宝蔵院流槍術

宝蔵院流槍術
  宝蔵院流高田派槍術 第二十世宗家 鍵田忠兵衛

目次
1 宝蔵院流槍術と私 2 槍と矛 3 槍の種類 4 中世の興福寺 5 宝蔵院覚禅房法印胤栄 6 柳生と宝蔵院
7 武蔵と宝蔵院  8 宝蔵院流槍術の系譜 9 宝蔵院流槍術 奈良への里帰り 10 宝蔵院流槍術の技術 11 宝蔵院流槍術と川路聖謨 12 宝蔵院流高田派槍術の遺跡


4 中世の興福寺

タウン誌「うぶすな」 2009.4月号 掲載


 奈良・興福寺

 中世(平安時代後期から鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代まで頃)は、平安時代の王朝国家体制から、武家による支配に変化したことが特徴であり、また守護(しゅご)・地頭(じとう)など各地の実力者の台頭による荘園制度崩壊過程の時代であるということができます。
 また一方で、平安時代末期から、延暦寺、興福寺などの大寺社は僧兵を抱えて独自の武力を備えるようになりました。興福寺は春日大社の「神威(しんい)」をかざして洛中内裏に押し掛けて要求を行ない、それが通らない時は、神木を御所の門前に放置し、政治機能を停止させるなどの強訴(ごうそ)を度々行使しました。延暦寺と興福寺を合わせて「南都北嶺」(なんとほくれい)と称され、白河法皇も「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と、延暦寺の強訴を嘆くほどに恐れられていました。
 中世の興福寺は、大和一国の荘園のほとんどを領し、その経済力を背景に、最盛期には百を越す院家や坊舎があり、3000から5000人の僧がいたと伝えられています。そして院坊の多くは一乗院あるいは大乗院の配下に入っていました。私共の宝蔵院も興福寺子院の一つで大乗院系に属していました。
 平安時代には、大和国の国司(こくし)の権限は事実上興福寺に委任され、この権限を一乗院と大乗院が分掌していました。両院家が興福寺の頂点に立つことが出来たのは、興福寺が藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であったこと。さらに、藤原家に繋がる摂関家(せっかんけ:摂政(せっしょう)、関白(かんぱく)に任ぜられる家柄)の子弟が入室する院家であったからです。
 鎌倉時代に入って各地に地頭が、また、室町時代には守護が幕府によって配置されても、大和国は変わらず興福寺が支配していました。大和国は幕府の力が及ばない、全国にも例がない特異な地域でありました。それほどに興福寺の力が絶大であったということであります。
 こうして、興福寺は一乗院と大乗院が並び立ち、互いに覇を競い、時には協力しあって共闘し、衆徒(しゅと)と呼ばれる武装僧が大和国内の荘園やその領民を守るために活躍していたのです。こうした社会情勢が宝蔵院胤栄をして、鎌槍の利点に着目し独自の操作技術を発明確立し、興福寺寺内において流儀の創始に至らせたのではないかと思料します。
 一方で興福寺は、衆徒・神人(しんじん)とよばれる俗人を多数配下におき、広大な荘園からの利益によって人材と文化を育成して、経済・学問・工芸活動などが盛んとなり、文化芸術の発展に大きく寄与しました。能、
茶道、華道、醸造技術、武術など、今日、日本の伝統文化と呼ばれている多くは、この中世の奈良が源流であると申しても過言ではありません。
 奈良と言えば平城京、1300年前まで遡ってしまいますが、こうした中世の奈良文化についても、もっと光を当てねばならないのではないかと常々考えております。





200.9. 4. 9
200.9. 3.28