武道発祥の地 奈良



剣筆
武道発祥の地 奈良
月刊「剣窓」 2006年6月号

宝蔵院流高田派槍術第二十世宗家・衆議院議員 鍵田忠兵衛



 奈良の地は、柳生新陰流・宝蔵院流槍術が生まれ育った地であります。
 今年の419日は、柳生石舟斎宗厳師がお亡くなりになられ、没後400年を迎えました。
 没後400年を記念し、414日の土曜日には、東京から柳生家第17代当主柳生宗久氏、また名古屋から柳生新陰流第22世宗家柳生耕一氏はじめ、柳生家ご縁の者が柳生の芳徳寺に集まり、橋本紹尚住職導師の下400回忌の法要が厳粛に営まれ、私も宝蔵院流高田派槍術第二十世宗家として門下生3名と共に参列をさせて頂きました。
 静かな柳生の里の芳徳寺の境内にお経が流れ、400年の歴史の重さを感じたところであります。法要の後、正木坂道場にて、奉納剣道大会が2日間に渡り、小学生・中学生の熱戦が繰り広げられました。初日には、柳生新陰流、宝蔵院流高田派槍術、また2日日には柳生心眼流の奉納演武も行われました。
 柳生新陰流と宝蔵院流槍術は、これは兄弟流派であります。というのは、剣聖と言われた上泉伊勢守信綱が大和の国へこられた際に、柳生石舟斎と宝蔵院覚禅房胤栄が共に弟子入りし、新陰流を学びました。そして石舟斎は柳生新陰流を、また胤栄は新陰流を槍に取り入れ、宝蔵院流槍術を創始したわけであります。
 柳生新陰流は禅理で兵法を説き、殺人刀は同時に活人剣でなければならないことを教えました。
 「兵法の極意に仁・義・礼・智・信たえずたしなみ気づかいをせよ」(石舟斎兵法百首より)
 今、柳生の地には柳生家の墓や陣屋跡等が残っておりますが、柳生の血筋は東京で、また柳生新陰流は名古屋で脈々と受け継がれております。どうして東京や名古屋かと言いますと、石舟斎の五男、柳生宗矩が江戸へ出て徳川将軍家の剣術指南として仕え、また嫡孫柳生兵庫助利厳は、尾張徳川家の兵法師範として尾張の国で柳生新陰流を伝えたからであります。
 さて、来年2006826日は、宝蔵院覚禅房胤栄師の没後400年を迎えます。石舟斎が亡くなった1606年の翌年、1607年に石舟斎の後を追うように胤栄が亡くなりました。
 宝蔵院流槍術は、ご存知のように十文字鎌槍であります。
 「突けば槍 薙げば薙刀 ひけば鎌 とにもかくにも外れあらまし」と言う詠歌が残っております。 この宝蔵院流の槍は、鎌槍と称する十文字型の穂先に特徴があり、この鎌を活用して、突くだけでなく巻き落とす、切り落とす、打ち落とす、擦り込む、叩き落す等、立体的に使用でき、当時としては画期的な武器でありました。
 江戸時代、またたく間に宝蔵院の槍は全国に広がって行き、宝蔵院の流派も十数流派生まれました。がしかし、現在は淘汰されて宝蔵院流高田派の槍が唯一残っているだけであります。
 高田派の槍というのは、伊賀上野 (現在の三重県伊賀市)の白樫村出身の高田又兵衛書次が134歳の時、宝蔵院に弟子入りし、永年修業して印可状をもらい、その後宝蔵院流高田派槍術を創始しました。その後、小倉城の小笠原藩に仕官し、小倉にて宝蔵院の槍を広め、また高弟たちが江戸へ出て道場を開さ、全国に大いに広めた訳であります。
 
宝蔵院の奥義第一に 「大悦眼(だいえつげん)」と言う教えがあります。大悦眼とは「にこっとする目」であります。にこっとする目とは、昔武士たちは真剣勝負でありました。真剣勝負で相手を切ってやろう、やっつけてやろうと思うと自然と目に力が入ります。目に力が入ると肩に力が入ってきます。肩に力が入ると全身に隙ができます。隙だらけの構えになってしまうわけです。
 ですから、目の力を抜き、相手に対して「にこっと」してやると、隙がなくなるということであります。なかなか切った張ったの真剣勝負をしている中で 「にこっとする」ことは非常に難しいと思いますが、大悦眼の心は大事な教えであります。現在社会の中でも、索漠とした世の中でありますから、肩をいからせず、にこっとした目で自然体でありたいものだと思います。
 私も衆議院議員という立場でありますが、それ以前に武道家として武士道を志す一人の人間として一生修業者でありたいと考えております。



2006.05.27