宝蔵院流槍術 奈良へかえる
370年ぶり

石田和外氏が秘技を直伝

奈良市民だより  昭和51(1976)年7月15日掲載


 槍合せの型を披露する石田和外氏(右)と西川源内氏


資料提供:宝蔵院流高田派槍術 粕井隆 免許皆伝

 柳生新蔭流の剣と並んで奈良が発祥の地である宝蔵院流槍術が370余年ぶりに奈良にかえり、いま青少年にその精神と技が伝えられつつあります。
 鍵田市長は武士道の精神でもって日本民族のふる里奈良の青少年を健全育成し、りっぱな目本人になってもらおうと、市中央武道場をつくり、また全中学校に武道場を建設、武道の振興につとめてきました。
 柳生の剣についで、永らく途絶えていた宝蔵院流槍術を、この際再び世に出そうと、その復興に力を入れてきました。
 昭和49年9月、市が「道義のまちづくり」の拠点として建設した市中央武道場の完成式で、宝蔵院流高田派を伝える全日本剣道連盟会長の石田和外氏(元最高裁長官)が奈良ではじめて宝蔵院流槍術を披露したのが端緒となって、いよいよ本格的に復興することになりました。
 そして50年9月には県剣道連盟理事長の西川源内氏をはじめ、鈴木眞男、松田勇吉、鍵田忠兵衛各氏ら4人が上京、石田和外氏に槍術入門、きびしい修行をつんでこの流儀を習得、奈良に持ち帰りました。
 市武道振興会ではことし2月、同会が開いている武道教室のなかに宝蔵院流槍術をとり入れました。この教室は全国に共感を呼び、名古屋、大阪など各地から20人が受講この人たちの指導で手ほどきを受けました。
 こうして宝蔵院流槍術は、発祥の地奈良でこれらの人たちを中心に広められていますが、7月8日市内法蓮町鴻の池に建設する「青年の家」起工式に出席のため石田和外氏が来寧したのを機会に、7月10日市中央武道場で”門下生”に直伝の指導をしました。
 鍵田市長の要請で、指導に先だって第一の門下生西川県剣道連盟理事長を相手に「槍合せの型」オモテ十四本を披露、鍵田市長はじめ、槍教室受講生20人が二人のするどい気迫と厳しい技にじっと見入っていました。
 このあと石田氏は受講生一人ひとりにきびしく手ほどきをしました。
 
【宝蔵院流槍術】
 宝蔵院は興福寺の塔頭(たっちゅう)の一つで、これが、槍の宝蔵院として知られるようになったのは覚禅房胤栄(いんえい=1521〜1607年)にはじまる。十文字槍と呼ばれる独特の槍はこの人の考案したもので、池に写った三日月(みかづき)を見て創案したといわれ、奈良国立博物館(旧館)付近に大きな道場があったと伝えられる。
 胤栄の墓は白毫寺町にあって、毎年春秋の彼岸と盆には鍵田市長はじめ武道関係者がおまいりしている。



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2012. 5. 7