胤栄師400回忌墓参





宝蔵院流槍術
宝蔵院覚禅房胤栄師四百回忌の法要

月刊「武道」 2006年10月号

宝蔵院流高田派槍術
第二十世宗家
鍵田忠兵衛

 宝蔵院流槍術は、流祖宝蔵院覚禅房法印胤栄(かくぜんぼういんえい)師のご命日にあたる826日に四百回忌墓前法要を営んだ。



胤栄師


 胤栄師は大永元(1521)年、興福寺衆徒・中御門胤永の次子として生まれ、やがて興福寺に入寺し、次第に武術稽古において頭角を現した。ある日、寺にやってきた神道流の達人成田大膳大夫に長刀・槍の指南を受け槍術に奇妙のあることを発明。さらに、回国修行に奈良へ来た上泉伊勢守信綱師に柳生但馬守宗厳師と共に新陰流を学び、一層の槍修練に努め、ついに猿沢池に浮かぶ三日月を突き鎌(十文字)槍を工夫し、宝蔵院流槍術を創始したと伝えられている。そして日本最大の槍術流派の礎を築き、慶長12(1607)826日に87歳で遷化(せんげ)した。
 宝蔵院流槍術では、春秋の彼岸、お盆・年末、そしてご命日と、年5回の墓参を年中行事として定期的に挙行し、伝習者が参集して墓地清掃の後、法要を行っている。なかでも流祖ご命日を最も重要な法要と位置づけ、興福寺様はじめ、奈良宝蔵院流槍術保存会役員・会員及び伝習者が参列している。
 今年は四百回忌記念として、墓前法要を挙行し、山本圭造奈良市社会教育部長、八田吉徳奈良市武道振興会常務理事など保存会役員及び会員、宝蔵院流槍術伝習者を合わせ28名が参列した。
 森谷英俊興福寺執事長以下4名の興福寺様に御導師を頂き全員が般若心経を唱和し、胤栄師の墓前に焼香した。
 法要後、森谷執事長から「平素から伝習者皆さんの懸命な修行に感心をしている。胤栄師四百回忌法要を期にますます稽古精進され、奈良の大切な文化であるこの槍術をさらに後世に永く伝え嗣いで頂きたい」との激励の言葉を頂いた。
 宝蔵院墓地は興福寺からおよそ2q南東の高円山麓に位置し、初代胤栄、二代胤舜など宝蔵院流槍術歴代が眠る。この墓地は昭和33年に父・故鍵田忠三郎が発見し、以来毎月の墓参を欠かさず長年にわたり大切に祀ってきた。
 そんなある夜、紫衣の僧侶が父の枕元に立ち念を送ってきた。その時は誰であったか不明であったが、胤栄師墓参の読経中に再びその僧が現れ、胤栄師と確信。父は、胤栄師が何らかの使命を私に伝えるために夢に現れたと語っていた。
 これ以降、不思議なご縁が度重なり、東京において習い伝えておられた全日本剣道連盟会長・元最高裁判所長官、故石田和外先生の下に西川源内先生(剣道範士九段)や私が弟子入りすることとなった。こうして稽古が続けられ、遂に昭和51年に西川先生が19世を継承して、ようやく百年ぶりに奈良発祥の槍術が里帰りすることとなった。これは正しく胤栄師の霊の導き以外の何ものでもない。
 私共武道を習う者は懸命な稽古精進は勿論大切であるが、それと共に先師の霊を祀ることを忘れてはならない。宝蔵院流槍術では先師の祀りを行事化して伝習者に伝えている。霊もこうした伝習者を見守り、時には導いて下さるものと信じている。
 折しも、来年2007年は胤栄師没後四百年の記念の年を迎える。私共は、この節目の年に奈良発祥の日本を代表する槍術を創始した胤栄師を顕彰・追慕するとともに師の心と技をさらに後世に伝え広めるため、記念事業として宝蔵院一門の墓所整備やご縁武道各流派をお招きしての演武会を開催したいと考えている。






宝蔵院覚禅房胤栄師400回忌墓参法要(06.08.26)

2006.09.28