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「宝蔵院流槍術」


H25(2013).10. 3(木) 読売新聞
槍術 武蔵も突き動かす
 奈良市の興福寺(こうふくじ)の子院・宝蔵院(ほうぞういん)で約450年前に発祥(はっしょう)し、今に伝えられている古武道・宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)。シンボルは、穂先が十文字の形をした「鎌槍(かまやり)」です。NHK大河ドラマ「ハ重の桜」や、江戸時代の剣豪・宮本武蔵を主人公にした人気漫画に登場するなど、近年注目を集めています。今回は、そんな宝蔵院流槍術について紹介します。


穂先が十文字の形をした「鎌槍」(奈良市で)
どのように生まれたの?
 宝蔵院はかつて、今の奈良国立博物館餓が立つ場所にありました。安土桃山時代の僧・胤栄(いんえい)が武芸を修行に取り入れ、「柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)」で知られる剣豪・柳生宗厳(むねよし)とともに剣術を学びました。さらに、槍術の達人から指導を受け、猿沢池に浮かぶ三日月を突いて鎌槍を考えついたと伝えられています。
 槍術は弟子の中村尚政から高田又兵衛に受け継がれ、やがて全国に広がります。日本最大の流派として、江戸時代には多いときで門下生が4000入、武芸を学ぶ幕府の講武所には多くの宝蔵院流の師範がいたといいます。
 NHKの「八重の桜」では、会津藩の道場での稽古風景などが放映されました。

どんな槍術なの?
 普通の槍は長さ3.6メートル程ですが、機能性を重視して2.7メートルと短いのが特徴です。ただ突くだけでなく、穂先の十字で相手の槍を受けたり、ひねり落としたりします。動きが多彩で、「突けば槍 薙げば薙刀 引けば鎌 とにもかくにも外れあらまし」と歌に詠まれました。
 宮本武蔵の死後に書かれた「二天記(にてんき)」によると、武蔵は胤栄の弟子と手合わせします。試合は2度とも武蔵が勝ちますが、槍術の技術に驚いた武蔵は宝蔵院に泊まり、夜を語り明かしたとされています。
 今では試合は行わず、型の修得に励んでいます。 21代目宗家の一箭順三(いちや じゅんぞう)さん(64)は「相手を殺すのではなく、戦力を失わせて争いを収めることが理念。人を生かす術であり、自らを鍛えて高みを目指せる魅力があります」と語ります。


興福寺で演武を披露する宗家の一箭さん(奈良市で)
どこで学べるの?
 槍術は、明治時代以降は東京を中心に伝えられ、一時は存続が危ぶまれたこともありました。しかし、元奈良市長の鍵田忠三郎さんらが力をつくしたことによって奈良市中央武道場ができ、1976年に約100年ぶりに発祥の地に戻ってきました。
 現在は、この武道場で毎週、大学生から70歳代までが稽古に励んでいるほか、大阪や名古屋、ドイツのハンブルクにも道場ができ、門下生は100人ほどに増えてえています。
 91年からは毎年、保存会が興福寺で演武会を開いており、9月28日には白ぱかま姿の一箭さんらが勇壮なな演武を奉納しました。一箭さんは「かつてのように全国の人に魅力を知ってもらいたい」と語っています。


興福寺の南円堂そばにある「摩利支天石」(奈良市で)
歴史に触れられる場所はあるの?
 奈良国立博物館の敷地内に、発祥の地であること知らせる石碑や、残っています。
 興福寺の南円堂のそばには、胤栄が武の神様をまつって槍の上達を願ったとされる石「摩利支天(まりしてん)石」があります。この石は、明治時代に宝蔵院がすたれ、取り残されたのを残念に思った奈良市の漢方医が、自宅まで運んで供養していました。 1999年に保存会が寄贈を受け、今の場所にまつっています。
 2007年には、同市白毫寺町に胤栄をはじめとする一門の墓も改修されました。これらの場所を巡り、当時に思いをはせてみてはいかがでしょうか。



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