剣の道、処世の道、人生の道

剣の道、処世の道、人生の道

矢野一郎

 剣道は昨今急に盛んになって来たように思われますが、まことに結構なことだと存じます。
 終戦後の新らしい日本を見ていますと、何の分野でも、これからは丸裸になって世界の舞台で競走しなければならないことばかりであります。
 それが為には健全であって、そして優秀な日本人を作ることが一番基礎的な、大事なことになってまいります。
 先般のオリソピックを見てみましても、どうもまだ今の日本人には、もう一段心身の鍛練の必要があるのではないかと、いう風に感じられます。
 幸いなことに、我国には固有の国技として、古来日本人のバックポーンを作って来た剣道というものがあり、これは人間の心を作ることを目的としているものでありますので、この剣道を活用して行くことが大変良いのではないかと,考える次第であります。
 そこでこの三日問に亘りまして、先ず今日は剣の道について少しばかりお話をしてみたいと思います。そして明日は剣の道と世の中,世渡りの道を較べてみ,明後日は人生の道といいますか、人の生き方の道と剣の道とにどういう共通点があるかというようなことで,お話を進めたいと思います。
 剣道というものは他のスポーツと異なって、それ程体力を必要とするものではないのであります。
 従って体が大きいとか小さいとか,弱いとかいうことは余り関係がないまた年令にも関係がない。56才でも出来るし、7080になっても出来る。従って一生涯これを稽古し続けることも出来る、というような特徴があります。 そして、修業する目標というものが、体を作るということよりは寧ろ心を作ることに重点を置いております。
 そこで、業を練るとか、勝負をするとかいうことは、修業の方法、手段としては大事でありますが、飽くまでも手段であって、決して目約ではない。
 そういう性格を考えてみますと、剣道というものが、今日位広く、日本人を作るために有効に役立つ時はない、とも言えるかも知れないのであります。 そんな意味で、剣道は、我々日本人にとっては一番良い心身健康の薬ではないかと考えます。
 よく、剣道というものの効能はどういうところにあるのだ、というご質問を受けるのでありますが、私は、甚だおこがましいことですが,全然剣道というものをご承知ない方々の為に,自分勝手に考えて,次のようなお話をしております。
 どんな子供でも、剣道を習えば必ず体得する四つの善いものがある。
 その一つは、先ず礼儀が正しくなるということ。第二は物事に真正面からぶっつかって行く気力が養成されるということ。第三には、自然に落着きが出て来る。第四には咄嗟の場合の動きとか判断とかいうものが、非常に早くなって、臨機応変の処置が取れるようになってくる。
 この四つのことは、誰でも習いさえすれば自然に身について来るのであります。
 これを、私は、礼直静速という四つの字に表わして、お話しております。これを四徳と名づけて居ります。四つの徳、即ち、礼儀の礼。真直ぐにぶっつかって行くという意味で直。それから落着きを静。静かな心という意味であります。それから第四を敏速の速。すみやかという字で表わしました。そして、この礼直静速の四つの徳があるということをよくお話しているのであります。
 この四徳を身に付ければ,如何に激しい世の中にあっても、誰でも、落伍せずに生涯幸せに過せるだろうと、私は思っている次第であります。
 次ぎに剣道の稽古の方法所謂習い方は、どういうことであるかと申しますと、これに飽くまで体や心で体験して習ってゆくという、所謂昔の言葉で言う、行じて学ぶというやり方であります。何事であれ、それを知識だけで学ばないで、自分がこれを実行して学ぶことを「知行合一」というような言葉で表わして居りますが、昔から、行学一致、行じて学する、という言葉もある通り、要するに行ずる、即ち、実際に体で習ってゆく、ということが習い方の根本であります。
 初めは業の稽古、即ち体の稽古に専念して始めます。それから段々心の稽古に移って行って、老年になりますと主に心の稽古に専念出来るという風な、稽古の仕方をするものであります。
 従って、初歩のうちは,身体の鍛え方が9割、中年位になれば、体と心の稽古が55割、老年になれば、28割という風に、変り乍ら稽古をして行くということが出来るのです。
 そしてこの、「鍛える」ということの本当の意味は、「一生涯努力を続ける」ということであります。これが剣道の習い方の本質であります。
  そして、終局の目的は何であるかということになると、「物の実体を観る力を付ける」ということ、物事の実体を正しく観る力といいますか,観る心を作るということであります。
  特にそのうちで、自分の実体をはっきり観る力を付けるということが、一番むずかしい、一番奥の修業であります。
  そうなると「我」もないし、自惚れもない。自分のことも他人のことも全く同じように正しく観察出来る境地になる。剣道とはこの境地を求める修業なのだ、ということが言えるのであります。
 この境地のことを無我と言ったり、明鏡止水というような言葉で言ったり、或いは不動心といったり、色々な表現がありますが、皆同じものを指して居ります。
  ここに達した人を「達人」というのであって、こうなれば、物に見落しもない、見損いもないような境地になっているわけであります。
  昔から剣道の教えには、四戒とか四悪とか呼んでいる「驚懼疑惑(きょうくぎわく)」(おどろき、おそれ、うたがい、まどい)と言う言葉があって、これが四つの悪いもの、邪魔なものであるから、これを克服しろと、教えて居ります。これを征服しなければいけない。
  また、「止心」と言って心が意志や感情に捉われて止まることがあってはいけないということも教えて居ります。自惚れや欲のある間はどうしても上手になれなくて負けてばかりいる。
 叩かれて叩かれているうちに,何時の間にか自惚れも薄れて行くし,自分をも客観的に観ることが出来るようになって来る。そこで、「我」というものが消えてゆく。段々,曇りのない鏡のように磨き上げた静かな心というものに近づける。そういう心の中にのみ何ものにも制約されない無限の動というものが含まれて来る。
 そこで,「静中動」というような言葉もあるわけであります。そして,他力には侵されない「不動心」というようなものがそこに出来て来るのであります。
 結局,剣の心というものは,静かな曇りのない平常心を作る、ということであって,この点に於いて禅と剣とは全く同じものを求めているものでありまして,剣禅一致というような言葉が,昔からあるのは、その訳であります。 昨日は,剣の道,剣の心というようなことについてお話を申しあげました。
 今日は,処世の道といいますか,世渡りの道といいますか、世の中を渡る道と剣の道とが、どういう風に似ているか、又何が役に立つか,というような点で一つお話をしてみたいと思います。
 世の中を渡って行くには,勿論昨日お話を申しあげた四徳といいますか、四つの善い点、礼、直、静、速、というようなことが、日常大いに役立つことは申すまでもないのでありますが、更に、より深く進んだ剣道の教の中には、あらゆる世の中の営みの道にそのまま役立つことが無数にあると申しあげてよろしい。私共は、一生そういうことを勉強して行く訳でありますが、本日は時間の関係もございますから、特に、その中で何が一番役に立つか、何が一番共通しているか、ということを重点に考えて、一つだけ取りあげて見たいと思います。
 それは、私の考えでは、「正しい観察をする力を求める」ということだと思うのであります。
 物の実体を把む、ということであります。
 これが処世の道でも,一番大事なところだと思います。これが為には我を殺し、自惚れを去り、欲や感情を捨て、そして自分の心が明らかな鏡のように、綺麗で静かにならないと、仲々正しく物を見たり知ったりするということが出来ない。
 この力を、どうやって養うかということが一番大切なことであります。
 広く世の中にはすべての処に広義の「経営」というものがある、と私は考えております。
 経営というと,何か経営者とか何とかいう特殊な者が扱うもののように考える方もあるかも知れませんが、経営ということは「いとなみ」でありまして、国家にも、役所にも、学校にも、会社にも、商店にも、また一家にも経営は必ずあるのであります。
 すべて或る目的を立てて、これを成功させようとする場合には、そこに必ず一つの営みが出来る。これを成功させる為には、必ず正しい覿察というものが必要なのであります。そして、それに適応した的確な判断と、処置というもの、この三つが合わされないと決して経営は成功しないのであります。
 この点は全く剣の道と同じであります。
 従って、考え方に依れば、社会が道場であり、日常の百事は悉く稽古である、ということも言えるのであります。そう考えることは又非常に楽しいことで、お面を被らなくても、竹刀を握らなくても、充分社会の仕事、会社の仕事、一家の仕事をそのまま使って、剣の道を勉強が出来るのであります。
 それもこれも、若い頃から剣道を学んでおられる方は、容易にそこに入ることが出来るのであります。
 さて、この、正しく物を観る力を養うことについての、修業の心得がまた色々ありますが、その一つである「敬」という教えのことを一つ取り上げてお話してみます。
 敬とは「うやまう」という字であり、尊敬という字の敬であって、「敬の心」、「敬の一字」、などとも申します。
 有名な沢庵和尚が、柳生但馬守に剣道の極意を教えた不動智神明録の中にもこのことがありまして、「大悟徹底してしまえば、こういうことも考える必要はないのだが、大悟する前の修業の段階としては、啓ということを尊ばなけれりゃいかん」という意味のことを説かれております。
 相手を正しく観察する為には,相手を敬さなけれはいけない。侮ったり、馬鹿にしたりすれば、相手は少しもよく見えないものであります。ところが、相手を尊敬の念を以て観る、即ち、敬して観ればよく見えるものであります。 これは、何も剣道ばかりのことではないので、例えば、学問の道一つにしても、同じであります。
 一例をとってみれば、黴やバクテリアの中から貴重なものが発見されている、というようなことも、何だ黴か、というようなことで馬鹿にしておったらば出来ないこと。これを敬して接することから大きな研究が生れ、発見が出来るものだと考えます。
 そういうような意味で、一木一草と雖も、また一個の茶碗に対しても、すべてその存在を尊敬する。所謂敬して接する心掛けというものが、やはり処世の道であると思います。そして、これが明鏡心に近づく修業として非常に有効なものだと考えます。
 そこで、この敬ということも誰にとっても忘れてはならない良い教えだと思います。
 また、次に、世の中の成功失敗というようなことについて、一寸考えてみますと、すべて成功する秘訣は何であるかというと、物事の実体を正しく観、正しく知るということであります。そこでこれには敬という心掛けが非常に役に立つのであります。
 このことを裏から言えば、世の中の失敗というものはすべて見損ないであるか、見落しであるか、或は見過ごしであるかといえると思います。どうしてそういうことになるかというと、この原因はみんな、我が強い、自分の立場、自分の意志感情からばかり物を観るから見損う、自惚ればかりが強過ぎるというようなことであって、この我をなくなしてみると、段々はっきりと実体が見えて来る、というような点に於て剣の道も同じことだと思います。
 宮本武蔵の五輪之書の中にも、「見観(けんかん)二つのこと」といって戒めてあります。観の目、見の目というような言葉を使って、観の目で物を観るというのは、無我の心で観ること、見の目で観るということは、自分の色目で観るということと使いわけて居ります。
 世の中のことは、又、兎角他人と対決することが非常に多い。議論とか、或は競争とか、取引とかいうような点で、他人と向い合う場合が多いのであります。
 これも丁度、剣の修業に似ておると思います。
 孫子の兵法の語に「彼を知り己を知れば、百戦殆(あや)うからず」という言葉がありますが、相手の実体をよく知り、そして自分の実体をよく知れは百戦百勝であるという教えであって、この為には相手を敬して観て相手の実体をよく知る、更に併せて、自分というものを客観的によく観て自分の実体を正しく知るという稽古が必要であります。
 また剣道では、稽古や仕合で勝負を争う時でも、常に相手というものは自分を見せてくれる鏡であると思うことが必要なのであります。
 一つの稽古、一つの仕合。その度ごとに、誰でも皆自分というものを自分では見られない、そこで鏡に向うのだ、という意味に於て、相手は何時も自分の鏡になって自分を観せてくれることに役に立つものなのだ、という考え方が大事なのであります。そこで自分の全力をぶっつけてみて、自分を観せて貰うのであります。これなども処世の道に非常に役に立つことではないかと考えます。
 一昨日は剣の道について、また昨日は処世の道と剣の道というものを較べたお話を致しましたが、本日は人間の道と申しますか、人生の道と申しますか、そういうものと剣の道との共通点などについてお話をしてみたいと思います。
 誰でも人生というものは一度しかないもので、繰返すことは出来ないのであります。
 そこで、これを正しく、しかも楽しく、そしで悔のない生き方をしたいという念願は、誰でもこれを持たない人は唯の一人もないのであります。
 そこで、それにはどうすればよいのか、ということが、所謂、人生の道の問題点であると思うのであります。
 ここの点に於ても、先ず、「人間」を正しく観察することの必要があると思うのであります。
 人間の本質を、ちゃんと把むことから始まるのであって、人間というものが解らなくては、どうすればよいか、ということも亦、当然解りっこはないと思います。
 そこで、人間の本質を正しく知って、それに適した正しい、人間らしい生き方をして行くということを発見しなければならない。
 これについては、古来、無数の人間が皆考えて来たことでありますから,その教えについても沢山好いものがあるのであります。
 併し、今日の社会に於て、私共が一人の人間として、何を一番重くみて然るべきか、ということを考えてみますると、人間の特性というか、人間の本質というかに合致させて最も重要視しなければならない修業の方法というものは、「毎日鍛える」ということではないかと、私は思うのであります。
  別の言葉で言い換えるならば、毎日努力を忘れてはいかん、一生涯、人間というものは、努力を続けて行かなければならないような性格のものであり、そういう宿命を持っているのだということを忘れてはいけない。
 努力が続いて行けば、そこに、発達という問題も起こり、また進歩というものも自然に起って来る。努力を怠ったらば、直ちに退歩が始まり、衰えが訪れて釆て、やがて自滅してしまう、という点に於て、人間は「努力」というものを離れては、人間らしく生きて行かれない生物である、ということが、どうも、人間の一番重要視すべき特性のように思うのであります。
 このことについては、勿論、昔の人は、努力をしろ、ということを頻りに言っておりますが、昔は、どちらかと言えば、抽象的にこれを教えて来たものであります。
 然るに今日では、これが、科学的に実証されて教えられるという点は、大きな進歩であると思うのであります。
 殊に、昨今、精神生理学が発達して来まして、今までよく解らなかった心の発達の問題、心の育成の問題なども、肉体の発達育成と同じように、科学約に解ってまいりました。この二つは不可分のものだ、ということも、はっきり解って来たのであります。「健全な精神は健全な身体に宿る」というような昔からの諺も、ここに、科学的に立証されて来た訳であります。
 一人の人間の中には、オギアと生れた時から、無数の才能の芽が秘められているのである。そのいずれの芽にしても、これを取り出して育てて行けば、どこまで伸びるか解らないものが人間であるという風にも言えるのであります。
 それが取り出され、それが育てられて行くという為には、ここにやはり、努力、鍛練というものがなければならないのであって、人間の体を作っておる細胞というものは、無数にありますが、一つ一つの細胞がすべて、毎日毎日生きて行かなければならない、毎日毎日栄養を与えられ、手入れをされて行かなければ続いて行かないものでありますし、又、心の作用というものも、全身細胞の健康な活動力というものの総合的な結果として現われるものであるということも、今日でははっきり解っているのであります。
 そこで私が申しあげたいのは、人生の道の最大要件というものは、「人間とほ鍛えるべきものである」というような定義を、はっきりと心に入れる、ということではないかと思う。これには、鍛練とか、辛苦、忍耐というような言葉が、色々使われているように、梢もすると苦しいこと、いやなことのように思い勝ちでありますが、所謂苦しさの中にもまた言い知れぬ楽しさがあるものであり、反対に、楽をしたり、或は、知識だけを追掛け廻すというようなことをして居ると、人間は偏狭になってしまうように神様が作って居られる。そこでどうしても努力をし続けてゆかなければいけないという、所謂、行学一致、人間とは行ずべきものであるということが、鍛えるべきものであるということと同じ意味であって、非常に大事なことだと思うのであります。
 そこで、鍛練ということになるのでありますが、鍛えて作り上げるべき体も心も、誰でも自分で持っておるのであって、外からもって来られるものではない。自分の持っているものを磨きさえすればよろしいのですから、自分で努力して、自分を磨くということ、決して他力に頼ってはならないということが、やはり人間にとって一番大事な道ではないかと考えます。
 こういう意味で、人生訓の中にある言葉で、私が好きな「眼前の睫(まつげ)」という言葉のお話を一寸して、結びたいと思いますが、これは、眼の前に睫がある、そのことを言っている。
 眼前の睫。睫というものは、一番体に近い処にある、自分の直ぐ目の前にあるに拘らず、これがどうしても見られないものであります。
 自分の睫を見ようと思っても、どうしても見えない、それと同じように、人間は、自分の実体を見るということは仲々むづかしい。
 それと同様に心についても、立派な自分の心を作るということは仲々むづかしいことでありますが、それもすべて、他所にはないもので、自分の身にだけあるものであって、平々凡々なものである。それを自分で立派に磨くことが、人間の道であるという教えであります。
 これについては、千年も前の中国の杜牧(とぼく)の詩に「睫(しょう)在眼前長不見。道非心外更何求。」という詩の句がありますが、誠に好い言葉だと思います。
 睫は眼の前にあるけれども、永久に自分では見えない、併し鏡に向えば、そこにあることが見える。道というものも同じで、自分の心の外には決してないのだ。それを何を慌てて、外に求め歩くかという意味で、道は心外に非ず更に何をか求めん。ということを言っておるのであります。
 結局,平常心を作り上げるということに尽きるのでありまして、自分の持っておる心を磨けばよろしい。自分が持っている心、健康な、生き生きとした、そして綺麗で塵一つもない、何でも映るような心に仕上げなければならない。これが、平常心であって、「平常心是道」という言葉がありますが,眼前の睫という教訓もまた、そういうことを言っているのであって、これを昔の剣道の先輩達は、剣道の極意の一つとして、「極意とは己が睫の如くにて近くあれども見つけざりけり」というような歌に作っております。そして剣の極意というものも、決してむづかしいものではない、ということを言って居ります。
 3日間に亘って、剣、処世、人生というようなお話をいたしましたが、いずれも皆同じことであるということがお解りいただければしあわせに存じます。

   昭和3911192021
   NHKラジオ第一放送「人生読本」の時間に放送
      第一生命保険相互会社
      取締役会長 矢野一郎

2005.02.27