高田又兵衛 武蔵と対決した三人の武芸者「高田又兵衛」 岡八幡宮 にっぽんの剣豪「高田又兵衛」 「槍の又兵衛」顕彰碑建立協賛金募金
たかだ またべえ
『槍の又兵衛』として名を馳せた高田又兵衛 (高田憲治氏蔵) |
高田又兵衛吉次事蹟・高田亮 より |
寛永14(1637)年10月、島原の乱が勃発するや小笠原忠真の招きに従って小倉に赴き、翌15(1638)年2月原城攻めには槍手一隊を率いて本丸を陥れ、その功によって700石を賜った。 慶安4(1651)年4月11日、病床にあった将軍家光の病床御慰みのため、十文字槍の奥儀を上覧に供した。 又兵衛には4人の男子があったが、長男 斎 吉深は延宝3(1675)年伊賀に帰り、のち藤堂支藩に仕えた。次男新左衛門吉和は福岡藩に仕え、三男八兵衛吉通と四男弥太郎吉全とが小倉に留まり、三男吉通が相続して又兵衛を称した。 寛文11(1671)年正月23日、吉次祟白は82歳で没した。小倉の峯高寺に葬る。里墓は伊賀・白樫。 鎌宝蔵院流槍術・渡邊一郎 より |
宝蔵院流高田派槍術の祖 高田又兵衛略伝 高田又兵衛吉次、天正18年(1590) 父 喜右ェ門吉春の長男として伊賀・白樫に生まれる。 幼くして武技を好み、庭や岡八幡宮の大木を相手に技を磨き、満12歳になって宝蔵院流槍法の門に入って槍術を学ぶと共に、新陰流剣術、穴沢流薙刀もあわせて修業して創意工夫、遂に宝蔵院流高田派を起す。 慶安4年(1651)三代将軍家光に十文字槍の奥義を披露、紋付、衣装を拝領「槍の又兵衛」として全国にその名を知られた。 進退、屈伸、表裏、悠急、剛柔の十文字を説き、法形百一条 巴の術十五ヶ条を考案するなど、十文字槍の哲理を深めた。 生来、人格高潔、二天流の剣豪宮本武蔵や禅道の名僧陰元、即非、法雪とも親交深く晩年崇白と号し主家小笠原(明石・小倉)の名を高め、小倉の地で顕彰されて名を残す。 寛文11年(1671)没、小倉生往寺に眠る。 子孫よくこれを受継ぎ槍術の振興に尽すと共に、郷土の為特に岡八幡宮、慈恩寺の整備に力する。 平成2年11月吉日 大字 白樫区・白樫文化財保存会 |
宝蔵院流高田派槍術 高田又兵衛 松原英世(郷土歴史家) |
「槍の又兵衛がゆく」 |
十文字槍 |