大和の伝説

大和の伝説


宝蔵院流の槍

 今の奈良の国立博物館の西方に、むかし、興福寺(こうふくじ)の一院である宝蔵院(ほうぞういん)というお寺がありました。ここの胤栄(いんえい)という人は、坊さんであるが槍の術を好み、武士四十人あまりと勝負をして、勝ちぬこうとしましたが、目的は達せられませんでした。
 ところが、ある年、春日明神(かすがみょうじん)が夢に現れ、磬(けい)と鎌槍(かまやり)と地蔵仏(じぞうぶつ)の三つを与えられました。それから胤栄は、猿沢池にうつる月の影を突いて練習し、ついに宝蔵院流の槍術を感得(かんとく)したといいます。
 奈良菩提町(ぼだいちょう)の旧石崎文庫(きゅういしざきぶんこ)の庭に、この胤栄法師が鎌槍の練習をしたという摩利支天(まりしてん)の石という大きな石があります。ここも元は興福寺の子院の成身院(じょうしんいん)で、僧兵(そうへい)の棟梁(とうりょう)の寺でした。それで、むかし、宝蔵院にあったこの石を成身院へ移したのでしょう。

 「子供のための大和の伝説」(仲川明 著 昭和45年12月) より



十文字鎌の槍

 いまの奈良の国立博物館の西に、むかし宝蔵院という寺があって、胤栄という僧がいました。僧兵だったので毎日、槍のけいこをするために猿沢池(さるさわのいけ)にきて、魚を突いて練習をしていました。しかし、なかなかうまくいかず、魚は槍さきをよけてスイ、スイとにげてしまうのです。
 そこで胤栄は水面をみると、そこには美しい三日月がうつっていました。三日月は鎌の形をしていました。これを何とか考えられないかと思いながら寺にかえりました。春日明神(かすがにょうじん)においのりしてねました。
 すると、その晩に夢を見ました。夢に神人(じにん)が枕元にあらわれて、寺内の後園(うしろのにわ)を掘れと教えました。夢さめてそこを掘ると、たてにも、よこにも刃のついた鎌槍(かまやり)がでてきました。その槍をもって猿沢池にゆくと、魚はうまく突けましたが、月は突けませんでした。それでまた考えていると、ある日、成田大膳太夫(なりただいぜんだゆう)を名のる老人が来て鎌のつかい道を教えてくれました。この老人が門の外、百歩をゆくと、すがたが消えました。これは前にみた夢の神人でした。槍の穂に三日月形の鎌をつけて、十文字鎌槍と名づけました。




 興福寺の衆徒(しゅうと)で射術(しゃじゅつ)の達人といわれる菊田宗政(きくたむねまさ)という人と、鹿のことであらそって、興福寺の南大門で勝負をすることになりました。菊田は、かつて京都の三十三間堂で矢を射て、その名は天下にひびいていました。胤栄は鎌槍を持ち、宗政は弓に矢をつがい二十間(40メートル)はなれて相向かいました。ふたりは、目をすえて、かまえたまま動きません。二時間ほどしてから、宗政は矢をはなつことなく、そのまま南円堂の森に姿を消しました。

  突けば槍 なげば長刀(なぎなた) ひけば鎌 とにもかくにも外れあらまし
 これが宝蔵院流の極意です。

 「続・子供のための大和の伝説」(乾健治 著 昭和56年7月) より








2003.02.23