武道の源流を訪ねて− 
古流武術研究家 横瀬知行

第33回 宝蔵院流高田派槍術 一箭順三
月刊「武道」 (発行:日本武道館)2014.11月号 掲載

一箭順三(いちや・じゅんぞう)
 昭和24年、奈良県出身。46年、剣道の習心館道場に入門。
 51年、宝蔵院流槍術入門。十八世石田和外(いしだ かずと)の槍術修得稽古会に参加。
 平成3年、十九世西川源内(にしかわ げんない)より免許皆伝。 24年、第二十一世を継承


 宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)は、南都興福寺宝蔵院の覚禅房胤栄(かくぜんぼういんえい)によって考案されたと伝えられる。天文(てんぶん)22年(1553)、戦国時代の只中であり、新陰流の上泉伊勢守に師事して独自の工夫を加え、十文字鎌槍を大成した。同流は江戸期に多くの藩で採用され、我が国槍術の代表的な流派として隆盛した。また、銃剣道の技術にも影響を与えたといわれている。
 今回は宝蔵院流高田派槍術第二十一世、一箭順三宗家を、奈良市中央武道場に訪ねた。

◆師に惚れ込み宝蔵院流を学ぶ

 宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)は、現在、奈良市中央武道場を中心に稽古が行われている。四百畳敷きの広大な道場は、槍術を十分に稽古できる広さを念頭に建設された。発案は当時の奈良市長、鍵田忠三郎(かぎた ちゅうざぶろう)氏。宝蔵院流槍術二十世、鍵田忠兵衛(ちゅうべえ)前宗家の厳父である。忠三郎氏は自宅に習心館(しゅうしんかん)道場を設け、剣道と禅の修行を通じて青少年の育成に取り組まれていた。そこに入門したのが、一箭順三(いちや じゅんぞう)現宗家であった。「それまで武道はもちろん、運動をやったことはありません。奈良県に奉職し、剣道をやれば身体を鍛えられるかもしれないという思いで、職場に近い習心館道場に入門しました」
 当時の道場は、夜に剣道を稽古し、朝は坐禅が行われた。一箭宗家は9キロを歩いて道場に通い、そのまま出勤した。
 「道場へ行くと、忠三郎先生がもう禅を組んでいます。私が歩いて来たことを知ると、『修行者は下駄を履いて修行するものだ』とご助言をいただき、参禅の後に木刀の素振りをしていると、『素振りは千回やるものだ』とまたご助言をいただきました。それからは下駄を履いて道場に通い、千日坐禅行を達成、素振りも少しずつ回数を増やして、最後は太い素振り用木刀で千回振れるようになりました」
 忠三郎氏は常々、「自分に厳しくできる入は、人に優しくなれる。そして市民のために働く」と語っていたという。厳しくも温かい指導を受け、一箭宗家は修行を重ねていった。「人生の最期まで忠三郎先生に従っていきたい。そう思って道場に通いました。宝蔵院流槍術に入門したのも、忠三郎先生が思いを込め、奈良に根付かせようとしていた古武道だからです」
◆百年後に流儀を伝承するために
 宝蔵院流槍術の技術は、腰を低く落として槍を構え、十文字の鎌槍を活かして攻撃をいなし、制する技法が多い。攻撃に転じても、籠手(こて)を攻めて命を奪うことなく相手を制する技を伝える。”活人剣(かつにんけん)”を伝えた上泉伊勢守(かみいずみ いせのかみ)の術理は、新陰流と同じく宝蔵院流にも伝わっている。
 「腰を低く落とし、腰で槍を使う。最初は大変ですが、稽古を続ければ身体が慣れていきます。双方の槍が一つに繋(つな)がるような槍合わせの稽古が大事です。今でも何か閃(ひらめ)きというか、新しい発見があります」
 古流の稽古を、一箭宗家はそう語る。
 今、懸念されているのは、稽古に使う槍の確保。材料となる樫(かし)が減っている。そのため葉長樫(はなががし)ドングリを集め育てている。流儀を次代へ繋ぐため、植樹活動を真剣に行っている。

2014.11.27