宝蔵院流槍術

宝蔵院流槍術
  宝蔵院流高田派槍術 第二十世宗家 鍵田忠兵衛

目次
1 宝蔵院流槍術と私 2 槍と矛 3 槍の種類 4 中世の興福寺 5 宝蔵院覚禅房法印胤栄 6 柳生と宝蔵院
7 武蔵と宝蔵院  8 宝蔵院流槍術の系譜 9 宝蔵院流槍術 奈良への里帰り 10 宝蔵院流槍術の技術 11 宝蔵院流槍術と川路聖謨 12 宝蔵院流高田派槍術の遺跡



9 宝蔵院流槍術 奈良への里帰り

タウン誌「うぶすな」 2009.9月号 掲載


石田和外先生と西川源内先生(手前)
昭和51年7月・奈良市中央武道場

 宝蔵院流槍術と鍵田家は不思議なご縁をいただいております。昭和33年(1958)、亡父忠三郎は、奈良の東山、高円山に日本で最初の有料道路を開設しました。その進入路として白毫寺墓地の横に新たな道路を敷設し、その道路わきに宝蔵院覚禅房胤栄師と一門の墓地を発見したのがご縁のはじまりでした。
 以来、父はこのお墓を守り大切にお祀りしておりました。ある夜、父の夢に紫の衣を着た僧が現れ、父に向かって無言で強い念を送ってきました。金縛りのように動けなくなった父は「エーイ」と大きな気合いで跳ね起き、目を覚ましました。丁度その日は胤栄師墓参の日で、今にも雨が降り出しそうな暗い墓前で拝んでいると、再びその僧が眼前に現れたため、この僧こそが宝蔵院胤栄師であると確信したのでした。父は、胤栄師が何かの使命を託するために夢に出現されたのではないかと考えておりました。
 そして昭和48年(1973)、父は奈良市長として市政の発展に心血をそそぎ、当時の自治体としては最大の四百畳敷きの奈良市中央武道場を建設しておりました。ここへ全日本剣道連盟会長(元最高裁判所長官)石田和外先生をお招きし、建設中の道場をご視察頂きました。槍の稽古も出来る広い規模に道場を建設しているとの説明に関心を示された石田先生は、父の案内で宝蔵院胤栄師墓前にお参りし、般若心経を捧げ終わった時「実は宝蔵院流高田派の型を少々たしなんでおります」と謙虚に申されたのです。石田先生こそが宝蔵院流槍術の継承者であったのです。驚いた父は昭和49年(1974)9月28日、奈良市中央武道場の竣工式においての模範演武をお願いし、石田和外先生により宝蔵院流高田派槍合せの型を、坂西太郎先生、山崎卓先生と共にご披露いただいたのです。
 あまりに立派な槍の演武に感銘を受けた父は、是非この槍を里帰りし奈良に伝えてほしい、奈良に返して下さいと懇願しました。その熱意を受けて、石田先生に快く応諾頂き、槍術指導のために東京に剣士を受け入れ、その後も度々先生にご来県頂き、熱心にご指導をいただきました。お陰をもって昭和51年(1976)2月、宝蔵院流高田派槍術第十八世石田和外先生より、剣道範土八段西川源内先生に対しての伝授式が、奈良市中央武道場において挙行されました。明治の廃仏毀釈で一度は奈良から廃絶した宝蔵院流槍術が百年ぶりによみがえり、再び発祥地奈良に根付き、槍術稽古をはじめることが出来たのです。 
 しかし、昭和54年(1979)5月、石田先生は惜しくも急逝されました。今思えば、あの時、石田先生が奈良へのお越しがなかったなら、父が胤栄師墓前への案内がなかったなら、宝蔵院流槍術は永久にこの世から消えていたところでした。歴史の幸運に感謝いたしております。
 そして、その後も私どもは奈良においてさらに研鑽に励み、平成3年(1991)6月に西川源内先生より第二十世宗家を小生が継承させて頂き今日に至っております。
 

昭和52年1月NHK放映「よみがえった宝蔵院の槍」








2009. 8.29