会津藩宝蔵院流高田派槍術師範:野矢常方
と関係の人たち

平成25(2013.)年2月2日
宝蔵院流高田派槍術 免許皆伝 粕井隆 編



野矢常方

会津藩宝蔵院流高田派槍術師範
享保2(1802)年〜慶応4(1868)年
 野矢常方は、会津若松城下の水主(かこ)町に生まれる。通称与八、号は涼斎・蓼園・蜉蝣翁。叔父の志賀与三兵衛重方(藩校日新館槍術師範)に宝蔵院流高田派の槍術、国学者澤田名垂(なたり)に国学・和歌を学び、文武両道に達した士。
 二十代の頃、「熊の如き」偉丈夫に育ち、重方に従って、黒河内伝五郎や町田伝蔵らと共に西国諸藩に槍術武者修行に出向く。このとき、久留米藩との槍術試合で会津勢全勝の逸話を残している。重方の死後、日新館の槍術師範を務める。
 和歌では、名垂の跡を継いで会津藩和学所の師範となり、藩主松平容敬・容保公に侍詠している。「君がため 散れと教えて 己まず 嵐にむかう 桜井の里」という楠木正成・正行父子の桜井の別れの故事を詠んだ和歌は、戦前には「修身」の教科書に掲載され、常方の名が全国に広まった。他に、「月清み うかれて宿は 出でしかど 思えばさして 行く方もなし」「鳴けやなけ 山ほととぎす たちばなの かをる夜ごろは 誰か五月なる」の和歌が有名。「十三番歌合」「鶴城三十三番扇合」の判者を務めるなど名実ともに当時の和歌界の第一人者であった。
 著書に『山路の苞』『蓼園集』がある。後に和歌の弟子達が遺詠集『蓼の落ち穂』をまとめている。諏方神社境内に歌碑が建立されている。
 会津戦争時は67歳という高齢のため玄武隊(50歳以上の老人武士で編成され正規隊)に属する事ができず、藩と主君への報恩のために自ら参戦した。まず近辺の民の避難を促し、家人の女・子供を退避させ、自宅近くの桂林寺町口の郭門にて、敵軍を迎え撃った。門を守るために配置された会津兵は旧式銃の小人数、敵軍は新式銃で装備された大軍勢。その場に一人踏み止まった常方は、敵軍前に槍一筋で立ちはだかり、忽ちに、敵兵一人を十文字槍で見事に串刺しにした直後に、銃弾により戦死した。銃弾を雨あられのように受けながら仁王の如く踏ん張り、まだまだ戦うぞという構えでの最後であったという。その槍の先には、辞世の歌「弓矢とる 身にこそ知らぬ 時ありて ちるを盛りの 山桜花」が結び付けられていた。
 戦後、長男良助や門人らが遺体を捜したが見つからなかった。墓は福島県会津若松市大運寺にある。菩提寺の墓には遺詠を納め、旧邸内の庭石を遥拝石とした。法名は「晧月院覺譽涼齋居士」

会津藩宝蔵院流高田派槍術師範 野矢常方 「短冊」

ブログ

 会津藩士 幕末人名辞典
 会津武士道 185頁
 戊辰の役/殉難者
 会津会会報 88号
 古今和歌収攬
 老人と少年 奮戦散華    2012. 3.11


志賀重方

会津藩宝蔵院流高田派槍術師範
 志賀与三兵衛重方は日新館槍術師範志賀与三兵衛重与の養子となり、文化元年(1804年)志賀家を継ぎ、宝蔵院流高田派槍術の師範となる。重方は文政年間に南都宝蔵院に修行に出向き槍術の奥義を磨いた。
 他流試合を盛んに行い、野矢常方、黒河内伝五郎、町田伝蔵ら弟子を連れての二度の西国武者修行に於いて、会津の槍の武威を天下に示した。


志賀重則

会津藩宝蔵院流高田派槍術師範
文化10(1813)年〜嘉永3(1850)年
 志賀小太郎重則は志賀三兵衛重方の子息に生まれる。
 野矢常方とは従兄弟同士。早くから槍術の妙技に達し、江戸では「鬼の小太郎」「夜叉の小太郎」と呼ばれ、天下第一の槍として、その名は天下に鳴り響いた。弘化3年(1846年)、33歳の時、藩校日新館の槍術師範に就いた。
 重則は、長州藩主毛利慶親公が会津藩主松平容敬公へ宛てた正式招聘を受けて、長州藩江戸藩邸で槍術を教授し、更に黒河内伝五郎義信、堀機三郎長世、原貢俊昌、松本友三郎辰治の四名を従えて萩に出向き、一年余り同地に滞在して藩士に稽古をつけた。帰藩時には、長州藩の嘱託を受けて、引き続いての指南を望む同藩士岡部半蔵ら4名を率いて会津に戻っている。長州藩家老村田清風は重則に、「名家槍法素天真 閃閃電光驚鬼神 海内周遊無匹敵 本田平八後身人」の漢詩を贈っている。(本田平八郎忠勝は徳川四天王、徳川十二神将に数えられた猛将。日本3名槍の一槍である「蜻蛉切り」を持槍とした。)重則は槍術だけでなく兵学にも優れ、将来を大いに嘱望されていたが、38歳で病没した。法名は「観國院名槍」。二人の子息は共に戊辰戦争で戦死している。
 嫡男英馬は父を継ぎ槍術師範役であったが、白河の戦いに於いて十文字槍を扱って群がる敵に突入し、数人を斃して壮烈なる最期を遂げた。時に年33歳。
 明治の元老山形有朋公と山里忠徳先生との槍術試合が史実に残っているが、有朋公は岡部半蔵の弟子であり重則の孫弟子に当る。


黒河内伝五郎

会津藩宝蔵院流高田派槍術印可
享保3(1803)年〜慶応4(1868)年
 黒河内伝五郎兼文は会津藩御側医師羽入義英の次男に生まれ、神夢想無樂流居合術の師黒河内兼博の養子に迎えられる。 養父兼博の後を継ぎ藩校日新館の居合術師範に就いた。「右手に箸を持って捧げ持ち、指を離した瞬間に居合によって箸を両断した達人」と伝えられている。
 宝蔵院高田派槍術では志賀重則の高弟であり、重則の西国武者修行、子息重則の長州萩での槍術指南に同行している。神夢想一刀流剣術、稲上心妙流柔術、白井流手棒手裏剣術、静流薙刀術、鎖鎌、吹針の武芸においても師範の域に達していた。嘉永5年(1852年)吉田松陰が会津を訪れた折には、日新館の案内役を務めている。
 和歌では澤田名垂の高弟であり、文武両道で野矢常方の弟弟子にあたる。会津戦争当時には、不幸にも眼病を患って失明しており、藩の足手まといになることを厭い、北越方面での戦いで重傷を負っていた次男百次郎義兼を介錯後、自刃した。その際、自らの首を敵に渡さないために、家来に井戸に投げるように命じたという。享年66歳。墓は阿弥陀寺。法名は「進義院剣巧尽忠居士」。伝五郎に代わり居合術師範を務めていた長男百太郎義次も翌日奮戦中に被弾により戦死している。


ブログ
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 會津藩 幕末最強の剣客 黒河内伝五郎

澤田名垂

会津藩和学所師範
野矢常方、黒河内伝五郎の和歌の師
安永4(1775)年〜弘化2(1845)年
 澤田名垂(なたり)は日新館師範安部井武に二条派の国学を学び、会津藩和学所師範を務める。日新館で藩士の教育と学制改革に傾注し、藩主松平容頌公の命により「日新館童子訓」編纂の中心的役割を果たす。
 主著は『為政雑考』『古字考』『家屋雑考』


会津藩、宝蔵院流槍術師範墓参、城下稽古会、鎮魂・慰霊演武の旅
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2013. 7.16