちです。

片山さんは名古屋から通っていらっしゃるのですか。


稽古は欠かさずですか。



片山俊男
ええ、新幹線で来ております。


ほとんど休まず通っております。

正月明けの稽古ですが、気分のほうは乗っておりますか。




松田勇吉
はい、充分に乗っております。

このように稽古をしていらっしゃる宝蔵院の槍といいますのは、興福寺の脇寺の一つ宝蔵院の僧、覚禅房胤栄によって編み出されたものです。
戦国時代に生まれたこの槍、明治頃までは盛んだったようですが、次第に跡を受け継ぐ人がいなくなり、消え去る寸前でした。
  

ところがふとした縁から奈良の地にこの槍がよみがえろうとしております。
今日は、鍵田さんと西川さんにお話しを伺っていくことにいたします。
鍵田さん、いろいろ因縁めいた話しもあるようなのですが、鍵田さんと槍とのご縁はどのようなところにあったのですか。
鍵田忠三郎
私はね、かつて事業をしておった頃、白毫寺の横に道路を造りまして、その時にその道の横に宝蔵院覚禅房胤栄のお墓を発見したわけです。
それからはずーと私がお墓をお祀りをしておったものです。
お祀りをしておりますと、宝蔵院さんの霊が乗り移るというんでしょうかね。
そして、私が市長になって道場を宝蔵院規模に造らしてもらうと言うことになりまして、奈良市中央武道場を造らせてもらいました。
道場を宝蔵院規模に造らせてもらうことになったというのが、槍とのご縁の始まりでしょうかね。
柳生宗厳と胤栄は関係があるのでしょうか。


鍵田忠三郎
そうですね、上泉伊勢守秀綱の相弟子です。どちらも同じ師匠に入門した兄弟弟子ということですね。
奈良はもちろん、全国的にも宝蔵院を知っておられる方はいない段階でですね、どんなことで復活することになったのですか。




鍵田忠三郎
私がその道場を造って、そこへ全日本剣道連盟の会長である石田和外先生に建築現場を見てもらった訳です。
その時に僕が石田和外先生に「この道場は宝蔵院規模に造っておるのですが、宝蔵院のお墓に参って下さいませんか」と申したところ、「それでは是非参らせてもらおう」ということになって、西川先生と一緒に参った訳です。
お墓に参って皆で読経してその後で、先生は「実は私が宝蔵院流を伝えておるのですよ。もしも良かったら、奈良の道場が出来るときに、見せてあげてもよろしい」と言われた。
見せてもらったところ、我々は驚きました。立派な宝蔵院流を伝えておられたのです。
是非、これを奈良へ返して欲しい。奈良の者が入門しますからどうぞ教えて下さい。ということで、西川先生以下4人が入門いたしました。
そして、宝蔵院流が奈良へ帰ってきた、とこういうことになるわけです。


西川さん、入門されてかなり厳しい訓練を受けたのですね。
西川源内
ええ、夏場でしたのでね。朝から夕方まで7時間、あるいは夜まで特訓をされました。
剣道の稽古とちがって大変疲れたのを生々しく記憶しております。

鍵田さん。それに併せて400年ぶりに本物の槍も帰ってきたそうですね。



鍵田忠三郎
そうなんですよね。縁が熟すというのでしょうか、石田和外先生のお世話でですね、先生が伝えておられた槍、これが十文字槍です。
これは石見守藤原正直が鍛えた槍なのです。
これは間違いなしに寸法も合っている十文字槍でして、これも一緒に奈良で伝えなさい、ということで去年12月18日に石田和外先生から拝領したわけです。
西川さん。本物の槍を見ておりますと、吉川英治の「宮本武蔵」を思い出すのですが、この地では実際に槍の試合が行われたのでしょうか。

西川源内
この場所では胤栄さんと菊岡という弓の名人がこの場所で試合をしたということを聞いております。
胤栄さんと宮本武蔵ということにつきましては、少しずれがあるように思いますけれども、まあ、そういうことは別にしても、心の問題を取り上げたひとつの話しとしては充分聞くべきものがあると思いますね。
では、現在にまで残っているいろいろな槍の型をですね、披露して頂きながら十文字槍の特徴をお話しして頂けますでしょうか。
やはり戦国時代に生まれていますから、攻撃的な槍と考えてよろしいでしょうか。

(素槍:鈴木真男
・鎌槍:松田勇吉)
西川源内
そうですね。普通の素槍ですとポイントしか突けませんが、この十文字槍ですと、平面的・立体的に運用ができるわけですね。

(素槍:鈴木真男
・鎌槍:松田勇吉)

西川源内
今、演武しますのは「倒用」。
これは裏面を突いてくるのを「冠」に受けて、そして右の鎌で落としています。そして、前面を突いてくるのを右の鎌で切り落としているわけですね。

(素槍:鈴木真男
・鎌槍:松田勇吉)

次のは「一挽」といって、上段に構えている鎌槍に対して攻撃していくわけですが、それを一回転させて、今度は左の鎌で落としている。切り落とすのですね。

(素槍:鈴木真男
・鎌槍:松田勇吉)

次は「五個」といいまして、素槍が裏面を攻撃するのをかわし、そして冠で受ける。

(素槍:鈴木真男
・鎌槍:松田勇吉)

次は「半冠」といいまして、前面を右の鎌で切り落とす。次いで、裏面突きを冠に受ける。

引き落とす、切り落とす、捻るというのが非常に実の運用としてして鎌は非常に効果的ですね。
「倒用」「五個」とかいう言葉は、あまり聞き慣れませんね。



ええ、馴染みがありませんね。しかし、当時としては仏教的な言葉で表現されたようですね。

(素槍:一箭順三
・鎌槍:前田繁則)

次は「巻槍」といいまして、巻いてくる素槍をかわし、今度は右の鎌で切り落とします。たいへんに鎌の効用を随所に取り込んだ型ですね。

宝蔵院流高田派槍合せの型として伝えられています。

(素槍:一箭順三
・鎌槍:前田繁則)

今度は「引落」です。
素槍の突きを、鎌槍が総て切り落とします。

(素槍:一箭順三
・鎌槍:前田繁則)

次は「遠目」といいまして、素槍が相手の槍を払うのを鎌槍が抜いて、そして大きく相手の槍を叩き落とす。


(素槍:一箭順三
・鎌槍:前田繁則)

鎌槍にも叩き落とすという特色があるわけですね。そして、さらに裏胴を突きます。
それでは実際に素槍と鎌槍を合わせていただいて、皆さんにもお話しを伺います。





西川源内
これを鎌が捻り落とす、そして切り落とす、あるいは引き落とすわけですね。
さらに叩き落とす、などいろいろな組み合わせで、槍の型が出来ているわけです。
竹内さんはどうして宝蔵院の槍を習おうとされたのですか。



竹内立
祖父が大分で、流派がちがうけれども槍を習っておりました。
私も習いたいと願っていたところ、こういう機会を得ましたので始めさせていただいたわけです。
酒井さん。若い人がこうした古武道を習うということは何か魅力がありますか。

酒井明彦
素槍と鎌槍の呼吸の取り方、お互いの呼吸のつかみ合いが一番の妙だと思います。
岡田さん。習い始めて内的な面で変わったところがございますか。


未だ極意までは行きませんか。

岡田栄蔵
習い始めて、腰がしっかりしまして姿勢が良くなりました。
気合もかかりますしね。

小坂明夫
まだまだですね。
西川さん。胤栄は極意についても文書に残しているようですけれども、どのようなことが書かれているのですか。

西川源内
何箇条かありますが、特に一番極意とされていますのは、双剣峯と悦眼ですね。悦眼というような誰にも伝えないというような大切なものですが、心の眼を開けというようなところがポイントのようですね。
他にも理合とか実利というようなものの極意書があります。
双剣峯と悦眼というのは、心の問題を最終に置いて、それに取り組めと教えているのですね。
鍵田さん。消えかかった灯ですが、やはり守り通していきたいですね。

鍵田忠三郎
折角400年ぶりに帰ってきたこの槍を、我々は守り通して、そしてこれを全国に広めていくという責任があると思いますね。
なんとしてもそれをやっていきたいと思います。

どうも今日はありがとうございました。


「宝蔵院流槍術、再興」夕刊フジ 掲載 (S51(1976).3.12)
奈良市民だより「宝蔵院流槍術 奈良へ帰る」掲載 (S51(1976).7.15)
NHKテレビ「近畿の話題 奈良」よみがえった宝蔵院流の槍 (S52(1977).1.23)

2009. 7.23