西川源内


範士が語る(22)

西川源内
自己淘汰を坐禅にもとめる

取材・構成:高山幸二郎
撮影:川村典幸

月刊「剣道日本」 2006.02

歩々是道場として般若心経の写経を始め、十数年かけて目標の一万巻を達成した。
むろんその後も続けていて、
現在は「新たに四千巻をちょっと超えたぐらいでしょうか」という。
「ご存知のように般若心経は二六十二文字から成っています.
一字一字が「是大神呪(ぜーだいじんじゅ)」すなわち真言であり、神妙な真理の言葉です。
写経はその真理を思い、写すことに一心になるわけですが、
一心になればなるほど無心に近づきます。坐禅と同じような効果が得られるものです」



【にしかわげんない】大正5年、奈良県御所市に生まれる。五条中学一年のとき正課で剣道を始め、二年からは新しく赴任した武専(武道専門学校)出身の佐藤才吉の下、剣道部の一員として厳しい稽古に明け暮れる。武専に進んでからは小川金之助はじめ、宮崎茂三郎、津崎兼敬、佐藤忠三、黒住龍四郎、若林信治などの指導を受ける。昭和14年、同校卒業。−年ほど(旧制)中学で教鞭をとったのち招集を受けて戦地に赴く。戦後は川崎重工業に入社し、仕事の合間をみては古賀恒音や吉田誠宏に師事して剣道の稽古を続ける。昭和50年、川埼重工業を退社。同年より奈良市武道振興会副理事長を務め、平成16年12月をもって退任する。奈良県剣道連盟理事長の他、全日本剣道連盟常任理事、同評議員などを歴任。柳生で行われた中堅指導者講習会ではおよそ30年にわたって指導する。昭和56年には剣道使節欧州巡回派遣団長も務めた。また、宝蔵院流高田派槍術の型を石田和外から受け継ぎ、奈良に残す。昭和42年八段、同48年範士、平成2年九段に推挙される。


担任だった佐藤忠三先生の一言で

稽古を変え、席次が上がりました。
三年生のときです。

 武専(武道専門学役)の新入生歓迎会では早々とつぶされてしまいました(笑)。新入生は上級生の一人ひとりから盃をもらうわけですが、私はひと回りしないうちにひっくり返ってしまったのです。無理もありません。なにしろコップでいったんですから(笑)。
 なぜ、私だけコップ洒になったか。それはこうです。
「西川の(中学時代の)先生はだれか?」
「はい、佐藤才吉先生です」
「おお、酒豪で知られたあの佐藤先輩か。だったら酒のほうもさぞかし教えられたことだろう。よし、西川はコップでいけ!」
 と。あのときは本当にまいりましたわ(笑)。ええ、食べたものを全部吐き出してしまいました。それでも、むかむかが収まらない。出てくるのは胃液だけ。しまいには脂汗でぐっしょりでした。姶来するのは佐伯太郎先輩や中村伊三郎先輩といった二年生の役目になっていたんですが、ゲイゲイやりながら「こいつ、肉をたらふく食っているぞ。この礼儀知らずが′」とずいぶん怒鳴られもしました(笑)。そのときの料理ですか?かしわ(鶉肉)鍋です。

 その佐藤才吉先生ですが、武専の第十六期生ですが、長谷川寿先生や長田為吉先生、斉藤正利先生などと同期です。私の中学(旧制五条中学枚)には二年のとき赴任されてきました。たしか武専を卒業したばかりだったと思います。
 五条中学では「勉強も大事だが、なんといっても最後にものをいうのは身体のカだ。だから、まず身体を鍛えよ」という校長の教育方針で、マラソン大会、柔道大会、剣道大会などが盛んに行なわれていました。一年生から五年生の全校生徒を忠・礼・武・信・知の5つのグループに縦割りにし対抗試合をするんです。一年生のとき、私は忠節のグループでした。その剣道大会で私はたまたま五年生と試合をし、胴を決めて勝った。そしたら久保添という配属将枚の教練の教官がその胴にいたく感心されたらしく、新任の佐藤先生に「西川の剣道は切れる」と話したようなんです。そんなこともあって剣道部に入るや佐藤先生にはとくに目をかけていただきました。厳しく鍛えられたということです(笑)。突き飛ばされる、投げ倒される、足を掛けられてひっくり返される………二年生のなかでは私が一番やられました。間違いありません(笑)。
 酒は、武専でも有名なぐらいの先生ですから強かったですね。ええ、底なしです。われわれですか? 先生のお宅に行ったときはだいたいごちそうになっていました(笑)。先生といっしょに酒盛りするわけです。いまだったら問題になるところでしょうが、当時は、そういうことに関してはわりあい鷹揚だったんです。
 新入生歓迎会で上級生から「酒もそうとう鍛えられただろうから……」というのはこのことです。いやいや、ひどい目に遭いましたよ(笑)。
 それはそうと、やはり一年生のときですが、教練のすぐあとに制裁会の集合がかかったことがありました。これも耐えがたい苦席でした。制裁会では、三年生以下全員が正座して四年生の鋭教を受けます。われわれ一年生は教練のあとですから、ゲートルは巻いたまま、長靴も履いています。それで校舎屋上のコンクリートの上で正座させられたのです。説教はいつものようにえんえんと続きました。足の感覚などありません。痛いのを通り越しているのです。そのあと、欠礼したもの、稽古に身が入っていないものなどと順に呼び出され、それぞれまた念入りな説教が始まって、最後はたいていビンタをもらう。そのあいだも全員ずっと正座したままです。一年生は、前に出ろと言われても誰も立ち上がることができませんから、皆、這っていきました。終わったときですか? まるでいも虫ですよ(笑)。まあ、不条理といえば不条理ですが、武専の伝統として受け止めている部分が多分にありましたね。
 憂さ晴らしはなんといっても酒盛りです(笑)。気の合ったものたち敷人で、秋だったら月見の宴としゃれ込むわけです。大文字山にはよく出かけていきました。スジ肉と豆腐を買い込み、野菜は近くの農家で分けてもらって、それを鍋代わりの洗面器でぐつぐつと煮込むんですが、これがじつに旨く、酒にも合う。こうしていま話していても、あの醤油のいいにおいが鼻先をかすめます。懐かしいですね。
 稽古の話をしましょう。先ほども話したように私は武専出身の佐藤先生に指導を受けています。ですから、武専の指導理念はだいたい理解していました。根っこをつくり、幹をつくる。そうすれば枝葉は自然にできていき、やがて堂々たる大木となる。剣道の根本はそこにある、という理念です。
 しかし武専の稽古は峻烈そのもので、中学校時代の此ではありませんでした。指導陣は主任教授の小川金之助先生の下、教授に宮崎茂三郎先生、津崎兼啓先生、佐藤忠三先生、助教投は若林信治先生、土田博吉先生、そして松本幸吉先生、菅三郎先生が助手を務めておられました。四戸泰助先生は…講師です。さらに研究科に残った先輩方も元に立たれます。四年生が立つこともありました。そんなふうですから掛かる側、とくに一、二年生が呼吸を整える間などありません。しかも稽古は、打ち込み、切り返し、体当たりが主で、掛かり稽古になると、突きは飛んでくる、首に竹刀を掛けられて引き倒される、足払いや足搦みで転がされる、組み討ちになって首はねじられ、胴締めで押さえつけられるといった具合です。打ち身や擦り傷など毎日どこかにつくっていましたね(笑)。
 それでも、二年も二学期になるころには血気盛んなものたちで悪だくみをするようになりました。元立ちのひとりにねらいを定め、何人かで結託してその先生を倒してやろうというのです。一人ひとりが体当たりを烈しくするなどして次から次に掛かっていき、疲れさせて、あわよくば組み討ちで先生の面をとってしまう、そんな魂胆です。余裕が出てきたということではありません。どうせ苦しい稽古に変わりはない。だったら元立ちにひとあわ吹かせてやれ、ですよ。しかし、一度も成功しませんでした(笑)。先生方は先刻ご承知で、いつも軽くあしらわれ叩きのめされてしまうんです。研究科の先輩たちには「よし、今日はわしか!」と逆に張り切られてしまいました(笑)。
 武科の授業では上から成績順に並ぶことになっているんですが、この席次が私はなかなか上がりませんでした。びりけつから2番か3番が指定席だったのです(笑)。ところが三年生のとき、いっきに上から7番目あたりに座るようになった。自分でもびっくりしました。担任の佐藤忠三先生に「西川くん、きみの一本一本はしっかり攻めて打っていてたいへんよろしい。しかしそれが、うさぎの糞みたいにポロッ、ポロツとなっている。つながっていません。ひとつにつながるような稽古を心掛けることが大切です」と言っていただき、いろいろ考えて稽古をするようにしました。それがよかったのでしょう。
 もちろん初めはなかなかつながりませんでした。少しつながるようになったのは2カ月ぐらい経ったころでしょうか。とにかく相手が間合を切るまで攻めて打つように努めました。
 ポロツ、ポロツをつなげる、肝心なのは心です。要するに許さないという強い気持ちで攻め続け、 相手との縁を切らない、これです。しかし、そのころはそこまでの理解はまだなく、ひたすら攻めて打ち、さらに攻めて打つをくり返していました。苦しい稽古でした。それまでの稽古はなんだったんだ、と思ったものです。
 卒業したのは昭和143月です。四段錬士、それに国語と漠文の教員資格ももらいました。



「西川、あまり強くなるなよ」と

吉田誠宏先生には
よく注意されていました。

 軍隊経験ですか? ええ、ありますよ。武専を卒業してすぐ茨城の(旧制)境中学校に赴任し、その年の12月に滋賀の八日市中学校に転任、そこで召集を受け、翌151月に入隊しました。終戦まで、北支、中支、南支など中国全土を転戦し、復員したのは昭和22年です。八日市中学に籍はありましたが復職はせず、民間の会社に就職しました。    
 古賀(恒音)先生に指専を受けるのはそのころからです。古賀先生はご存知ですよね。ええ、そうです。武専の前身である武術教員養成所を卒業され、昭和4年と9年の昭和天覧試合では指定選士の部に出場されています。
 毎週日曜日、芦屋のさる篤志家の別荘の庭で、世間にはばかりながら稽古をいただきました。大阪の先生たちも一緒です。人数が集まらなく、古賀先生と二人きりでやったこともあります。先生は柔らかい剣道です。そしてそこからピシツと鋭い小手打ちに出てこられる。私は、なんとかしてあの柔らかい構えを破ろうとするんですが、一度も破ることはできませんでした。まあ、当然ですけどね(笑)。休憩時には、剣先の強さ、手の内の作用などについても詳しく解説してくださいました。私にとってはいい勉強になりました。
 芦屋での稽古は、そうですね……1年ぐらいは続いたと思います。いつまでも迷惑はかけられないということで、古賀先生がとりやめたんです。それからは古賀先生が招かれて指導される場所をあらかじめ教えてもらい、当日、直接たずねていって稽古をお願いしました。時間のゆるす限り、あちらこちらとよく行ったものです。
 昭和24年、私は川崎重工業に入社しました。資材関係の部署にしばらくいて、その後、営業に移ったわけですが、以来、同50年に退職するまでずっと営業です。苦労しました。国漢と剣道しかやったことのない人間が機械や設備の営業をやるんです。しかも設計の連中との打ち合わせでは、英語はもちろんのことフランス語やドイツ語が飛び交うんです。それも特殊な専門用語です。苦労のほどが分かるかと思います。必死になって勉強しました。勉強のしすぎで、しばしば熱が出たほどです(笑)。本当ですよ。
 生駒山ふもとの吉田誠宏先生のもとに稽古に行くようになったのは、川崎重工業に入ったころだったかその前からだったか、ちょっとと記憶が定かではありません。先生の聖和道場はできていないころです。稽古は近くの公民館を借りて行なわれていました。古賀先生、宮崎茂三郎先生など京阪神地区の先生方が多くいらっしゃっていましたね。掘正平先生もお見かけしました。誠宏先生は武徳会講習科の出身ですが、教員養成所二期生の堀先生とはほほ同期にあたり、親しかった。そんなことから堀先生もときどき顔を出されていたようです。
 風呂たき兼雑用係が私の役割でしたが、大先生がたのお世話をすることが嬉しく、毎回、ほとんど欠かさず通っていました。
 いろんな先生から稽古をいただきました。誠宏先生ですか? もちろんです。当時、私は、当たる盛りというか、とにかく打てばぽかぽか当たるんです。ところが稽古が終わって挨拶にいくと「西川、あんまり強くなるなよ」と先生はおっしゃる。毎回、そうです。強くなるなとは、いったいどういうことなんだ……。そのころの私は、機会とみたらすかさず打たなければいけないと思っていました。ですから誠宏先生のおっしゃる深い意味は解るはずもありません。しかし何度となく言われているうち、さすがに少し考えるようになりました。
 先生は、相手の心が動かないところでいくら打っても、それは当てようとするだけの無理な打ちでしかない、相手の心を動かし、そこを打つ、それが理合にかなった剣道の打ちである、理合を考えて稽古をしなさい、と言っておられたのです。理合にかなった稽古というのは心の問題が大きなウエイトを占めています。その心を先生は「強くなるなよ」という言葉で説かれていたのです。
 理解するまで多くの時間を要しました。一、二年? いや、もっとです。
 私は仕事で出張するときは剣道具を担いで出かけ、行ったさきざきで稽古をしていました。およそ全国を廻ったといってもいいでしょう。東京では必ず妙義道場へ出向き、持田盛二先生や佐藤卯吉先生に稽古を頂戴しました。講談社の野間道場が再開されてからはもちろんそちらの朝稽古に参加しました。このような点の稽古の集積が私の剣道修行でもあったというわけです。
 出張から帰ってくると、日曜日にはまた誠宏先生のところで稽古です。理合の重要さが少し解ってきたころでしょうか、先生に稽古をお願いすると、今度はさっぱり打てなくなりました。いくら攻めても先生の心を動かすことができず、したがって打つべき機会が見出せないのです。それどころか、こちらの心の動きが先生の心にすべて映っているらしく簡単に打たれてしまう。結局、掛かり稽古から、打ち込み、切り返しの稽古になっていました(笑)。年齢ですか? そのころ私は、まだ40歳にはなっていなかったと思います。ええ、ですから私が心の問題を真剣に考えるようになったのはずっと早いころからです。
 柳生の正木夜道場で行なわれていた中堅指導者講習会、私はあの講習会の講師を第7回から30年以上にわたって務めました。主として心の問題を取り上げて指導しましたが、どうしたわけか講習生は乗ってこなかった。なぜだろう、と考えました。理由は講師と講習生の年齢の差にあったようです。何人かは熱心に聞いていました。心の問題に気がつけば剣道が一段とむずかしくなり、同時に奥深さも面白さも新たになります。講習会で興味を示したその何人かがどんな剣道に変わったか、できるなら見てみたいものですね。


鴻の池運動公園は自宅から5,6分のところにあり、副理事長を退いてからは、いい散歩コースになっているようだ



奈良市武道振興会が主催する近畿少年剣道優勝大会は、西川範士が副理事長に迎えられた昭和50年に始まった


坐って、心の整理をするなかで

自己淘汰し、無心となる、
それが坐禅だと私は考えます

 坐らなければ坐禅は解らない。当たり前のことですが、私はいま話した柳生の講習会でそれをつくづく思いました。講習生と一緒に坐ったのですが、頭のなかでいろんなことが渦巻いているんです。雑念です。こりゃあいかん、と思い、ひとり抜け出して芳徳寺の本堂にいって坐りなおしました。しかし同じでした。どうしても雑念を追い払うことができないのです。
 禅については、剣道は要するに心の問題だと考えるようになってからずいぶんたくさんの本を読んでいました。お坊さんの書いた本、哲学者の書いた本、また医学の立場から禅をみた本などです。だから自分としては、理解は充分にしているつもりでした。しかし実際は違っていた。いくら本を読んだところで本当の理解にはならない。そのことが分かったのです。
 昭和50年、私は川崎重工業を退職し、奈良市の誘いを受けて武道振興会の副理事長を務めることにしました。坐禅と真剣に取り組むようになったのはそれからです。鴻の池道場の一角に坐禅用の場所をつくってもらい、奈良市九条にある曹洞宗三松寺の住職皆川英真師に指導をお願いしました。私が得度する決心をしたのはそれからしばらくしてからです。「剣を学ばんと欲すれば先ず心より学ぶべし」と、かの島田虎之助は言っています。そしてその心はというと、一休禅師の道歌に「心とはいかなるものを言うやらむ 墨絵に描きし松風の音」とあります。つまり、心とはその人がその境地に達しなければ解らないということ。それだったら、いっそのこと得度して禅門に入ってみようと考えたのです。院号ですか? 宝雲院無想徹心居士です。行を始めてもう何年になりますか……しかし、剣道は少し上がったように思いますが、坐禅の方はさっぱり進みませんね(笑)。
 剣道は″不動心″の本当のところが解ってから変わりました。″不動心″とはとらわれない心、すなわち自由な心です。たとえば、花を見て美しいと感動する。これは自由な心の働きです。しかし、それを誰かに贈って歓心を買おうとしたとします。この時点で心は動いています。歓心を買うことに心がとらわれ、花を美しいと見る自由な心を失っているのです。剣道でも同じことが言えます。打ちたい打ちたいは心がとらわれた状態であり、そこに驚疑惑が生まれます。この四病は大きな心のすきです。ところが、相手と対したとき、打ちたいという自己を捨て、自由なとらわれない心でじりじり攻めていけば、相手はなんとかしよぅとして心がとらわれてしまいます。心がとらわれると心は動きます。その動くところを逃さず打つ。これは、心で勝ち、心で打った真正の勝ちです。また相手が退がっても同じことで、スッとすかさず乗って追っていきます。こちらが追い込もうとするのではなく、相手は退がらざるを得ない心理状態にあるのです。もちろん結果は同じことになります。
 吉田誠宏先生が言わんとした剣道はこれだったと、そのころやっと解りました。ずいぶん時間が掛かったものです(笑)。
 槍? ああ、宝蔵院流槍術ですね。これに関して因縁の不思議を感じます。というのも、もとはといえば流祖の宝蔵院覚禅房法印胤栄という人は興福寺の僧なんです。新陰流の上泉伊勢守に刀術を学び、また大膳大夫盛忠という槍術の達人を坊中にひきとめて槍の修行に努め、ついに鎌十文字槍を工夫して宝蔵院流を創始したと伝えられています。その後、宝蔵院流は長い年月のなかで途絶したかにみえたが、旧制第一高等学枚(一高)撃剣部に伝承されていて、流祖の墓が奈良で発見されてまもなく、発祥の地に四百年ぶりにもどりました。まさに因縁です。
 戦前、といっても大正のころですが、一高と東京帝大の師範をされていた山里忠篤という先生がじつは宝蔵院流の遣い手で、一高撃剣部の佐々木保蔵氏らに槍合わせの形五十本を教えた。これが一高に伝わった経緯です。宝蔵院流を残せということだったのでしょう。それを石田和外先生が、学校の先輩でもあり岳父でもあった佐々木氏から受け継いでおられたのです。石田先生は第二代の全剣連会長です。そして先生との縁ができたことにより、奈良に同流を復活させるべく、私と何人かが石田先生から指導を受けることになりました。指導は3年にわたったと思います。
 鴻の池道場で宝蔵院流高田派槍術の伝授式が行なわれたのは昭和51218日のこと。石田先生から私に正式に道統が継承された記念すべき日です。現在は、私のあとを鍵田忠兵衛さんが継いで熱心な指導が続けられています。
 槍も本来は剣道と同じように心と心の戦いだと思います。たぶん、もっとも重要なところでしょぅ。しかし得物が長いためか、互いの心はなかなか伝わりにくいといえます。つまり術のやりとりになりやすいのです。もっと研究すべきこととは思っていましたが、私にとっては時間がなさすぎました。いささか心残りです。
 それにしても、昨今の剣道を見ていると心配でなりません。剣道も時代とともに流れていくものかもしれませんが、単なるたたき合いに変容するようでは、もはや剣道とは言えないと思います。道元禅師は「いたずらに 過ごす月日は多けれど道を求むる時ぞ少なき」と言っています。剣道界全体が、まさにいま噛みしめなければいけない言葉ではないでしょうか。

2006.02.05