江戸時代の槍術の代表的流派「宝蔵院流槍術」を、発祥の地、奈良に再興しようと保存会を設立、興福寺で奉納演武会を毎回開きだして10年になる。この8日には第10回を記念して古武道12流派を招き、演武会を開いた。江戸時代までは宝蔵院流に加え、剣術の柳生新陰流なども盛んだった奈良が久々に″武道の都″として輝いた。
興福寺の法師が開<
宝蔵院流槍術は戦国時代後期、覚禅房胤栄(1607年没)という法師が、興福寺境内にある子院の宝蔵院で開いた。槍身の両側に枝のある十文字槍を使うのが特色で、胤栄の弟子は宮本武蔵と試合をしている。我々が伝家している宝蔵院流の一派、高田派の型は、二人が十文字槍とまっすぐな槍身の素槍で対じし、攻撃と守りが一体になった35の技で成り立っている。 江戸時代には全国諸藩に広まり、諸派、傍流などを合わせると10を超える流派になった。江戸末期には、奈良奉行の川路聖謨(1801〜68年)も宝蔵院流を学んだようで、彼の日記『寧府紀事』には、「立派なること目を驚せり」 「能舞台のごとし」などと稽古場のすばらしさを記したくだりがある。彼は武芸に熱心で、「しごき」と呼ばれる槍の構えづくりを毎朝4千回も行ったという。
槍術諸流派中で最大となった宝蔵院流だが、明治初年に吹き荒れた廃仏毀釈運動で大きな痛手を受けた。発祥の地の興福寺自体が多くの建物や土地を失い、宝蔵院も解体されたためだ。
この宝蔵院流を奈良で復興しようという機運が生まれたのは、25年ほど前のことだ。奈良市長だった鍵田忠三郎氏が宝蔵院流再興を目指していて、東京に宝蔵院流の一派、高田派が残っていることがわかった。高田派は島原の乱(1637〜38年)の鎮圧で活躍した高田又兵衛吉次という侍が興した。福岡・小倉藩に伝わった後、旧制第一高等学校撃剣部に引き継がれ、同校OBの石田和外先生(元最高裁判所長官)が宗家となり技を伝えていた。
土曜の朝2時間、稽古
当時、奈良県の職員で、奈良市内の剣道場に通っていた私も、「ここでやらなければ技が埋もれてしまう」と思い、道揚の先達の西川源内先生や鍵田氏の子息の忠兵衛氏らとこの古武道復興に参加した。我々は東京の石田先生のもとに出向いたり、奈良へ来てもらったりして技の手ほどきを受けた。努力のかいあって、宗家は石田先生から西川先生、鍵田忠兵衡氏へと継承され、奈良宝蔵院流は復興、今では伝習生も21歳から66歳まで50人以上いる。
伝習生は毎週土曜日の午前に武道場に集まり、2時間たっぷりと汗を流す。長さ2.7〜3.6メートル、重さ3キロ以上の長槍を手に型稽古や「しごき」を400回程度やる。低い姿勢から素早く動くには瞬発力が必要で、鍛錬するうちに体の弱かった私もすっかり丈夫になり、免許皆伝となって後進を指導する立場になった。
我々の世代は吉川英治の「宮本武蔵」を読んで武道に興味を持ったものだが、最近の若者は武蔵を主人公とする人気漫画「バガボンド」で宝蔵院流の名前を目にしているようだ。
宝蔵院流も競技rとしてやってはどうかという声もあるが、私は反対だ。勝負にこだわり過ぎると「自分に恥じない技を出せているか」と問う精神的営みが後回しになる危険性があるうえ、伝えるべき技の妙味が薄れる恐れもあるからだ。
興福寺のご好意もあり、91年から毎年秋に境内で奉納演武を行うようになった。当流派では10回続いたら他流派も招いて大規模な演武会を開きたいと考えてきたが、ご縁の深い12流派が参加を快諾してくれ、資金面で商店や企業などの支援もあって実現できた。
境内に大筒のごう音
この8日の奉納演武会は朝10時から、興福寺五重塔横の東金堂前に設けられた特設の野外舞台を使って行った。各流派が約3時間にわたり演武を披露、多くの観衆が見守ってくれた。
奈良に地盤を持ち当流派の始祖、胤栄とともに稽古に励んだといわれる柳生一族の柳生新陰流兵法剣術(愛知県)やライバル関係にあった宮本武蔵の兵法二天一流(大分県)が技を披露。戦国武将の荒木村重から伝わり鎖鎌などを用いる荒木流拳法(群馬県)などに続いて、最後に茨城県土浦市から参加の關流炮術は大筒などの射撃を行い、普段は静かな境内にごう音が響いた。
全国には約70の古武道流派があるが、東京などで大会を開くことはあっても、奈良に十数派が集うことはなかった。
建造物や仏像など古代を中心とした文化財は多い奈良だが、今回の演武会を通じて生身の人間が身をもって伝える文化の重要性も理解してもらえたのではないかと思う。2007年は始祖、胤栄の没後400年で、当派では記念行事を行いたいと考えている。その時までに、さらに活動を活発にできればと考えている。
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