槍の又兵衛がゆく

九州街道ものがたり 第773回 
「槍の又兵衛がゆく」


日時   平成17(2005)年5月29日(日)12:00〜
放映   KBC九州朝日放送

江戸時代、譜代大名小笠原氏の城下町として栄えた小倉。
ここは江戸時代の初期、天下に名だたる剣豪達が割拠した地としても知られています。
二刀流の達人、宮本武蔵。
燕返し、佐々木小次郎。
そして、この二人に勝るとも劣らない槍の名人、高田又兵衛(たかだ またべえ)です。
将軍・家光の前でその技を披露。
「槍の又兵衛」と絶賛され、また、武蔵と勝負して勝ったとも伝えられている高田又兵衛。
彼はどんな人物だったのでしょうか。


「槍の又兵衛がゆく」北九州市
本州から九州への玄関口に位置する北九州市は、古来、交通の要衝として栄え、幾多の歴史の舞台となったことでも知られます。
小倉は江戸時代に入ると、豊前・細川藩の城下町となりました。


福岡県北九州市小倉北区
その細川氏が熊本へ転封すると、替わって譜代大名の小笠原氏が入り、幕藩体制の要の役割を担うようになります。

司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと」より
小倉の九州のおける政治都市としての性格は、最近いよいよ濃くなっているが、徳川時代の地政学的感覚もこの点は変わらない。幕府はすでに3代将軍家光の時に、ここに譜代きっての名門小笠原氏を封じ、15万石を与え九州探題とした。その後、維新まで国替えがなく据え置きのままである。



小倉城


ここはまた、幾多の剣豪達が闊歩した町でもあります。
江戸初期の剣豪・宮本武蔵が細川氏の時代、この地を訪れ、佐々木小次郎と関門海峡の小島で決闘をしました。
武蔵は養子の一人・宮本伊織を小笠原藩に仕官させており、小笠原氏が豊前小倉に異封後、小倉の伊織の屋敷に身を寄せています。


宮本武蔵(1584-1645)

その武蔵にやや遅れてこの小倉の地に入ったのが、高田又兵衛です。
小倉駅近くの生往寺(しょうおうじ)には彼の墓が残されています。


生往寺

高田又兵衛墓碑
生往寺住職・安永宏史さん
小倉藩の、小笠原忠眞(ただざね)公は、その前は明石の城主でありました。
武芸者はいないかと探しておったときに、丁度、大坂夏の陣で又兵衛が活躍。そのことを聞いた城主忠眞公は、是非当藩に仕えて欲しい、との話しが来た。
又兵衛は、まずは明石城武芸の指南者として仕えた。
ついで、忠眞公が小倉に入った際に、優秀な又兵衛にも付いてくるように話しがあり、こうしたことから、又兵衛は小倉で活躍するようになったわけです。


高田又兵衛(1590-1671)
その又兵衛の名を世に知らしめたのが、寛永14年・西暦1637年に起きた島原の乱です。
島原半島から天草諸島にかけて蜂起した一揆軍は、原城に立て籠もって頑強に抵抗しました。


原城跡
又兵衛はこのとき、小倉城の槍の遣い手を率い、自ら陣頭指揮。


島原の乱
本丸攻めで功績を挙げ、幕府軍の総司令官であった松平信綱から褒賞を受け取るという栄誉に浴しています。
小笠原家との関わり、島原の乱での活躍。
又兵衛の歩みは、宮本武蔵と大きく重なる点があります。
そして、又兵衛と武蔵が戦った、という言い伝えが残されているのです。

島原の乱での二人の活躍が伝わり、武蔵の剣、又兵衛の槍、いったいどちらが強いのかという興味が小倉の民衆の中に広がっていきます。
それを知った藩主・小笠原忠眞は城下で二人に試合をさせたというのです。
生往寺住職・安永宏史さん
試合でありますから武蔵は木刀。又兵衛は竹の槍で試合。三試合したと言われています。
二試合は、なかなか勝負がつかなかった。
三試合目に、又兵衛の槍が武蔵の股間を貫いた。この時に武蔵は「参った」といい、又兵衛も「いやいや、私が参った。槍は長い故、私に利がありながら、二試合勝てなかったのは私の負けである」
そこで、忠眞は大変感銘されまして、技量だけではなく器も大変すばらしい、と言ったという逸話話もあります。
さらに又兵衛は、慶安4年・西暦1651年、三代将軍・家光の前でその技を披露しています。
その技をみた家光は絶賛。「槍の又兵衛」の名は全国に広がっていったのです。

高田又兵衛の槍術の流れを汲む「宝蔵院流槍術興福寺奉納演武会」
生往寺住職・安永宏史さん
槍といいますと、先がとがった、長い槍を想像いたしますが、
又兵衛がいつも遣っていた槍は、大変特徴のあるもので「十文字槍」といいまして、穂先が十字になっています。


十文字槍


宝蔵院流十文字鎌槍
 奈良宝蔵院流槍術保存会
寛文11年、82歳で生涯を終えた高田又兵衛。
宗伯(そうはく)という戒名は、仏道にもいそしんだ彼が、生前から得ていたものです。
生往寺住職・安永宏史さん
肖像画をみますと、お数珠を持っておられます。
たいへん仏道精進したという記録もありますし、禅宗のお坊さんについて、禅も極めた。仏道修行もたいへんなさった方である、と私は受け止めております。
藩主・小笠原家を祀った神社の境内にある、小倉藩の武道家を讃える碑文は、最後にこう結んでいます。


小笠原神社(福岡県豊津町)

宗伯之槍、武蔵之剣
槍の又兵衛の名前は武蔵と並び称されるほどに輝きを放っていたのです。


雙推之碑(そうすいのひ)
協力
 生往寺
 小笠原神社
 奈良宝蔵院流槍術保存会

2005.07.04
2005.07.03