宝蔵院流槍術

宝蔵院流槍術
  宝蔵院流高田派槍術 第二十世宗家 鍵田忠兵衛

目次
1 宝蔵院流槍術と私 2 槍と矛 3 槍の種類 4 中世の興福寺 5 宝蔵院覚禅房法印胤栄 6 柳生と宝蔵院
7 武蔵と宝蔵院  8 宝蔵院流槍術の系譜 9 宝蔵院流槍術 奈良への里帰り 10 宝蔵院流槍術の技術 11 宝蔵院流槍術と川路聖謨 12 宝蔵院流高田派槍術の遺跡

12 宝蔵院流槍術の遺跡

タウン誌「うぶすな」 2009.12月号 掲載


宝蔵院流槍術顕彰碑
(奈良国立博物館本館西側)

 先号で述べましたように、宝蔵院は幕末まで存在し槍術指導が行われていました。しかし、明治初年の廃仏毀釈によって上屋は取り壊され、敷地は収公されました。この際、宝蔵院道場や資料も総て散逸されたのでした。全く惜しいことです。宝蔵院流ゆかりの遺跡は数少ないですが以下にご紹介します。

宝蔵院跡・顕彰碑
 武道においては有名な宝蔵院ですがその所在を知る人が少なく、たいへん残念に思っておりました。そこで、顕彰碑の建立を市民に呼びかけて寄付を募り、多川俊映興福寺貫首様に「興福寺宝蔵院跡 宝蔵院流鎌槍発祥之地」とご揮毫いただいた顕彰碑を跡地である奈良国立博物館本館西側に平成14年12月16日に建立しました。   

宝蔵院墓地
 流祖・胤栄、二世・胤舜等、宝蔵院歴代が眠る宝蔵院墓地は、奈良市白毫寺町にあります。槍術伝習生は、時節毎の掃除と墓参を欠かさず、また流祖ご命日の8月26日には興福寺様、奈良宝蔵院流槍術保存会役員と揃ってのご供養を毎年続けさせていただいています。しかし、経年による風化や樹の根によって墓石が傾き、座視できぬ状態になってまいりました。
 折しも、胤栄師没後400年の節目の年を迎え、記念事業のひとつとして宝蔵院槍術一門の墓所を整備させて頂きました。整備資金は広く市民に呼びかけご寄付を募り、お陰をもちまして、胤栄師400年目のご命日である平成19年8月26日に興福寺様ご導師による新造墓所開眼供養を挙行させていただきました。

摩利支天石(まりしてんせき)
 流祖・胤栄は、宝蔵院にあった大きな石に摩利支天を祀って稽古に励み、この槍術を成就したと伝えられています。摩利支天とは梵語Marici(陽炎・かげろう)を神格化した女神で護身・勝利を司り、日本では古来より武士の守護神として尊崇されていました。摩利支天石は、幕末までは宝蔵院内で祀られていましたが、明治初年の廃仏毀釈によって廃墟と化した宝蔵院跡地に取り残されてしまいました。奈良市高畑菩提町・石崎直司氏の曾祖父で漢方医であった勝蔵氏は、これを残念に思い明治20年に自宅に移して供養し、且つ医業の守り神にと発願され、以来石崎家では「お石さま」とお呼びし、大切にお祀りされました。
 こうしてお守りされてきた摩利支天石ではありましたが、ご寄贈の打診をいたしましたところご了解をいただきました。移転先については宝蔵院ご縁の興福寺様も快くお引き受けくださり、平成11年5月31日、摩利支天石は多川俊映興福寺貫首様のご供養の後、興福寺三重塔前にご遷座いただきました。 

金房辻(かなんぼうつじ)
 奈良には古くから刀鍛冶が興り、大和五流と称する千手院(せんじゅいん)、手掻(てがい)、保昌(ほうしょう)、尻懸(しっかけ)、當麻(たえま)が著名です。さらに室町時代末期には金房(かねふさ)一派が活躍しました。この派は刀以外に槍を手掛け、宝蔵院に近い関係からか多くの十文字槍を残しております。刀工には正実、政次、政景、正真、正長、政定、政助、政重、正清などを輩出しております。政次の作には「南都子守住」との銘もあり、この一派は奈良市子守町辺りに屋敷を構えていたと伝えられております。奈良市史には「奈良市上三條町と本子守町との境に「金房辻」の旧名が伝えられ地元では『カナンボウツジ』と呼称している」とありますが、既に街路整備がなされ、詳しい位置は不明であるものの、現在の三条通りとやすらぎの道交差点の辺りと推察されます。

 以上が宝蔵院槍術ゆかりの遺跡として残されており、大切に保存するとともに、稽古を通じてこの槍術をしっかり後世に伝えてまいりたいと念じております。
 連載「宝蔵院流槍術」は本稿をもって終了いたします。一年間にわたってご愛読頂きありがとうございました。








2009.11.28