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武蔵と対決した三人の武芸者
宝蔵院流高田派槍術 高田又兵衛
松原英世(郷土歴史家)
武蔵とは生涯の友だった高田又兵術。武蔵と仕合いで互角に立ち会ったという、その槍術は全国に名をとどろかせ、将軍家光から上覧の仰せがあったほど。そして現在でも高田派槍術として伝承されている。 |
『槍の又兵衛』として名を馳せた高田又兵衛(高田家蔵)
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友情の短剣
いつの日か高田又兵衛吉次(よしつぐ)は、宮本武蔵から一振りの短剣を贈られたという。
宮本武蔵は父新免無二斎の血を引き、武技に富む幼少時代を過ごした。武蔵は武芸者によくある奇行、奇癖の性格があり、また各地遍歴を重ねた人であったのだが、又兵衛とは何処で知己を得たのであろうか。
武蔵は美作または播磨の生まれといい、養子伊織が寛永3年(1626)、播磨国明石藩主小笠原忠真(ただざね)の小姓として仕官し、寵遇された。小倉移封後は四千石の重臣に立身しているので、この縁で武蔵も明石藩に出入りしていた。禄四百石で明石藩に仕官していた又兵衛との出会いである。
又兵衛は宝蔵院流槍術を学んで、すでに高田派を起こし、馬術でも名を成していた。双方とも剣槍に生きる者としてよく承知した中であり、六つ年上の武蔵からは又兵衛も学ぶところが多かったと考えられる。
武蔵は六十余の試合をしたといい、その多くは決闘であった。吉岡一門、夢想権之助、巌流島における佐々木小次郎との決闘など広く知られているところであるが、30歳以後は他流との手合わせを慎み、もっぱら剣法の理論を確立しようとつとめていたときであり、又兵衝との出会いはその30歳をすでに過ぎていた。
又兵衛の父は、戦国時代の歴戦の勇士(『武将感状記』)であるが、天正18年(1590)生まれの又兵衛にとってはもはや戦乱は遠のき、武芸者は世に溢れ、武技を磨き天下に名を成そうとする時代であった。
又兵衛は求めて試合をすることを好まず、実戦としては大坂冬・夏の陣に加わり、島原の乱で勲功をたてた程度である。
又兵衝は決して上に媚びることなく、いかなる場合も臆せず豪放磊落(ごうほうらいらく)の人であつた。
武蔵とはただ一度仕合いをしたことがある。
寛永9年、小笠原忠真が豊前小倉へ転封のとき、武蔵、伊織、又兵衝ともども同行しているので、小倉でのことである。
小笠原忠真が武蔵、又兵衝の両名を呼び寄せて仕合いをするよう命じた。一度は拝辞したが忠真はあきらめず、やむなく又兵衛は竹製の十文字槍、武蔵は木刀を手にして立ち合う。この頃の武蔵は二刀を遣わず一刀であった。
中段に構える武蔵に向かって又兵衛の槍が鋭く突き出された。二度目まで躱したものの、第三の突きがやや流れるようになり、武蔵の股間へ入ってしまう。武蔵は即座に、「さすが又兵衛殿、それがしの負けでござる」
それをさえぎるように又兵衛が、「本日は御前ゆえ、それがしに勝ちを譲ってくださったのであろう」と謙遜する。
一説には、この仕合いは一進一退、形勢いずれが有利かと見る間に、突然又兵衝が槍を投げ出して「参った」 という。不審顔の藩主忠真に対し、「槍は長く、剣は短い。長いものに七分の利があるにもかかわらず三合しても勝てなかった。したがって長い得物(えもの)を持って戦った私の負けでございます」
と説明。忠真は両者の技量に大いに満足したという。
又兵衛は生来人格高潔で、禅道の名僧即非、陰元、法雲などとも親交が深く、崇伯と号して82歳の生涯を閉じるまでの数奇な運命と屈することのない努力は、武蔵の「祐木鳴鴇図」を見ているとき又兵衛が思い出されるような気になるのが不思議でならない。
追記すると、武蔵が又兵衛に贈ったという由緒のある短剣は、その後、郷里の津藩伊賀上野城に仕官した長男高田斎(いつき)吉深が、父が師宝蔵院覚禅房胤栄より譲られた宝物とともに持ち帰った。代々伝えて明治に至り、その後も役宅にあったが、当主が旧満州にあった太平洋戦争末期に家屋の一部倒壊により所在不明となった。もしこれを近くの生家に預けていたならば、無事今日に伝存されているだろうと思うと悔やまれてならない。
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故郷の白樫にある又兵衛の供養塔
高田又兵衛の墓(北九州市小倉北区・生往寺)
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又兵衝の槍が見たい
慶安4年(1651)3月、三代将軍家光公御不快との噂が国中に伝わり、沈痛の面持が広がりつつあった。同月23日、江戸からの早打使が小倉藩主小笠原忠真のもとを訪れ、久世大和守(後の老中)より、「『又兵衛の槍が見たい』との家光公上覧の旨仰せあり。早急に…」という内容の書状が届けられた。
さっそく又兵衛は長男高田斎吉深、門弟觀興寺七兵衛正吉とともに、25日小倉を出船。4月8日江戸参着。同11日に登城し、御切縁において3人ともに独礼。又兵衛奏者は牧野佐渡守、斎奏者は久世大和守、七兵衛奏者は牧野佐渡守とそれぞれの拝礼が相済み、いよいよ槍術の使い方の上覧となった。
酒井讃岐守、掘田加賀守、松平伊豆守、阿部豊後守、阿部対馬守、中根壱岐守ら大老、老中列座の前でそれぞれ次第にもとづき石槍の技、巴の槍と称する妙技を披露する。
その《爽気魂天を突く勢いに松平伊豆守「上棟には病状褥(びようじょく)にあらせられるぞ。静かに技を繰るように」と諭したが、又兵衛、技を演ずるにおよんでは疾風雷の如く、声、殿中に震う。一同その技の精妙敏捷に感激、家光公も病を忘れ「槍者又兵衛なる哉。予かねて聞き及ぶが吉次の多勢に応ずる其の虚旺変化、諸葛武侯の八陣の法の如し。今果たして信なり」としばし賞揚してやまず》と上覧の模様が記録として残されている。
4月15日、又兵衛ら3名は登城を仰せ付けられ、松平伊豆守より遠路罷越し(まかりこし)をねぎらわれ、御前における兵術を首尾よく相勤めた礼と御病中の上棟の御機嫌ことのほかうるわしいと鄭重な仰せ渡しを被(こうむ)り、なおかつ小笠原侯へも御気配りの言葉などがあり、そのうえ「十文字鑓家の名聞に相伝えよ」と陪臣には異例ともいえる沙汰があり、
御紋付御袷 三 高田又兵衛吉次へ
御紋付御袷 二 高田斎吉深へ
御紋付御袷 二 觀興寺七兵衛正吉へ
それぞれ賜る。
この上覧によって宝蔵院流高田派槍術と「槍の又兵衛」の名声が全国津々浦々にとどろくこととなった。
江戸を辞して、5月1日小倉へ帰着予定の船上にある一行に4月20日、公方様御他界の報は届かず、次第に江戸を離れて行くのみであった。
武道奨励に積極的な家光は上覧に満足して旅立ったと思われるが、病床にまでわざわざ九州小倉から呼び寄せるとは、まことに大胆なことである。遠く離れていても又兵衛はよほど印象深い人物であったのであろう。
黍忠公指南役の小野派一刀流、家光公指南役の柳生新陰流をはじめ、寛永の上覧試合にみられるように江戸には武芸者がひしめいていたであろうに。しかしすでに武蔵はこの世になかった。
高田流槍術の今昔
又兵衛は伊賀国白樫(しらかし)(現、三重県上野市白樫)に生まれ、幼い時から武技を好み、わが家の裏山にある砦や源頼朝ゆかりの岡八幡宮の大木を相手に技を磨き、満12歳のとき奈良興福寺宝蔵院覚禅房胤栄の門を叩き、宝蔵院流槍術を学ぶ。彼の槍は異常の進歩を示して14歳になつた慶長8年(1603)印可を許されるまでになった。
18歳になった慶長12年正月、病篤い師の枕元に侍して、秘蔵の兵器、秘伝書、神宝などことごとく譲渡され、師弟永別の日を迎えた。
以来、諸国を歴遊、ここではじめて高田流槍術を完成させた。それは宝蔵院胤栄の法形百一本の打ち方に、太刀は柳生流、長刀(薙刀)は穴沢流、真槍(しんそう)は五坪流を融合してできたものとしている。
江戸へ出て道場を開いたが、名声たちまち高く、門人四千人とも称されるところとなり、当然のごとく旗本にとの誘いも強かったが、大坂残党の詮議峻別な折柄でもあったためこれを断り、久世家一統の斡旋で小笠原家に仕官することになった。これが二天一流の剣豪宮本武蔵との親交のはじまりで、ともに小倉に転封後も同様、生涯の友であった。
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高田又兵衛の生家・高田家(三重県上野市)
高田家裏山の砦跡で又兵衛が生まれた
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高田流槍術の里帰り
平成14年3月17日、小倉城築城四百年記念事業として「高田又兵衛、宮本武蔵二十一世紀の流派の再会」と銘打った演武が行われたことは嬉しい限りである。
昭和50年頃、元最高裁判所長官・石田和外先生一行が高田又兵衛生誕の地として高田家(又兵衛の祖父七右衛門吉惟〈本姓土岐〉が白樫に築いた砦<一名高田山という>の一角にある)を訪問されたことがあるが、この人が高田派槍術を今に伝える第十八代宗家とは誰も知らなかっただろう。
又兵衛が小倉にあった頃、森平政綱らの高弟三名が江戸に出て、その槍法を広めたので大きく世に顕(あらわ)れるに至り、幕末の講武所時代には多くの師範がいたという。しかし明治・大正期の大家山里忠徳先生が大正7年(1918)暮れ、第一高等学校撃剣部にその槍合せの型五十本を伝授し、矢野一郎、横田正俊の両先生や石田和外先生がこれを伝習して、昭和51年に石田先生より表裏新任掛三十五本を西川源内先生に伝授されて、発祥の地祭良に里帰りすることとなり、生家第十一代当主高田治氏立ち合いの中で鍵田忠兵衛二十代宗家へ継承されている。
この鎌槍は突くだけでなく、巻き落とす、切り落とす、摺り込む、叩き落とすなど立体的、平面的に使用され、当時としては画期的な武器であった。
東京、京都での古武道大会への出演や輿福寺、春日若宮「おんまつり」、厳島神社などへの奉納演武、遠くはフランス、スペイン、カナダなど出演範囲も広く、前述の又兵衛修行の森のある岡八幡宮での雪中奉納演武でも多くの人々の目に触れ、記憶されている。
奈良、名古屋の道場においても将来に長く伝承しようと汗しているところである。 |
幼少時代の又兵衛の修行地・岡八幡宮(上野市) |