宝蔵院流槍術は
「もう一つの奈良の文化」

宝蔵院流槍術は「もう一つの奈良の文化」
月刊大和路「ならら」2003.2月号
発行:地域情報ネットワーク




対談

宝蔵院流槍術は「もう一つの奈良の文化」
−宮本武蔵が奈良で出合った剣の心、宝蔵院流とは・・・
月刊大和路「ならら」20032月号


江戸時代、天下最強を誇り全国に弟子数四千を超えた十文字鎌槍の槍術、宝蔵院流槍衝は柳生新陰流と同様に奈良が発祥の地である。そして昨年12月、「宝蔵院流槍術顕彰碑」が、同槍術発祥の興福寺宝蔵院の故地、現在の奈良国立博物館旧館の西に建てられた。
 その宝蔵院、宝蔵院流槍術について興福寺貫首・多川俊映師と宝蔵院流槍術高田派宗家・鍵田忠兵衛氏に語り合って頂いた。


−江戸時代、全国を風靡した宝蔵院流槍術は奈良発祥の武道で、約
450年前に興福寺の子院の一つ宝蔵院で生まれたといわれています。いまNHKの大河ドラマ「武蔵MUSASHI」でも宝蔵院が登場して話題も呼んでいるわけですが、子院だったその宝蔵院と槍術の流祖である覚禅房胤栄(いんえい)についてお話を伺いたいと思います。


多川 お寺としてはっきり分かる文書のようなものは残ってないんですが、初代の覚禅房胤栄さんが出られたころ、中世末から近世初頭のことについて別の子院のお坊さんが書いた「多聞院日記」というのがあって、この日記に散見されるわけです。結局、胤栄さんはお寺から言うとれっきとした学侶なんですね。記録などをみますと、唯識の問答を講義することなどを現にやっておられます。槍術や武芸についてはぼんやりとしているので、その分それぞれの人が思いをふくらませることができるわけでして、ロマンを感じさせますね。

鍵田 宝蔵院のものがなにも残っていないのは、明治初年の廃仏毀釈によって宝蔵院が取り壊されみんな没収されたからですよね。

多川 そう、そう。

鍵田 いま胤栄さんのことを学侶とおっしゃいましたが、われわれからすればやっぱり武道家なんですね。文武両道といえるのではないでしょうか。

多川 そうですね。よく分からないのですが、毎年行われている演武(注・興福寺での宝威院流槍術奉納演武)をみていますと、いかにも仏教に基づいているという感じはしますね。

鍵田 槍合わせの型の名称などもそうですが、武道としてみるならば奥深すぎて分かりづらい名のものがいろいろあります。武道なんだから、もっと簡単に強い言葉で言い表わす方法もあったのではないかと思いますね。

多川 「大悦眼(だいえつげん)」ですか、確かそういう言葉もありますね。

鍵田 ええ奥義の第一です。「大悦眼」とは「にこっとする目」を指します。真剣勝負などで相手を斬ってやろうとすると、どうしても目にカが入る。目に力が入ると肩にカが入って、全身に隙ができるわけです。にこっとすることによって、肩の力が抜けて隙がなくなります。「大悦眼」とはそう言った意味で柳生新陰流と一緒なんですよね。人を活かす活人剣なんです。殺生してしまうための言葉ではないということですよね。

多川 相対しているんだけれども、できれば斬り合わないでそこで勝負をつけてしまおうということでしょう。

鍵田 ええ。闘う前に、殺生する前に勝負をつけてしまおうということです。

多川 それを編み出した胤栄さんは非常にスケールの大きな人ですよね。

鍵田 槍や剣のいろんな師に出会っているんですが、やっぱり一番影響を受けたのは上泉伊勢守です。伊勢守が奈良に来た時、伊勢守の弟子と闘っているんですがまったく歯がたたず負けているんです。それですごい人がいると、柳生の石舟斎のもとに早馬を走らせて一緒に弟子入りしているんです。そして石舟斎は新陰流で剣の極地として刀を持たない、もう一つの活人剣である柳生新陰流を編み出したのだろうと私は解釈しているんですが…。



文武一体 かつて宗教と芸能は一つだった
多川 胤栄さんはもともとの武道家ではないですからねぇ。われわれから言うと最後まで学侶ですから。「多聞院日記」には不思議なことですが、そういうようなことをやった記録が全然ないんですよ。

鍵田 明治の初めの廃仏毀釈で興福寺の子院はかなりなくなったんでしょう。

多川 もちろん、ほとんどなくなってしまったわけですよ。

鍵田 多聞院もですか。

多川 そうです。多聞院とか宝蔵院というのは石高にすると四十石とか七十石のいわゆる平坊なんです。興福寺の子院というのはランクがいくつかありまして、その当時ですから出によって貴族の出であるとか、皇族の出であるとかで入るところが違っていたんです。貴族でも高位の者と位の低い老とでは格が違うわけです。武家もそうです。おおまかに分けますと、門跡ですね、一乗院と大乗院。それから院家(いんげ)といいまして、要するに藤原の血を引いた人、それらが良家で二門跡四院家、そして、その他なんです。

鍵田 では宝蔵院はその他なんですか。

多川 その他です。(笑) そして、その他が一乗院系の子院と大乗院系の子院におおまかにいえば二つに分かれるわけです。簡単に言えば興福寺というのは一枚岩ではなくて、まったく遮断しているわけではなくてフレキシブルなんですけれど、大乗院系と一乗院系の二系列があって法要を行う時も大乗院系は大乗院系で一乗院系は一乗院系でやっているんです。

−宝蔵院はどちらの系列だったのでしょうか。

多川 大乗院系です。

鍵田 奈良ホテルの前に庭跡があるあの大乗院ですね。

多川 そうです。「多聞院日記」を書いた多聞院も大乗院門徒です。

鍵田 宝蔵院で寺自体として槍術に励んでいたのは五代目までなんです。江戸時代、安泰な世の中になって僧侶が殺生してはいけないという風潮が高まり、また寺が襲われることもなくなったためだと思われます。ですが宝蔵院は明治の廃仏棄釈まで存続していたわけで、その間は一生懸命、僧侶としての修行をされたわけでしょうね。

多川 それはそうですよ。実際に実技をやっていなくても宗家、つまり免状発行者になっているんですよ。少し変なたとえになるかもしれませんが、宗教と芸能はいまは完全に分離しているでしょう。しかし発生次元では宗教と芸能は一緒なんですよ。芸能自体が神さまを喜ばせるというか慰めるというか、そういうところから発展してきたでしょう。もともとは宗教家が宗教儀礼をした後、パッと着替えて演じて回っています。薪能などもそうですよね。堂童子がやっていたわけで、始めは宗教と芸能というのは未分化ですよ。だから学侶でありながら武芸を好むというのは一人の人格者として、ダイナミックに理解していたわけで、全然別のことをやっていると思っていないのですね。道は一つなんだと心得ていた。それで何代かやっているうちに分化というか専門化していく。そして結局、実技はやらないけれど、宗家という名だけを残して免状を発行していく、そういう立場になっていったんじゃないですか。



単なる学僧ではなかった 流祖・胤栄
鍵田 能の金春流の御曹子だった七郎氏勝も父親の金春太夫安照の求めで宝蔵院の槍の伝授を受けています。いま貫首がおっしゃいましたように武道も芸能ももとは一緒で、次第に分かれていったのでしょうね。

多川 そうだと思います。それがその時代の奈良の文化だったわけです。お能と武芸がどうつながるのか、いろいろな解釈があるでしょうけれど、武芸の稽古をやっていると自然に腰が定まるとか、きつとなにかがお能に生かされたのでしょう。

鍵田 われわれがやっていますのは宝蔵院流高田派の槍です。高田派は高田又兵衛から始まったのですが、又兵衛はもとは中村直政の門人でした。胤栄の一の弟子が中村市右衛門で、宝蔵院流の槍には中村派、高田派など多数あったのですが、いま残っているのは高田派だけです。武家がなかに入っていなければ宝蔵院の槍も続かなかつたかもしれませんね。

多川 そうですね。

鍵田 ところで、昭和51年に高田派の槍が奈良に里帰りした時、興福寺の稽古槍を一対いただきましたが、いまはもう正直いってぼろぼろになってしまって使えないのですが、お寺にはあとどのくらい稽古槍があるんですか。

多川 確かあと一対はあると思いますよ。

鍵田 くださいとは言いません。(笑)ぜひ一度見せてほしいと思います。今われわれで用いている槍よりもかなり長く、あれが本来の槍だといわれているんです。

多川 聞いたところによると、あれを片手で扱ったといいますね。それから、手許の石突(いしづき)の部分がこう丸と三角になっていて、暗闇でも穂の十文字槍が相手に対してどういう角度になっているか分かるんですね。槍は突いて出した時に隙ができて弱いでしょう。それで、出したらさっと引く練習をさせられたことがあります。すると、ぼとっと落ちるんです。(笑)

鍵田  高田派の槍合わせの型の一つに右手(うて)突きという右手だけを使う技がありまして、相手の素槍の上にこちらの鎌槍を乗せて吸い込ませるんです。ですが乗せるから落ちないんで、片手でじっと持っていられないですよ。

多川 相当腕力がいりますよね。興福寺には得度した年数によって僧侶に階層がいくつかあって、それぞれが集会を持っていたんです。「多聞院日記」 によればある時、その若い僧侶の集会で初年加行(けぎょう)の覚禅房以下五、六人はとんでもない悪さをしてけしからん、試験を受けさせるなという声が出ているんです。試験が受けられないと栄達できないわけで、集会で意見集約して、それが決まるとこれは学僧にとって大変なことです。どうなったか、後は書いていないんですが、その覚禅房が覚禅房胤栄かもしれない。その確率は相当高いんですよ。まぁ、やんちゃだったのでしょうね。(笑)

鍵田 やんちゃだったから、腕力もあったのでしょうねぇ。

多川 その人であれば、やはり単なる学僧にとどまらない器の人だったと言えると思います。

銀田 大河ドラマ 「武蔵MUSASHI」に出てくるのは二代の胤舜さんですが、吉川英治の 「宮本武蔵」に描かれているイメージが強いためか、胤舜もみんなごつくて大柄な方だと思っているようですね。

多川 残っている稽古槍をみても、あれだけのすごい槍を自由自在に用いていたのですから、やはり大柄な人だったということになつてくると思いますね。


近世を知ることが中世の理解につながる
鍵田 奈良の歴史文化をいえば千三百年の昔、平城京の時代にさかのぼってしまいがちですが、中世、近世にもみるべきものがいっぱいあるんですね。そういう意味で、宝蔵院の槍がその時代を代表して、奈良の歴史文化をつくってきたと次第に認識されるようになってきていると思うのですが−。

多川 おっしゃる通りですね。「宝蔵院流槍術願彰碑」を建てられたのは、本当にいいことをなさったと思っています。 奈良というすぐ古代、天平の時代をイメージしがちです。あるいはもう一度それらをルネサンスした中世、鎌倉の盛り上がりですね。あとはなにもないという意識が強いですよね。たとえば奈良の人が室町や江戸初期の仏像とかそういうものを見て 「ああ、あれは新しいですわ」なんて言うでしょう。それはまぁ、天平からいえば新しいんですけれども、近世、明治、大正、昭和があって始めていまにつながっているわけですよね。歴史というのは積み重ねです。伝世といいますか、時代から時代に受け継いでいくことに歴史の意味があるんですね。中世はまだしも、近世奈良の研究はほとんど手つかずで、これからだと思います。それで、「江戸時代の奈良はなにをしていたのか」ということで、興福寺仏教文化講座でも「江戸時代の奈良」というテーマで取り上げています。考えてみれば、比較的身近な奈良があまり知られていないということは変ですよ。近世の奈良を知ることは中世の奈良を理解することになります。おっしゃるように江戸300年、奈良が寝てたわけではないんですね。大事な文化を拾い上げて、奈良のグレードアップにつなげていきたいですね。

鍵田 顕彰碑の建立に際しましては、快く揮毫してくださりありがとうございました。奈良の人でも宝蔵院がどこにあったのか知らない人が多かったんですが、これでやっと所在も広く明らかにすることができるようになりました。この碑は私の後見人でもあった父(元奈良市長・鍵田忠三郎氏) が立てたいと願っていたんです。国の敷地内なので時間がかかりましたが、やっと念願が叶ったわけです。これからも歴史に恥じないようにはげみたいと思います。


2003.05.07
2003.05.06