宝蔵院流十文字槍術

中世から近世の最強の武術
宝蔵院流十文字槍術

   柳生新陰流と並び武道に大きな影響

月刊大和路「ならら」2002.1月号
発行:地域情報ネットワーク



中世から近世の最強の武術
宝蔵院流十文字槍術
    柳生新陰流と並び武道に大きな影響

宝蔵院流高田派槍術第二十世宗家 鍵田忠兵衛

月刊「大和路ならら 2002.1.1

南都興福寺から生まれた宝蔵院流槍術は、流祖胤栄や二代胤舜の弟子たちによって全国に広まっていった。宝蔵院流には、総合兵法の古武道・神道流と新陰流の活人剣の奥義が入っている。流派の大きな流れの一つである、宝蔵院流高田派槍術第二十代宗家、鍵田忠兵衛(かぎたちゅうべえ)さんに、古武道を継承している宗家として、これまでになく乱れていると言われる現代人の精神について、また宗家を継ぐことになった経緯や、使命、古武道が現代と融合するとはどのようなことなのか、などを聞いた。











宝蔵院流高田派槍術第二十世宗家鍵田忠兵衛
略歴 昭和32年8月、奈良市北御門町にて元奈良市長故鍵田忠三郎氏の次男として生まれる。
昭和36年、習心館道場で剣道を、39年、長谷川英信流居合を始める。
昭和50年、宝蔵院流高田派槍術第十八世宗家・故石田和外氏に内弟子として入門。
51年、国士舘大学政経学部に入学、剣道部に入部。
55年、卒業して帰寧、近鉄百貨店に入社。
58年より衆議院議員の父忠三郎の公設秘書となり、62年より内閣総理大臣中曽根康弘氏の秘書をつとめる。
平成3年6月、第十九世宗家・西川源内氏より第二十世宗家を継承。
7年、奈良県議会議員に初当選。現在に至る。


礼節の精神がいまの日本社会に必要
・・・宗家という立場から古武道を伝承することの意義や使命を教えてください。
鍵田 一番の使命は四百数十年続いてきた宝蔵院流を絶やすことなく後世に伝えていくということですね。戦国時代の末期や江戸の初期には槍術、剣術、長刀、弓術、鎖鎌、柔術、手裏剣など、数え切れないほどの武道の流派があったはずですが、今は約70余の限られた流派が残っているだけとなりました。
 私が宗家をつとめている宝蔵院流高田派は他の流派に比べて、恵まれていると思います。奈良市の中央武道場で稽古をさせていただけますし、道場の規模も宝蔵院にあった槍の道場と同じ規模の畳四百畳敷きの広さがあり、槍のように長いものを使う道場としては最適です。他の宗家は後世に伝えるために、いずれもたいへんなご苦労をされています。
 ただ後世に伝えるというだけではなく、古武道が培ってきた 「礼に始まり礼に終わる」という礼儀、精神面についても、これをもっと現代の社会に広めていきたいと考えております。現代は青少年も成人もたいへん乱れた社会の中におり、礼節ある精神が欠けていると思います。学校で起きる様々な問趣は武道精神があれば解決できると考えております。

・・・宗家に就任するきっかけを教えて項きたい。
鍵田 私の父は元の奈良市長の鍵田忠三郎ですが、奈良市が発祥の興福寺宝蔵院流槍術をなんとしても復活させたいという強い希望を持っていました。そして奈良市中央武道場を建設するにあたって宝蔵院の槍の稽古場と同じ規模の武道場をつくったのです。それ以前から、父は長い間、白毫寺近くにある宝蔵院一門の墓守をしていました。昭和四十八年に中央武道場を建設するにあたり、多くの剣道関係者が視察に訪れたとき、剣道の先生方に、父が宝蔵院一門の墓守をしていることを話し、「墓参りをされる方は案内させていただいます」と申し上げたところ、全日本剣道連盟会長の石田和外先生(元最高裁判所長官) がお参りしたいと申されました。その時は石田先生がまさか宝蔵院流高田派の宗家であることはまったく知りませんでした。
 そして、お参りを済まされたその墓前で父に「実は宝蔵院流槍術を少し嗜(たしな)んでいる。もし、よろしければ道場開きに演武させてもらってもよろしい」と仰せられたのです。中央武道場の道場開きに石田先生が奈良ゆかりの宝蔵院流の型を披露してくださるということなら、これほどありがたいことはないと、父はぜひにとお願いし、昭和49年9月28日に、見事な宝蔵院流槍術の型をご披露いただきました。父は感激して奈良で武道に関係している者としてぜひとも宝蔵院流を伝授していただきたいとお願いし、奈良県の剣道関係者である西川源内先生、鈴木真男先生、松田勇吉先生、私、そして一箭(いちや)順三さんが内弟子として上京したのです。その後、私は東京の国士舘大学へ入学し、剣道部に席を置いて剣道の稽古をしました。剣道部の稽古は早朝からの朝練があり授業の後ももちろん稽古です。たいへん厳しい環境にありますが、石田先生が東京の第一生命ビルにある道場で行う古武道の稽古日の毎週水曜日の朝は、大学での剣道部の稽古を休んで石田先生の下で宝蔵院流の修行をしました。昭和51年12月に、宝蔵院流宗家は石田先生から奈良県の西川源内先生 (現在奈良県剣道連盟会長、剣道九段範士) が受け継ぎ、ようやく、発祥の地奈良へ里帰りしたわけです。この後も引き続き稽古を続け、私が受け継いだのは平成3年6月です。私が宗家を継いでからは毎年、宝蔵院ゆかりの興福寺で奉納演武会をさせていただいております。
 平成12年は第10回目という記念の奉納でしたので、宝蔵院流に関係の深い他の流派も参加していただき、13流派1連盟で奉納演武会を行わせていただきました。
 柳生新陰流や宮本武蔵の兵法二天一流剣術など今日に伝わる古武道を輿福寺で披露することができたことは、関係者のご理解や尽力していただいたおかげであると感謝しております。

・・・現代人が古武道から学ぶことや、古武道が今後発展するための方策などはないでしょうか。
鍵田 私は武道を学ぶにあたり、「礼節」 の大切さをまず教えられました。また、道場へ上がるときは、履物を揃え、正面に一礼して入ります。今の子どもは靴を散らかせていることが多いでしょう。足元の乱れは心の乱れにつながります。武道ですので、相手に勝つことが必要ですが、まず、自分に勝たなければ勝てないのです。それには心の乱れがあってはダメですね。武道で学ぶ礼節が基本になると思います。
 日本でも犯罪が多発し、かつての高い精神性が失われてきていると言われています。日本人の心を取り戻すのには、古武道を始めとする武道の精神が不可欠です。過去においても戦国時代や江戸初期など社会が不安定であった時代には武道が隆盛しました。これは強い武道を求めるということでありましたが、精神性が問われた時代でもあったのです。今後、日本社会が不安定になり武道に寄せられる課題や期待は大きくなってくるのではないかと考えております。



毎週土曜日の午前10時から奈良市中央武道場で稽古が行われる。

「現代の社会には礼節を重んじる武道精神が必要」と語る鍵田さん


最強の武道、宝蔵院流十文字槍術 興福寺で発祥し全国へ広がる
・・・興福寺宝蔵院の十文字槍は、中世末から近世の幕末にかけて最強と言われた武道ですが、その歴史を教えてください。
鍵田 奈良は中世から近世にかけても日本の精神文化や古武道に大きな影響を残しました。奈良といえば、古墳時代、飛鳥、奈良時代を思い浮かべる人が多いでしょうが、中世から近世の古武道に関しても中心的な存在でした。剣では柳生新陰流、槍では宝蔵院流ですね。柳生新陰流は江戸幕府、徳川家の剣術指南役になり、将軍家に活人剣を教授する役割を担ったことは有名です。一方の宝蔵院流槍術は、興福寺の子院である宝蔵院の覚禅房胤栄が流祖として完成させ、全国に広がりました。胤栄は柳生宗巌とともに、当時の剣術の達人として名を馳せていた上泉伊勢守信綱から新陰流を学び、柳生宗巌は伊勢守より一国一人の印可を受け、胤栄は九箇までの指南を許される部分印可を許されました。胤栄が完成させた十文字槍を使用する宝蔵院流槍術は、胤栄の弟子たちが全国に、その技と活人剣に象徴される新陰流の精神を伝えました。なぜ諸藩で急速に宝蔵院流槍術が広まっていったかと言いますと、背景には、精神性の高さとともに武術としての無類の強さがあったからだでしょう。槍術としては革新的な十文字槍の誕生は、武術修行を行う胤栄が剣術、柔術、棒術、軍学の総合武術として知られる神道流を修行し、さらに上泉伊勢守から剣術の最強と名高い新陰流を学んだことからその発想を得たと思います。
 十文字の穂先を発案したエピソードとしては、胤栄が夜、猿沢の池のほとりで槍を突く稽古をしているとき、水面に浮かんでいる三日月を突いた。水面には波一つ立たなかった。ただ槍の先で左右に分かれている三日月が白く光を放っていた。この姿を見た胤栄は、槍の先を十文字にする宝蔵院流独特の十文字鎌槍を発案したと言われております。

興福寺で宝蔵院流の型を演武



宝蔵院流の奥義 第−は「大悦眼」

・・・宝蔵院流と柳生新陰流は兄弟のような関係と考えていいのでしょうか。
鍵田 槍術を完成させるために剣術を学び、柳生宗巌とともに当代随一と謳われた伊勢守から新陰流を学んだ上に、部分印可とはいえ印可状を得ていることからも、柳生新陰流とは兄弟の関係ですね。新陰流の活人剣は胤栄の編出した宝蔵院流十文字槍術にその精神と技が受け継がれました。宝蔵院流の奥義の第一は 「大悦眼(だいえつげん)」。これは、簡単に言えば「にこっとする目」 の眼差しで、身体全体のカを抜いて、槍を構えたり抜刀している相手と向き合い、相手の発する殺気を見切り、隙をつくらないということです。これは新陰流の活人剣の教えと整合しています。また、技の上では宝蔵院流槍術は、攻防一体で技を施す技法が多く、特に 「裏」 の型に見られる摺り込みの技法は槍術における活人剣が技の中に生かされていると考えられています。精神性や技法においては槍術、剣術と武器は異なっていますが、宝蔵院流と柳生新陰流は兄弟なのです。

・・・流祖の胤栄はどのような人だったんですか。
鍵田 流祖胤栄は、天文2年(153383日、13歳で得度して興福寺宝蔵院の法師になりました。「多聞院日記」 によると覚禅房胤栄は宗学研修よりも武術の稽古にカを注いだようです。胤栄は軍法、剣法、長刀、長巻、槍法、居合、棒術、などを含む総合的な兵法である神道流の大西木春見(おおにしきしゅんけん)に学び、槍術だけではない幅広い武術に目を向けていました。神道流は興福寺に関係する春日社の春日信仰と関係が深いことから、胤栄をもって「春日大明神所務の清僧」(高田派伝書) とし、「当流の本式は神道流と云也」 (下右派伝書)とする諸説が残っています。春見と胤栄の巡り合いは、時節ははっきりしていませんが、満田家文書の研究家などは天文22年(1553)、胤栄が33歳のときであろうと推測しています。神道流を学んでも胤栄にはまだまだやり遂げていないという気持ちがあったと思います。

流祖の胤栄は七十五歳で弟子の養成を始めた
・・・なぜ剣術の新陰流を学ぶことになったのでしょうか。
鍵田 そうですね。胤栄は伊勢の国北畠具教の手引きにより、新陰流で全国に名を馳せていた剣術の達人、上泉伊勢守信綱の一行を奈良に迎えて、知友の柳生新左衛門宗巌とともに初めて新陰流に触れました。このとき活人剣の魅力に強く惹かれたことが解っています。三年後に再び奈良を訪れた上泉伊勢守を引き留めて、直々に教えを受けていますから。宗巌は一国一人の印可を授けられ、胤栄は九箇までの指南を許される部分印可を授けられました。新陰流に強く惹かれたこと自体、まだまだ槍術でやり遂げていないという思いがあったのでしょう。この新陰流と出会うことにより、胤栄に再び宝蔵流槍術の技法の完成に向かって修練する決意を固めさせたようです。

・・・胤栄の弟子はどのような人たちがいるのでしょうか。
鍵田 胤栄は学侶の道を突き進み、元亀元年五月に権律師に進んでいます。50歳になっていました。天正26月(1574)には律師、3年後には権少僧都に昇進しました。胤栄が75歳のときです。能楽師、金春大夫安照から御曹司の七郎氏勝へ槍術を伝授してほしいという申し出がきました。氏勝の熱意に対して老躯に鞭打って槍術を伝授することを決意し弟子の養成を始めたのです。
 氏勝は能を修行するかたわら、武芸の修練に異常なまでの情熱を注ぎ、槍は宝蔵院胤栄、剣は柳生右舟斎、馬術は上村吉之丞、長太刀は穴沢浄見など当代一流の老師を次々と訪問し、みな皆伝に近い腕前になったといわれています。これ以来、胤栄が養成した弟子からは中村市右衛門、高田又兵衛吉次などを輩出し宝蔵院流を広く全国に広まるきっかけになりました。こうした弟子を残して胤栄は、慶長12826日、87歳で亡くなられました。共に新陰流を学んだ柳生右舟斎が世を去った翌年のことです。

二代胤舜がを完成 高弟が全国に広める
…今に伝承されている宝蔵院流は胤舜が完成させたと言われていますが。 
鍵田 胤栄以降、宝蔵院流槍術は世に名を残すことになりましたが、槍術の形態を完成させたのは二代を継いだ胤舜と言われています。胤舜は胤栄の甥にあたります。胤舜が宝蔵院に入ったときは胤栄は80歳を超えており、直弟子がいる奥蔵院の僧から槍術を学んだようです。「ニ天記」では、宮本武蔵が奥蔵院の僧と試合したことが記されていますが、実際はどうだったんでしょうか。ともあれ胤舜は多くの門弟を育て、その中に、中川半入、柴田加右衛門、高田又兵衛、長谷川内蔵助、磯野主馬、田中勘兵衛があり、この六人を胤舜門下の六天狗と稀しました。これらの高弟が宝蔵院流の分派を形成し、広く全国に広まっていったのです。宝蔵院では、胤舜以降も宝蔵院流の本流が継承者により伝承されましたが、幕末、明治維新、廃仏毀釈などを経て現在の興福寺には残されていません。

・・・なぜ、急速に全国に広まったのでしょうか。
鍵田 宝蔵院流槍術が広まっていつたことは、武術としての強さと新陰流活人剣の精神性の高さがあつたと思います。宝蔵院流は「突けば槍 薙げば長刀 ひけば鎌とにもかくにも外れあらまし」と謡われています。武器として当時革新的に優れたものであり、胤舜が胤栄のつくった槍術を完成させ比類ない強さだったんですね。安政3年(1856) に幕府講武所が開設されると槍術の教授方12名のうち、10名が宝蔵院流の使い手であったと聞いております。

・・・宝蔵院流高田派はどのようにして生まれたのでしょう。
鍵田 宝威院流槍術の門流は、中村派、高田派、磯野派、下石(おろし)派が初期に成立し、その支流、分流を含め、多数あります。中村派は、胤栄の一の弟子といわれる中村市右衛門に始まります。高田派は高田又兵衛吉次から始まりました。高田又兵衛は14歳のとき、中村直政の門に入り、のちに二代胤舜を助けて四人の息子に槍術を授けました。高田又兵衛の門人としては数多くの口伝書や覚書を残して流儀の普及に貢献した久世大和守広之をはじめ、森平三清政綱、河辺弥右衛門盛連、不破慶賀ら有名な武人を輩出したほか、小倉、福岡、伊賀、上野、会津、関宿などの諸藩に広がる基礎をつくり、森平三清政綱、竹内六郎左衛門勝重の門流は、近世未に大きな広がりをみせた流派です。

武の守り神、摩利支天石を興福寺に移転
・・・流祖胤栄が祀った武の守り神、摩利支天石(まりしてんせき)を宝蔵院流では大切にしておられるそうですが、摩利支天とは何かなど、説明してください。
鍵田 摩利支天とは梵語のMarici(陽炎)を神格化した女神で護身・勝利などを司り、日本では武士の守護神として尊繋されてきました。胤栄は宝蔵院の庭の大石に摩利支天を祀り、武道の上達と槍術成就を祈願して稽古をしていたと伝えられております。
 明治初期の廃仏毀釈で興福寺は荒れてしまい、宝蔵院の摩利支天石は祀る人もなく、宝蔵院跡地に取り残されていたのです。この話しを聞いた奈良市高畑菩提町の石崎直司氏の曾祖父で漢方医の勝蔵氏が、残念に思い自宅に移して供養し、さらに医業の守り神とさせていただきたいと発願されました。明治20年に十数人の作業員が、宝蔵院跡地から石崎家庭園までの五百メートルを太いロープで引き、数日かけて移動の作業をしました。この事業に奈良町に人々は大勢集まり、屋台が立つほどでした。
 それ以来、「お石さん」とお呼びし、石崎家で112年間、大切に祀られてきたのです。
 この摩利支天石を石崎家から寄贈していただき、平成11531日、興福寺の多川俊映貫首様のお許しを得て、宝蔵院ご縁の興福寺へ移転させていただきました。
 今は興福寺の南円堂近くの三重塔前に祀らせていただいています。武道の守護神としてお祀りしていますので、武道の精進を願う方はぜひお参りいただきたいと思います。

・・・ありがとうございました。


2003.0705