免許皆伝!! 富山藩の師範たち
富山市郷土博物館 企画展 「免許皆伝!! 富山藩の師範たち」 |
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江戸時代の武士たちが身につけた武芸には、剣術のほかに槍術・弓術などがあります。ただし、同じ武芸のなかにも多くの流派があり、それぞれ技や型は異なりました。武士たちは、各流派の武芸師範のもとに弟子入りして稽古に励み、免許皆伝を目指したのです。 全国の諸藩では武芸の振興に力を入れましたが、富山藩においても様々な武芸流派が採用されていました。しかし、どのように師範から弟子へと伝承されていたのかなど、具体的なことはあまり知られていません。 本展では宝蔵院流槍術師範の篠田家、吉田流弓術師範の吉田家の事例が紹介されました。 |
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日時 平成23(2011)年4月23日(土)〜6月26日(日) 9:00〜17:00 休館:5月9日 会場 富山市郷土博物館 富山市本丸1−62 電話076-432-7911 入館 一般:200円・小中学生:100円 |
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篠田家(しのだけ) 富山藩槍術師範 富山藩の槍術師範を歴代勤めたのは、篠田家です。初代信時(のぶとき)は、長尾(ながお)資治(すけはる)・資正(すけまさ)から免許皆伝を受けた、宝蔵院流槍術の達人でした。 はじめ仕えていた秋田藩を離れて浪人となった信時は、江戸で道場を開いています。その実力に目をつけたのが富山藩第五代藩主前田利幸(としゆき)で、宝暦(ほうれき)6(1756)年に召し出して、藩の槍術指南役に任じたのです。 二代信凭(のぶより)は、七代藩主利久(としひさ)、八代藩主利謙(としのり)の槍術稽古の師範役に抜擢されています。 以降、幕末に至るまで、篠田家が藩士への槍j術指導を担ったのです。 一方、富山藩士となった後も、江戸の篠田家道場には、幕臣から大名まで、多くの門人が集まりました。 |
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篠田家系図 1信時 − 2信凭 − 3信成 − 4信順 − 5信徳 − 6信直 |
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宝蔵院流槍術指南免許状 寛保元年(1741) 長尾資正が、富山篠田家初代となる篠田信時に与えた免許状です。 内容は、教えを受けて目録伝授を終えたことにより、今後は弟子に対して指南してもよいという、指南免許状になっています。一方で、真実の志がない者に伝授してはならないとも戒めています。 この免許状をもらうことによって、独立して道場を開き弟子をもつことが許されたのです。 |
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伝授 秘技を伝える作法 師範は、教授した弟子の上達度に応じて、秘伝書を与えていきました。秘伝書は大きく伝書と目録に大別できます。 伝書は理論中心のものであり、目録は術名や修行上の心得を箇条書にしたもので、いずれも具体的な中身は口頭で伝えられる場合が少なくありません。 一方、弟子は入門時や伝授を受ける際、約束を破れば天罰を受けることを神仏に誓う起請文(きしょうもん)を提出しました。秘技の門外不出を徹底するために、口伝や起請文の提出が重要視されたのです。 そして、すべての秘伝を修め、指南免許状を授与されることによって、晴れて免許皆伝となったのです。しかし、免許皆伝を許されたのは、卓越した技量を誇るごく少数の門人に限られました。 |
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富山門人順列帳 天保15年(1844) 天保15年当時の富山門人について、五代信徳がまとめた名簿です。 下段に門人名、上段には入門日や伝授日などが書き込まれています。末尾には「〆弐百五拾八人」とありますが、本資料は、初伝以上の門人が記載対象となっており、未伝授者は人数に入っていません。したがって、実際には、この数字よりもさらに多くの弟子がいたと思われます。 記載された門人をみると、家老クラスの子息もいます。宝蔵院流槍術は藩公認の流派であり、その習得が藩士に推奨されていたからでしょう。 〔富山市郷土博物館蔵〕 |
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篠田家門人にみる免許皆伝への道 篠田家の門人には、入門してから免許皆伝に至るまで、@丸紫、A三本丸砦、B歌目録、C本目録、D免許皆伝、という五段階がありました。四種類の伝書・目録を順番に修めていき、最後に指南免許状を与えられ、免許皆伝となったのです。 「富山門人順列帳」によれば、人数分布は下図のようなピラミツド形になります。上位ほど、伝授者の数が限られていき、免許皆伝はわずか14名にすぎません。 |
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宝蔵院流十文字鎌槍 江戸時代 全長は295センチにおよぶ、槍先の身が十文字となっている鎌槍です。篠田家に伝来したもので、身や石突の形、また金具・鏑巻などの配置が、宝蔵院流の典型を示しています。また、現存する鎌槍の鏑巻部分は、藁で巻かれているものが大半ですが、本資料は伝えどおりの平籐巻となっています。今日に伝わる宝蔵院流槍術の槍として、ほぼ完全な形のものといえます。 〔富山市郷土博物館蔵〕 |
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篠田信直家督相続許可状 嘉永元年(1848) 富山藩が出した、家督相続の許可状です。篠田鑛之助(信直)は、兄多門(信徳)の隠居をうけ、六代当主となりました。 注目されるのは、「鑓(槍)術に相励むべし」と明記されていることです。歴代当主に出された相続許可状をみると「家業に相励むべし」という文言もみえます。つまり、篠田家にとって槍術とは家業そのものだったのです。そのため、藩士としての勤めだけでなく、自身の修養、さらには家中への教授が強く求められていました。 〔富山市郷土博物館蔵〕 |
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宝蔵院流槍術とは 宝蔵院流は、奈良興福寺子院の一つであった宝蔵院の僧・覚禅房胤栄(1521〜1607)が創始した槍術流派です。 その最大の特徴は、十文字槍を用いることにあります。胤栄は、興福寺近くの猿沢池に浮かぶ三日月を突き、鎌槍の技を編み出したと伝えられます。鎌槍は、突くだけでなく、巻き落とす、切り落とす、打ち落とす、摺りこむ、叩き落すなど、立体的かつ平面的に使用できます。「突けば槍 薙げば薙刀 引けば鎌とにもかくにも外れあらまし」という歌も詠まれるほど、当時としては画期的な武具だったのです。 摩利支天石 宝蔵院流槍術の開祖・胤栄は、宝蔵院の庭の大石に摩利支天を祀り、武道の上達を祈願して日々の稽古に励んだのです。 (奈良県奈良市) |
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まとめ 家業−代々受け継ぐべき技芸 ここまで、武芸師範としての篠田家・吉田家について紹介してきましたが、そもそも武芸とは、彼らにとって何だったのでしょうか。 それは、先祖より代々受け継がれ、また子々孫々へ伝えるべき技芸といえます。当時の言葉では「家業」と呼ばれました。したがって、藩主による武芸御覧(ごらん)の儀式などでは、彼らは師範の家として尊重され、重要な役目を務めています。また、家督相続に際しては、家業精進するように命じられました。 一方、彼ら師範たちは富山藩士でもあり、他の藩士と同様与えられた禄高と役職に応じた勤めを果たしています。それと同時に、家業である武芸を極めることにも心血を注ぎ、「武芸の家」として藩内に確固たる地位を築いていったのです。 |
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現代(いま)も受け継がれる宝蔵院流の技 宝蔵院を拠点とした同流は、やがて江戸時代最大の槍術流派に成長しました。しかし、宝蔵院の建物や道場は、明治時代の廃仏毀釈により取り壊されてしまいました。境内地も接収され、帝国奈良博物館(現奈良国立博物館)の敷地となったのです。当時の姿を偲ぶものとしては、わずかに井戸跡を残すのみとなっていましたが、近年、宝蔵院流槍術発祥の地を示す顕彰碑が、跡地に建立されました。 一方、宝蔵院流槍術は、現在も脈々と受け継がれ、興福寺奉納演武などの場で、その伝統の技が披露されています。 |
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ブログ ぷらぷら 2011. 4.19 地域情報発信局 2011. 4.28 趣多馬激走 2011. 5.27 |
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2011. 6.14