歴史の一行を書く自覚と責任
連綿と受け継ぐ精神性を説く

宝蔵院流槍術第二十一世宗家 一箭順三


月刊エンタメニュース 2019.12月号
制作 大和政経通信社
歴史の一行を書く自覚と責任 連綿と受け継ぐ精神性を説く
宝蔵院流槍術第二十一世宗家 一箭順三

https://diginara.net/men/m001_020.html
月刊エンタメニュース 2019.12月号
制作 大和政経通信社

 剣豪・宮本武蔵と対決したと伝わり、攻防に優れる十文字槍が特徴の奈良の槍術「宝蔵院流槍術」は約470年前、興福寺の僧の胤栄を祖とし、現代まで脈々とその型と技が伝えられている。次世代に伝え残すため、第21世宗家の一箭順三さんは全国の一門を率い、「稽古で技や型を取得することはうれしく楽しいこと。けれど毎日の稽古は宝蔵院流槍術の歴史の一行を書くという自覚と責任を持たねばならない」と、連綿と受け継ぐ精神性を説く。


 宝蔵院流槍術は、柳生新陰流剣術と並び、奈良発祥の日本を代表する武道。戦国時代、現在の国立奈良博物館の場所にあった興福寺の子院・宝蔵院の胤栄が修行に武道を取り入れ、十文字鎌槍を考案した。「突けば槍 薙げば薙刀 引けば鎌 とにもかくにも外れあらまし」と歌に詠まれ、当時の画期的武器と伝わる。
 これの十文字の穂先が特徴で一箭さんは「突いたり、薙いだり攻撃するだけでなく、ひねり落としたり、受け止めたり防御においても効果を発揮する武器として江戸時代には多くの伝習者がいた」と語る。けして殺傷することが目的ではなく、相手を圧倒して負けないことが信条。江戸時代には高田又兵衛をはじめ、全国に宝蔵院流槍術の弟子が広まっていったが、明治期に宝蔵院は廃院。
 しかし昭和49(1974)年、奈良市の中央武道場が建設された際、胤栄の墓の整備などに尽力していた元奈良市長の故・鍵田忠三郎氏と、元最高裁判所長官で元全日本剣道連盟会長の故・石田和外氏が胤栄の墓参りをした。石田氏が「実は私、宝蔵院流高田派の型を少々たしなんでおります」と話したことを機に、宝蔵院流槍術が奇跡の「奈良へ里帰り」が実現した。
 武道家の故・鍵田忠三郎氏から薫陶を受けた一箭さんは22歳から剣道をはじめ、25歳から宝蔵院流槍術の稽古に打ち込んだ。稽古で使う槍の重さは2㌔以上。初めはとても重かった槍は、長年の修練でその重みを感じさせることのない演武を披露するが、流派が奈良へ里帰りしたこと、次世代へ伝える責任は、日々重みを増す。
 一箭さんは「稽古で技や型を取得するのはうれしいものです。それを伝えてきたのはすべて先人。470年伝えられてきた。我々はその次の世代に伝えるべきことを取得するためにいる。日々の稽古は宝蔵院流槍術の歴史の一行を書くという自覚と責任を持て」と説く。
 宝蔵院流槍術は胤栄の創始から男性のみが受け継いできた。しかし2年前から女性にも門戸を広げ、門下生を受け入れている。また道場は奈良だけでなく、東京、愛知、さらに海外ドイツにまで及び、門下生が次世代に残すべき型を連綿と受け継ぐため、修練に励んでいる。命を奪い合うことなく、相手を圧倒する精神性を。
 それらを伝える槍の柄も、林業の衰退や職人の減少などで手に入りにくい時代になった。一箭さんは保存会で寄付を募って山林を購入し、材料となるハナガガシの苗木を植樹。これらが伐採できるのは50年ほど先のことだ。
 胤栄の墓を守り、植樹した山の手入れもこなしながら、門下生を指導する一箭さんは、「次の世代、また次の世代が植えたこの木を使ってくれる。それを思うとうれしくて」と語る。ピンと張り詰める十文字の穂先は、未来へ向いている。


いちや・じゅんぞう
 昭和24(1949)年奈良市に生まれる。元奈良県庁職員。22歳から始めた剣道の道場長だった元奈良市長の鍵田忠三郎から技術指導だけでなく、人間性や精神性を教わる。宝蔵院流槍術の稽古に励み、平成23(2011)年の前宗家急逝を受け、翌年1月に第21世宗家に就任。奈良発祥の武道を後世に伝える。


URL:
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   




2019.11.29
2019.11.25