石田和外先生 弔辞
 いしだかずと せんせい ちょうじ


故 石田和外
全日本剣道連盟会長を偲ぶ

月刊「剣道日本」昭和54(1979)年7月号

弔辞
  本日ここに、(財)全日本剣道連盟会長故石田和外先生の葬儀が執り行なわれるにあたり、謹んでご霊前に哀悼の誠を捧げます。
 先生は、北陸の地福井市に生を享けられ、学業のかたわら小学校、中学、高校、大学を通じ一貫して剣道の修練に努められました。なかでも旧制第一高等学校時代、その大先輩で、のちに岳父となられた佐々木保蔵先生から、厳しいなかにも慈愛あふれるご薫陶を受けられたことは、石田先生ご人格の基盤になったものと拝察されるのであります。
 大学卒業後、裁判官に就任されてからも剣道に対する情熱はいささかも衰えず、三十代半ばには、「剣道の正しい道は古流の組み太刀や伝書に求めなければならない」との信念のもと、当時海軍省出仕で、のちに連合艦隊総参謀長になられた一刀正伝無刀流の道統を継ぐ草鹿龍之介先生の指導を受けて、同流第五代の宗家となられました。
 さらに、元青山学院々長・国務大臣の笹森順造先生から小野派一刀流を学ばれる一万、一高時代に学んだ宝蔵院流槍術の形が失われることをおそれ、宝蔵院流発祥の地奈良市の有志にこれを伝えられたのであります。
 最高裁長官ご退官後は、古都鎌倉に悠ゆう自適しておられましたが、昭和四十九年三月、木村名誉会長の強っての推挽により、第二代全日本剣道連盟会長にご就任、爾来五年二カ月の間「剣道の理念」と「剣道修錬の心構え」を制定して、正しい剣道の普及に努められたのをはじめ、全国数百万人におよび剣道愛好者の頂点に立って、斯界の発展に尽されました。
 ことに、昭和四十六年暮以来検討が進められていた、剣道試合規則および同審判規則の一部改正問題については、剣道界の論議が沸騰しましたが、先生はこの改正規則が必ず剣道の興隆に寄与することを確信され、終始これを支持して、本年四月一日施行の運びとなったのであります。
 去る五月三日の第二十七回都道府県対抗剣道優勝大会ならびに第十八回全日本女子剣道選手権大会は、改正規則による最初の公式大会でありましたが、先生の予見されたとおり、従前を上まわる極めて充実した盛り上がりを見せるとともに、審判員、選手を含め、関係者全員の納得する大会運営が円滑に行なわれ、大成功をおさめることができました。
 いま思えば、この輝かしい成功をお目にかけることができましたことは、私どものせめてもの慰めとなりました。
 先生は、引き続き、五月四日から三日間開催された京都大会で、全国三千人の高段者の演武を親しく観閲されたあと、同月七日、鎌倉にご帰宅になりましたが、その間終始お元気で、会う人びとを暖かく勤まされ、国の柱としての剣道の重要性を説かれました。
 しかるに、不幸病魔の冒すところとなり、五月九日朝にわかに不帰の客となられました。先生の急逝は、青天の霹靂のごとく私どもの胸を打ち、いま万感去来して語るべき言葉もございません。
 現在、剣道界にはご指道を願わねばならぬ問題が多々ありますが、この重要な時期に先生を失い、お教えを請うことができなくなりましたことは、まことに痛恨の極みに存じます。
 しかしながら、いまは申すも返らず、ここに私どもは、先生平素のお教えを心の糧として、困難な剣道界の諸問題に取り組み、いやしくも剣道界の進路に誤りなきよう心魂を傾ける決意であります。
 全国数百万の剣道愛好者とともに、先生の遺された偉大なご業績を偲びつつ、御霊安らけくいますよう心からご冥福をお祈り申しあげ弔辞といたします。

  昭和五十四年五月三十一日

             財団法人全日本剣道連盟 
        会長代理 副会長 河合堯晴



故 石田和外
全日本剣道連盟会長を偲ぶ

「からだで学び、教える」鍵田忠三郎

 

2004.11.06