会津藩宝蔵院流高田派槍術師範
野矢常方 「短冊」




会津藩宝蔵院流高田派槍術師範 野矢常方
「短冊」の寄贈を受けました。


平成25(2013)年2月16日
寄贈者
宝蔵院流高田派槍術 免許皆伝 粕井隆

古里へ帰り
  ぬれば
國こそ隔つれ
こころはかわ
       らし

隔たれどこのやまと路とやまどりの
おはりにすめる月はかわらじ       常方





野矢常方
会津藩宝蔵院流高田派槍術師範
享保2(1802)年〜慶応4(1868)年

 野矢常方は、会津若松城下の水主(かこ)町に生まれる。通称与八、号は涼斎・蓼園・蜉蝣翁。叔父の志賀与三兵衛重方(藩校日新館槍術師範)に宝蔵院流高田派の槍術、国学者澤田名垂(なたり)に国学・和歌を学び、文武両道に達した士。
 二十代の頃、「熊の如き」偉丈夫に育ち、重方に従って、黒河内伝五郎や町田伝蔵らと共に西国諸藩に槍術武者修行に出向く。このとき、久留米藩との槍術試合で会津勢全勝の逸話を残している。重方の死後、日新館の槍術師範を務める。
 和歌では、名垂の跡を継いで会津藩和学所の師範となり、藩主松平容敬・容保公に侍詠している。「君がため 散れと教えて 己まず 嵐にむかう 桜井の里」という楠木正成・正行父子の桜井の別れの故事を詠んだ和歌は、戦前には「修身」の教科書に掲載され、常方の名が全国に広まった。他に、「月清み うかれて宿は 出でしかど 思えばさして 行く方もなし」「鳴けやなけ 山ほととぎす たちばなの かをる夜ごろは 誰か五月なる」の和歌が有名。「十三番歌合」「鶴城三十三番扇合」の判者を務めるなど名実ともに当時の和歌界の第一人者であった。
 著書に『山路の苞』『蓼園集』がある。後に和歌の弟子達が遺詠集『蓼の落ち穂』をまとめている。諏方神社境内に歌碑が建立されている。
 会津戦争時は67歳という高齢のため玄武隊(50歳以上の老人武士で編成され正規隊)に属する事ができず、藩と主君への報恩のために自ら参戦した。まず近辺の民の避難を促し、家人の女・子供を退避させ、自宅近くの桂林寺町口の郭門にて、敵軍を迎え撃った。門を守るために配置された会津兵は旧式銃の小人数、敵軍は新式銃で装備された大軍勢。その場に一人踏み止まった常方は、敵軍前に槍一筋で立ちはだかり、忽ちに、敵兵一人を十文字槍で見事に串刺しにした直後に、銃弾により戦死した。銃弾を雨あられのように受けながら仁王の如く踏ん張り、まだまだ戦うぞという構えでの最後であったという。その槍の先には、辞世の歌「弓矢とる 身にこそ知らぬ 時ありて ちるを盛りの 山桜花」が結び付けられていた。
 戦後、長男良助や門人らが遺体を捜したが見つからなかった。墓は福島県会津若松市大運寺にある。菩提寺の墓には遺詠を納め、旧邸内の庭石を遥拝石とした。法名は「晧月院覺譽涼齋居士」
(宝蔵院流高田派槍術 免許皆伝 粕井隆 編)



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