十文字鎌の槍
いまの奈良の国立博物館の西に、むかし宝蔵院という寺があって、胤栄という僧がいました。僧兵だったので毎日、槍のけいこをするために猿沢池(さるさわのいけ)にきて、魚を突いて練習をしていました。しかし、なかなかうまくいかず、魚は槍さきをよけてスイ、スイとにげてしまうのです。
そこで胤栄は水面をみると、そこには美しい三日月がうつっていました。三日月は鎌の形をしていました。これを何とか考えられないかと思いながら寺にかえりました。春日明神(かすがにょうじん)においのりしてねました。
すると、その晩に夢を見ました。夢に神人(じにん)が枕元にあらわれて、寺内の後園(うしろのにわ)を掘れと教えました。夢さめてそこを掘ると、たてにも、よこにも刃のついた鎌槍(かまやり)がでてきました。その槍をもって猿沢池にゆくと、魚はうまく突けましたが、月は突けませんでした。それでまた考えていると、ある日、成田大膳太夫(なりただいぜんだゆう)を名のる老人が来て鎌のつかい道を教えてくれました。この老人が門の外、百歩をゆくと、すがたが消えました。これは前にみた夢の神人でした。槍の穂に三日月形の鎌をつけて、十文字鎌槍と名づけました。
興福寺の衆徒(しゅうと)で射術(しゃじゅつ)の達人といわれる菊田宗政(きくたむねまさ)という人と、鹿のことであらそって、興福寺の南大門で勝負をすることになりました。菊田は、かつて京都の三十三間堂で矢を射て、その名は天下にひびいていました。胤栄は鎌槍を持ち、宗政は弓に矢をつがい二十間(40メートル)はなれて相向かいました。ふたりは、目をすえて、かまえたまま動きません。二時間ほどしてから、宗政は矢をはなつことなく、そのまま南円堂の森に姿を消しました。
突けば槍 なげば長刀(なぎなた) ひけば鎌 とにもかくにも外れあらまし
これが宝蔵院流の極意です。
「続・子供のための大和の伝説」(乾健治 著 昭和56年7月) より
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