随筆 宝蔵院流槍術 宝蔵院流高田派槍術 第二十一世宗家 一箭順三 |
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1 宝蔵院流槍術 (一) 季刊:興福第183号(平成31年 3月 1日 興福寺発行) 全4回の掲載予定 Facebook宝蔵院流槍術 |
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宝蔵院流槍術鎌槍穂 |
宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)は興福寺の子院・宝蔵院の院主・宝蔵院覚禅房法印胤栄(ほうぞういん かくぜんぼう ほういん いんえい 1521〜1607)が創始した奈良・興福寺が発祥の武道です。その宝蔵院は現奈良国立博物館・なら仏像館の西に位置し、明治初年までは実際に道場があり槍術稽古がなされていました。 宝蔵院流の槍は、通常の素槍(すやり)に対し鎌槍(かまやり)と称する十文字形の穂先に特徴があります。「突けば槍 薙げば薙刀 引けば鎌 とにもかくにも外れあらまし」との歌が伝えられているように、突くだけでなく、巻き落とす、切り落とす、打ち落とす、摺り込むなど多彩な技が可能な鎌槍は攻防に優れ、画期的な武器として多くの藩において伝習され江戸時代を通して全国を風靡し、日本を代表する最大の槍術流派として発展しました。 平安時代には、大和国の国司の権限は事実上興福寺に委任され、鎌倉・室町時代の幕府が各地に守護・地頭を配置しても、大和は変わらず興福寺が支配していました。大和は幕府の力が及ばない、全国にも例がない特異な地域であったのです。 中世の興福寺は、大和一国の荘園のほとんどを領し、その経済力を背景に、最盛期には100を越す院家や坊舎があり、3000から5000人の僧がいたと伝えられています。そして院坊の多くは一乗院あるいは大乗院という二大門跡の配下に入っていました。私共の宝蔵院も大乗院系に属していました。 両院家が興福寺の頂点に立つことが出来たのは、興福寺が藤原氏の氏寺であったことと、藤原氏に繋がる摂関家の子弟が入室する院家であったからです。 こうして、興福寺は一乗院と大乗院が並び立ち、互いに覇を競い、時には共闘し、衆徒(しゅと)と呼ばれる武装僧が大和国内の荘園やその領民を守るために活躍していました。こうした社会情勢のなか、学侶(がくりょ)であった胤栄も武芸を好み槍の修練に励み、猿沢池に浮かぶ三日月を突き鎌(十文字)槍を工夫し、ついに、天文22(1553)年正月12日払暁摩利支天の化身、成田大膳太夫盛忠から二箇の奥儀を授けられました。この日が宝蔵院流槍術創流の日となります。 さらに、諸国行脚中の剣聖上泉信綱(かみいずみのぶつな)師は、永禄6(1563)年、北畠具教(とものり)卿に宝蔵院胤栄、柳生宗厳(むねとし)の存在を教えられ、多芸御所(たげごしょ 北畠具教卿邸:現 北畠神社)から興福寺宝蔵院へ向かいました。 宝蔵院で上泉信綱師を迎えた胤栄と宗厳とは卓越した神技に感銘を受け、共に弟子入り、後に印可を許された胤栄は宝蔵院流槍術の基盤を確立し、新陰流一国一人(いっこくいちにん)の印可を伝授された宗厳は柳生新陰流創始へ発展しました。日本を代表する剣と槍の流祖が兄弟弟子であり、共に興福寺ゆかりの武道なのです。 一方で興福寺は、広大な荘園からの利益によって人材と文化を育成して、経済・学問・工芸活動などが盛んとなり、文化芸術の発展に大きく寄与しました。能、茶道、華道、醸造技術、武術など、今日、日本の伝統文化と呼ばれている多くは、この中世の奈良、しかも興福寺が源流であると申しても過言ではありません。 奈良と言えば1300年前の天平時代にまで思いが遡ってしまいがちですが、中世奈良の文化について、もっと光を当てねばならないと常々考えております。 |
一箭 順三 (いちや じゅんぞう) 昭和24年1月、奈良県生まれ。22歳の秋、鍵田忠三郎道場長の剣禅道場・習心館道場に入門。以来朝は禅、夕は剣道中心の生活。鍵田道場長の思想、生活態度に心酔し、9kmの道を朝4時半から下駄で通い千日坐禅行を満行。毎朝の坐禅後は木刀千回素振り後に奈良県庁へ出勤した。 昭和49年 、奈良市中央武道場の竣工式において、全日本剣道連盟会長であった石田和外先生(第十八世宗家・元最高裁判所長官)の宝蔵院流槍術演武披露に感銘を受け弟子入り。 平成3年免許皆伝、鍵田忠兵衛前宗家の急逝に伴い、平成24年1月、第二十一世宗家を継承。 |
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